肌寒さに肩をすくめて、ライチは目を覚ました。まだ夜が完全に明けきらない薄明の森の中だ。
布団のぬくもりは心強く、地面の上でも体が芯から冷えずにすんだのは、ひとえにユイ婆おかげだろう。布団の中から体を抜き出すと、すぐ近くで草をもしゃもしゃと食む音がした。
「……おはよう、ムリーナ」
ロバのムリーナがのっそりと顔を上げて、鼻を鳴らす。フェラドのパートナーは、朝から黙々と草を食んでいた。
「おはよっす、ライチさん。ムリーナ、朝からモリモリとエネルギー蓄えて、さすがっすよね〜。見習わねぇと」
フェラドが半分寝ぼけ顔で布を丸めながら声をかけてきた。すぐ近くにはメルカトがすでに身支度を終え、荷を整理していた。
「おはようございます。夜からぐっと冷えましたね」
「おはようございます……もう出ますか?」
「そうですね、朝食のあとすぐ出ましょう。ライチさん連れでしたが昨日はいつも通り進めたので、ちょっと頑張れば、今日のうちによく使っている野営地まで行けるかと」
「今日の斜面はちょっと怖めっすよ〜。でも慣れれば全然怖くないっす。オレなんて、もう何十回って通ってるっすから」
フェラドが鞍を整えながら、ムリーナの耳元で「今日もがんばろうなぁ」と優しく囁いている。
「怖め、かぁぁ……」
「荷車が通れる道のはずなので、理論上、人一人ずつなら余裕のはずです。頑張りましょう」
「ライチさん、足くじかないようにマジ気をつけてくださいっすね〜」
二人に応援されつつ、再び歩き始めた道は、朝露と昨日の冷気でしっとりして、とても滑りやすかった。だがフェラドたちが「そこの岩は滑るっす」「その葉っぱ気を付けて」と逐一教えてくれるおかげで、ライチも慎重に足を運べる。
「川がかなり下に落ち込んでるな……」
昼を過ぎるころ、谷がぐっと狭まってきた。川の側の木々も少なく、むき出しの岩場が増えてくる。川はここで岩の間を縫うように走っており、水音が激しさを増している。
「こっからは、傾斜がキツすぎて、街道がかなり川から離れたり、近づいたりと蛇行するっす。
荷車はギリギリいけるかいけないか……の傾斜になるっす」
「そんなの……ずっしりと小麦粉とか積んだら、危なくないですか?」
「小麦粉を回収して帰る役人は、そのままだと重くて暴走するので、複数人で押し上げながらゆっくり下っていくんですよ」
二人が丁寧に教えてくれる。
なるほど。ベビーカーで急な坂道を下るときのやつだな。と一人納得した。
結構な荷物を背負った先頭のフェラドが、ムリーナとひょいひょいと急な坂道を下っていく。草履登山の経験のないライチは、縦にも横にも転げ落ちないように気をつけながら、必死についていく。
やがて道は山腹をなぞるようになり、街道まで傾き始めた。断層なのか、山崩れなのか。下はもう完全に崖だ。ちょっと足が滑ったら死ぬやつ。
「ちょ……ここはさすがに、荷車なんて絶対通れないですよね?」
どう考えても道幅が荷車より狭そうだ。荷物を乗せたムリーナがギリギリ通れるくらいの幅に、軽く苦情のような言い方になってしまうライチ。
風が通り抜けるたび、服がばさりばさりと揺れる。怖すぎる。
「前は荷車も通れたんですけど、今は崩れてしまってますね。また城下町の方から修繕にくるんでしょうけど、今は役人はここを通るときだけ荷物を下ろして、荷車を持ち上げて運んでるようです。俺達にはムリーナがいますけどね」
「……ここが、今日一番の注意点っすよ。あと少しで開けたところになりますから、ファイトっす〜」
二人の声に、ライチは気を引き締めて、しっかりと荷物を背負い直した。
(人一人なら、平均台くらいの細さだって通れるんだ。落ち着け、俺)
先を行くムリーナは、大荷物を背負って淡々と、一歩一歩、足元を確認するように進んでいく。ロバの力強さと慎重さが、この場面では何よりも頼もしい。
