ロープの張られた船着き場は、すでに順番待ちの人で賑わっていた。前に並んだ荷車の車輪がゴトリと音を立てて止まり、渡し船に乗り込む順番をうかがっている。
「イカダか。子どもの遊び場でちょっと遊びで乗ったくらいで、ちゃんと川を渡るのは初めてだな……」
なんとなく船として機能してるのか、少し心配だ。視線の先では、ロープに沿って、木のイカダを底にした平たい渡し船が川を横切っていた。
川幅は百メートルを優に超えている。水面は一見穏やかだが、中央に近づくにつれ、褐色のうねりが船の下を押し流していく。
やがて舟がこちら側の船着き場に近づくと、渡り終えた人々が順に降りてきた。ロバに引かれた荷車を慎重に降ろし、濡れた板の上をゆっくり進んでいく。舟が空になると、係の男が木の棒で軽く板を叩いて合図を送った。
メルカトが通行料らしきものを硬貨で払っているのが見える。
(ここは塩じゃなくて硬貨なんだ)
じわじわと貨幣社会が近づいてくることに、ライチはそわそわとした気持ちになった。
「次、三人とロバ一頭だ。動物は落ち着かせて乗んな」
ライチたちは声に促されて渡し船に乗り込んだ。定員は十名ほどらしく、こちらのムリーナと積み荷を合わせて、あと五人が乗り込んできた。
板張りの床はギシギシとたわみ、舟が揺れる。送り出す係員がひょいと留め紐を外すと、船頭が川上側のロープを引き、船尾で棒を突いて舟の舳先を斜めに向ける。流れに乗った舟は、自然と対岸へと押し出された。
「すごいな……これ、オールも帆もないのに、棒一本と流れだけで川を横断してる」
「角度が肝心なんすよ。風を上手く当てて進む帆船にも似てるっすかね。うまくやらないと、ただ流されるだけっす」
確かに。言われてみると三十度から四十五度くらいの角度で、船頭が上手く流れに合わせて調節している様子が窺えた。さすがのテクニックである。
川の真ん中に差しかかると、風が涼しく吹き抜ける。イカダライドもなかなか悪くなかった。
「で、この渡し船にはいくら払ったんだ?」
イカダから下りて歩きながらメルカトに聞いてみる。
「一人二十Gで六十G、ムリーナが二十G、積み荷が五十Gでしたよ。合計は、百三十Gです」
(おおっ、ちょっと船に乗るだけでバルゴさんの一日の働きがパァだ……。この世界の農夫の賃金とは全く合わないけど、仮に日本の日当と合わせて一万円だとしたら、一万三千円くらいのライドか……懐が痛いな〜……)
家族移動になると、移動費も一家族分だ。今はライチ家の子供たちも幼児で、まだ料金はかからないことが多いにしても、末っ子ロクが中学生になるころには、一家で動くだけで嫁のリノは四人分の支払いをするのである。遠く離れた地からでもしっかり仕送りをして、移動費程度には困らないようにさせてあげたいものだ。
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「おお、並んでる。入国審査ならぬ、入港審査だ」
昼食を食べてすぐ、河港に入ろうとする人の山が見えてきた。昨日の市にいた人たちが河港や、河港経由で城下町に帰ろうとしているらしく、ヴェルディナ村からの道中でもポツポツと列になっていたし、前方に見える関所では長い行列になっている。
スピネラ村を出て七日目。ついに『街』とつく場所にたどり着いた。
近づいていくと、先が尖った背の高い木柵と、荒石造りの低めの見張り塔が見える。
『街』の防衛にしては、思ったよりも簡素な造りだ。敵に火なんか着けられた日には、一撃で全焼しそうである。対人戦用というより、ここで入港の審査をするぞというアピールが目的のように思えた。
「次!」
柵の間に設けられた木の扉の前には、門番が立ち、一人ひとりに声をかけ、名前や目的を尋ねている。
門番といっても、中に着ているのは村の大人たちと大差ない、日焼けした麻のシャツにくたびれたズボンだ。ただ、その上から羽織っている濃い黄土色のベストが制服感を出している。袖のないその上着は、紐で胸元を留めてあり、その中でも特に目を引くのが、ベストの左胸に縫い付けられたくすんだ青色の小さな布だ。青い布はこの世界で初めて見たし、染めるのも難しそうだ。青い布には黄土色の刺繍で、三本の麦の穂がまとまって、一本の川の流れになるような紋章が描かれていた。
(三本の支流が大河に……領地のシンボルかな?)