「もうすぐで崖のとこは越えるっすよ〜!その先、めちゃくちゃ景色いいっすから!初めてなら、ちょっと感動するっすよ、ライチさん」
フェラドの明るい声が、岩と風の音の中で軽快に響いた。
「っ、抜けたぁ〜!」
安全地帯っぽいところまで歩いて、ライチは大きく息をついた。フェラドにウインクされて、指さす方向を見ると──
遠くに霞むほど続く大河と、それに沿うように発展している街々が見えた。
この世界に来て、初めて広く世界を見下ろしている。なんだか、とても感慨深い。
「あ、あれが……?」
都市を見ながら、思わず説明を求める声を上げてしまった。世話焼きのメルカトが指を差して一つ一つ事細かに教えてくれるのだが……これがもう、さっぱり覚えられず、流し聞きになってしまった。
「今、ここから見て森に見えている場所に、ちょこちょこ開けているところがありますよね。それが、これから通る三つの村の畑です。
この領地には十二の村があって、全てが川の側に存在します。
森の中や、平野には、大河に繋がる支流が三本流れていて、あの左手前の平野に見えているのが一番太い【マグナラ川】。今下っているのが穏やかな【レニス川】。右手前の山の中を流れていて見えないのが、激流の【テヌーラ川】です。
森がなくなったあと、右に見える全ての支流の合流地点から続く大河【アルジェ川】の左側に発展してるのが、今目指している河港街の【オスティア】です。川沿いに発展してるので、細長いでしょう?ちなみに、川の反対側に霞んでいる都市が、隣領の【テュフティア領】です。
オスティア河港街から左側、川から少し遠のいたところにある、何重円にもなってる円形の都市が見えます。あれが、【カステリナ】中心街です。この【アゼルシルバ領】の中枢で、領主の城や、大聖堂、貴族街なんかがあります。外円には俺たちの住む下町や、貧民街、さらに円周の外には郊外村などもありますよ」
「うん……うん……なるほど……ははぁ〜 分かりやすいです、ありがとう」
どれもちゃんと指差す方向を見て一生懸命聞いたが……もうカタカナが多すぎるし、テュフ……とか聞いたこともない発音だし、耳を滑っていって仕方がなかった。なんか支流が三つ?あるのだけ聞き取れた気がする。……メルカト、ごめんなさい。
(街や川の名前なんかは、そのうち聞いてれば嫌でも覚えるだろう。うん)
ライチは決して『分からなかった』とは口に出さずに、素知らぬ顔で「進路はこっちですか?」と、広大な景色から方向転換した。
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難所のあとは、再び街道が緩やかに伸びていた。
「お〜、着いた着いた。ライチさん、頑張ったっすね〜。ちょくちょく使ってる野宿スペースまで来れたっす」
フェラドが拍手で讃えてくれる。倒木のそばに隠れるスペースがあり、風の通りも穏やかで、何より水場が近い。いい場所だ。
「今日はここで野営っす。ムリーナも頑張ったな。ありがとう」
フェラドがムリーナの背中から荷を下ろしながら、ロバの額に優しく手を添える。ムリーナは「ぶふぅ」と満足そうに鼻を鳴らし、足元の草を食べ始めた。
「今夜も冷えるかもしれません。少し木を寄せて、風よけにしましょうか」
メルカトが周囲を見回し、地面の傾きや枝ぶりを計算しながら、静かに三人の寝床の位置を決めていく。
ライチは持参していた布団を敷く。昨日よりも冷気が強いが、乾いた地面のおかげで体への負担は軽い。
今日はいそいそとメルカトが石を積み上げて簡易のコンロを作っている。
「あれ?今晩は火を焚くんですか?」
ライチが覗き込むと、また丁寧に教えてくれる。
「ここなら風と木立に隠れて煙も見えにくいので、短時間だけ焚いて、湯を沸かす程度なら問題ないでしょう」
「冷た硬いパンと干し肉がずっと続くと、顎がやられるっすもんねぇ……」
フェラドがしみじみと頷いた。