頭には制服らしく黄土色の丸帽子が。目立たせるためなのか、つばの端にはカラスの羽のようなものが一枚、差してある。
右手には、地面を軽く叩くようにして、長めの木製の警棒を持っていた。節のある太い枝を削って整えたような作りで、柄の部分には簡素な革巻きが施されている。
腰の革ベルトには、小さめの短剣が下がっていた。柄がよく使い込まれて、ところどころに擦れた跡が見える。
ものすごくガタイが良く、ライチなんかは一捻りにされそうな感じの強面だ。
第一街人相手にじろじろと見てしまったが、自分の番が近づいてくると、やましいことはないのに、強面すぎてさっと目をそらしてしまう。
門番のチェックの先では、荷物も見られ、その後入港税を徴収しているようだ。
「入り口では名前と目的を聞かれますので、行商人の物販に同行することを伝えてください」
一番前になった。隣を歩くメルカトが、穏やかに教えてくれる。
「次!」
強面門番に呼ばれて、三人と一匹で前に進み出る。
フェラドとメルカトはマントの内側に縫い付けてある金属のボタンのような物を門番に見せている。よく見ると月の満ち欠けのような形をした紋章が見えた。
「お前は?」
強面のギラつく双眸が、ライチを上から下にじろじろと睨めつける。……大丈夫。変な格好はしていない……はず。
「ライチです。行商人の物販に同行します」
「行商人。それは正しいか。こいつの身元を保証できるか」
「保証します」
メルカトが微笑みながら言った。この場合の“身元”とは、出身という意味ではなく、“信用”という意味だろう。
「同行人。税を払ったあと、通行証が欲しいと徴収係に申告するように。……次!」
無事に強面ゾーンは通過できたようだ。続いて、持ち物の点検が始まった。
強面と同じ格好をした徴収係らしい細身の門番が、ざっくりとムリーナの積み荷と、背負子の中身を見る。
「行商人っす。スピネラ村の生産物を持ってきたっす」
「三名とロバ一頭だな。入港税は、一人百G、ロバが三十G、荷物が百Gだ」
(農夫の日当の一日分だって……?!渡し船の計算と揃えるなら、日本の日当一万円として、街に入るだけで一万円だぞ。荷物とロバと俺達で四万三千円?!たかっ!)
「ちょっと待ってな」
ライチの衝撃をよそに、細見の門番が、横向きに線が何本か引かれた板の上に石を乗せていく。上から三本目の線の上に石を三個。上から二本目に石を三個。最後に、上から三本目の線の上に、石を一つ加えた。
石はその辺の川原の丸い石だし、板の上には乗せてあるだけ。どうやらものすごく原始的なそろばんのようだ。
「計、四百三十Gだ」
(いや、暗算で秒でできるやつ……!)