火はあくまで短く、慎重に。枝を小さく折り、火が弱まらないように手早くくべ続ける。干し肉と塩豆だけのスープでも、温かいし、パンが柔らかくなってありがたい。煙は木々の間に溶け込み、あっという間に夜気に紛れた。
「……盗賊って、あまり出ないんですか?」
怖い想像をちょっとしてしまい、ライチが恐る恐る尋ねる。
「滅多には。ただ、そういう油断が命取りにもなります」
「ですよね〜……オレ、昔ひやっとしたことあるっすわ」
フェラドが盗賊とニアピンしたが、ムリーナによって事なきを得た……なんて話を聞く。ライチは、別に勝ってもないが、心の兜の緒を締め直した。
火が静かに落ちていくころ、ライチは布団にくるまりながら、頭上の葉を見上げた。葉の隙間から星がちらちらと瞬いている。葉が擦れる音がそよそよと鳴る、静かな夜だった。
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朝。鳥の声とムリーナの鼻息で目を覚ましたライチは、身体のこわばりをゆっくりと伸びをした。布団は温かく、朝露からも守ってくれていた。
「今日はもう一息で村っすね!朝食はまた硬いメニューっすけど、もう少しなんで我慢してほしいっす」
「補給の予定ですし、屋根のあるところを貸してもらえるはずです。無理せず、焦らず行きましょう」
硬い朝食をかじりながら、ライチは二人の応援を受けた。
なだらかな砂利道ピクニックをひたすら続ける。
「……おお、ここまで来ると、もう自然って感じじゃなくて、“人の手の入った場所”って感じになりますね」
「ええ。地形が緩やかになれば、畑も作りやすいので人気も出てきますね」
昼を過ぎるころには、木がなくなり、耕された畑が見えてきた。人影もちらほら現れ、挨拶を交わす。
そして、おやつ時ごろ。ようやく三人と一頭は第一の補給地点、レンティッラの村にたどり着いたのであった。
「よっしゃ〜予定通り着いたっすねぇ」
フェラドが声を上げ、ムリーナがブフゥと大きく鼻を鳴らした。
「だんだん畑だ……」
細い道の先、石積みの段々畑に囲まれるように、静かな村が広がっていた。ここは平地ではなく、斜面を畑にした村のようだ。
乾いた風が通り抜け、畑の葉ををそよがせている。土の香りに混じって、干し草のようなにおいがした。
「豆と段々畑のレンティッラ村です。人の往来は少ないですが、俺達も温かく迎えてくれますよ」
メルカトが控えめに言い添える。
村の入り口に立つ柵のそばで豆を仕分けていた女性が、ムリーナの足音に顔を上げた。
「はい、おかえりよ。人が増えてるけど……?」
「どうも〜 こないだぶりっす。こちら、ニューフェイスのライチさんっすよ!」
フェラドが明るく紹介してくれたので、前に出てお辞儀をする。
「はじめまして。スピネラ村から来たライチです」
「おやまぁ。スカウトしてきたのかい?」
「へへ、まぁそんな感じっす」
女性は、へぇと相槌を打つと、村の中央を指さした。
「帰りは二日分の食料と、今夜の寝床もだね。三人分に増えてるって、一緒に言いに行ってやるよ」
家々は小さく、木と藁屋根の素朴な作りで、スピネラ村と似ている。段々畑には豆の束が吊され、畑仕事を終えたのか、泥だらけの子どもたちが無言のまま裸足で駆けていく。
ライチは、三人の後を少し離れて歩きながら、スピネラ村とオレウム村以外の小さな集落の空気をゆっくり吸い込んでいた。聞こえてくるのは風と足音、時おり交わされる素朴な挨拶。
「……静かな村ですね」
「スピネラより大きい村なんすけどね。村のカラーがあって、いいっすよね。ここには派手さはないっすけど、晩ごはんの豆料理が……沁みるんすよねぇ〜」
(豆かぁ。あんこ……は、日本以外であんまり受けがよくないんだけど、せっかく甘味シートがあるから、ぜひ甘い豆も食べてほしいなぁ)
おはぎ、大福、どら焼き、羊羹……う〜ん、美味しそう!
村の中央にある空き地では、三人の女性が豆を天日に干していた。そのひとりが、二人に気づいて穏やかに笑う。
「まあまあ、あんたたち。おかえりよ」
「スピネラでこのライチってのが一人増えたらしいよ。寝床と食べもん、一人分増やしてやんなきゃでさ」
最初の女性が三人に声を掛ける。しばらく会話をして、こちらを振り返った。
「ライチの分もこっちでなんとかしとくよ。いつもの村外れの寝床、三人だとちょっと狭いけど、いけんだろ。荷解きして羽を伸ばしときな」
女性が村の奥の方を指さして、そう提案してくれる。
「ありがとうございます。これ、いつもの交換の塩です。三人分に増やしてあるので、よろしくお願いします」
メルカトが丁寧に礼を言いながらムリーナに乗せてある塩の小袋を取り出して手渡した。
「はいよ。畑から帰ってきたら、村長に渡しとくね。うちの晩飯はスピネラとはまた違って、豆づくしで栄養満点!疲れも取れるよ。楽しんでいきな」
はじめの女性が小さくニッと笑った。よそ者ライチも、フェラドたちとまとめて温かく迎え入れてもらえて、感謝である。
外からの客用の小屋は、村を通り過ぎた外れにあった。ライチが建ててもらった店小屋に似ていて、簡素なひと間。台所もない。しかし、土間の代わりに、戸を開くとすぐに板間があり、そこに寝具の藁山が置かれている。
(おっ、入ってすぐ板間は珍しい。日本人としては、思わず靴を脱ぎたくなるな)
これであんこが出てくるなら、気分はほんのり日本である。綺麗に掃除したあと裸足で正座して、あんこと一緒に緑茶が飲みたい。
ライチが空想にふけっている間に、二人は手際よく動いている。
フェラドがムリーナをつなぎ、メルカトが積み荷を板間の奥に運び込む。ライチは藁山に自分の布団を広げてほっと息を吐いた。
(おお、人里で室内で寝れるって、こんなに安心感があるのか)
軽く砂を払いながら、今夜の素敵な寝床に機嫌を良くしていると、村長の使いの人が呼びに来てくれた。
そのまま村長家に通される。
スピネラ村と同じで、村長家は他より大きめの平屋だ。夕食の準備中なのか、豆を煮込む湯気が立ち上り、干し肉の香ばしい匂いが漂ってくる。家の中は清潔に保たれ、梁には干した豆の束が吊るされていた。
「おう、よく来たな。まあ座りな」
そう声をかけてきたのは、村長とおぼしき男性だ。白髪交じりの髪だが、背筋はまっすぐで、まだまだ働き盛りといった風情だ。年のころはグレゴルと同じ、四十代半ばだろうか。
「この村のまとめ役、カルダだ。スピネラ村から来たって?」
「はじめまして、ライチです。はい、旅の途中ですが、今はスピネラ村でお世話になっていて、畑仕事や機織りを手伝っています」
ライチは村長に挨拶をしてから食卓の椅子に腰を下ろす。
「この時期はそっちでも採れるヴェル豆が美味いよね。ホラ、うちのも採れたてで、甘くて美味いよ」
そう言って、奥さんとおぼしき女性が料理を並べていく。木の皿に盛られていたのは、パンと、グリンピースと刻み干し肉の煮物。豆のスープ。
「お、美味しい……!」
スピネラ村でも美味しいなぁと思っていたグリンピースのような豆だが、ここのはもっと実が太っていて、とても甘い。品種や土が、豆を育てる用に工夫されてるのかもしれない。
最安値のイタリアンファミレスでも、こんなメニューを見たことがあるな。結構好きで、学生のころよく食べてたなぁ。と、ふと思い出した。
(ルノも、こんなにぷりっと甘かったら喜んで食べ……ないか)
思い出しついでに、ちらりと少し偏食気味の娘にも思いを馳せる。緑のものは、総じて天敵な子だった。
「あったかくて、できたてで、美味いっすよねぇ。いつも丁重にもてなしてもらえて、本当に助かってるっす」
メルカトも、うん、としっかり頷いた。貴重な食料をよそ者にも分け与える風土があり、素敵な領地だなぁと思う。
次に食べた豆のスープは色々な豆を合わせた伝統的な味、という素朴さで、乾燥豆がとろけて、甘くないぜんざいのような食感になっている。香り付けには、ハーブが使われているし、野菜も入っているものの、ついつい砂糖を入れたくなる味だ。
「美味いだろう。うちは土地柄、麻よりも、豆の方がよく育つんだ」
(豆がよく育つ土地か……やっぱり欲しくなるのは大豆だなぁ。大豆があれば、豆腐も味噌も醤油も、きな粉も……あ〜、うまそう。どこかで見かけたら、ここで育ててもらえないか聞いてみよう)
そんなことを考えながら、ライチはスプーンを口に運び続けた。
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「……外で寝ると、ほんと家のありがたさがしみるっすよねぇ〜〜」
「今日ほど危険ではないですが、明日からまた二日間、荷を背負って移動ですから、ゆっくり体を休めましょうね」
板間に三人、川の字で眠る。ムリーナは戸のすぐ外で就寝だ。レンティッラ村には、乾いた風の音と、豆の葉が揺れる音だけが流れていた。