専門職ならもう少し計算ができてもいい気もするが……。と、よくよく思い出せは、スピネラ村では計算どころか、ちょっとした数も怪しかった。それを思うと、百や十をわかって、位を揃えて計算ができているだけ、かなり文化的な人なのかもしれない。
「はい、こちらです」
メルカトが袋から硬貨を取り出し、手のひらに広げて差し出した。門番が指先で数えながら木札に何かを彫り込んで記し、通って良いぞと許可を出した。
「あっ……通行証が欲しいです!」
慌ててライチが申し込むと、ほらよとばかりに簡素な木札が渡された。焼き印で、門番の青い布と同じ麦の穂のマークらしきものが、ぼんやりと焼き付けられている板だ。
「……ふぅ〜。入れたっすね、ライチさん!ようこそ、オスティア河港街へ!」
一足先に木の柵の中へ入ったフェラドが、腕を横に広げて歓迎してくれる。
ライチも中に入ると、まず正面に、長く伸びた乾いた土の道が目に飛び込んできた。その両脇に、倉庫のような大きい建物や、木造の小さな建物がひしめき合っている。行き交う荷馬車と人波の間を縫わないと進めないような賑やかさだ。柵の外から聞こえていた活気は、目で見るとさらに勢いがあるように思える。
どの建物も、川の氾濫に備えて、石の土台の上に建ててある。室内に入るには軽く段を上ることになりそうだ。建物の軒先では川魚らしい見た目の魚が吊るされている。ウナギのようなものも見えて、興味津々だ。
舟着き場には、川向こうの……細工の……テュ……なんとかという領地から来たのか、底の平たい木製の船がいくつも繋がれており、裸足の男たちが荷を担いで下ろしていた。そっと運ばれる高級そうな木箱に、お酒っぽい大きな樽、麻袋、毛皮……何から何まで見たことのないものばかりだ。
「おい、荷車はこっちだ!……って、おい!!それ小麦だぞ馬鹿!泥の上に置くんじゃねぇッ!!」
あちらこちらで怒鳴り声が飛ぶ。ライチは当事者になった気になって思わず少し肩をすくめながら、引き続き目をきょろきょろさせていた。
(すごい、活気だ!……でも道が舗装なんてされてないから、泥でぬかるんでは固まって……かなりの凹凸の悪路だぞ。荷車も、荷物が飛んでいきそうなくらいガタガタしてる……。発展途上国とかでは見るけど、日本の都市ではなかなかお目にかかれないな)
そして、少し前を見れば、門を入って真っすぐの通りの先に、ぽっかりと広がっている大きな市の広場がある。
「週二回のヴェルディナ村の市と違って、こっちの市は毎日この調子っす。この街の商人組合までの通り道なんで、軽く見ていきましょっか」
「……すごい……」
フェラドたちについていきながら、キョロキョロが止まらない。
くん……と匂いも嗅いでみた。港町、とはいえ、もちろん河港なので海の香りはしない。潮ではなく、泥の匂いと、スパイスなどの商品の匂い、食べ物の屋台の匂い、行き交う家畜の匂いが混ざり合って漂っている。
市のある広場へ着くと、露店だけでは足りないのか、あちこちの地面に敷いた布の上に、様々な品が並べられていた。干し肉、チーズ、クルミ、陶器の皿、鍛冶で打ったばかりの包丁――それらを囲む人々の手には、硬貨もあれば、硬貨代わりに、美しい石のけけらや塩、羊毛の束なども交換の道具になっていた。
「これ、塩一袋と麦五束で足りるか?」
「重さが違うじゃねぇか!もう少し足せ!」
あちこちで言い争いながらも、どこか楽しげに交渉が進む。買い物というより、等価交換の儀、という雰囲気だ。
(ここでも物々交換と貨幣支払いが半々くらいか……こんなにお金に出会えないと、そろそろATMさんに、塩で支払いできないか頼みたくなるな)
心中の冗談に、にやっと笑っていると、ふと、チーズを売る女性と目が合った。
「そこの良いところ出のお兄さんや。牛のチーズはいらんかや? 舌の肥えたあんたらにも、さぞ満足してもらえる味だで」
「良いところ……? ……あぁ、そうか、晴れ着か」
自分も村長の晴れ着姿を見たとき、異国の貴族か?と思ったくらいだったのを思い出した。
「お姉さん、ごめんなさい。俺は今のところほぼ一文無しなんです」
ライチの発言を冗談だと取ったらしく、女性がほっほ、と笑った。
「そうさな。そこのお付きの二人が金庫番だがやな。一声これを食わせろと命令すりゃ、済む話だろに」
チーズ売りの女性は、まだほっほっほ……と愉快そうに笑っている。
(お付きの二人ね……なるほど。見る人によってはそう見えるのか)
確かに、行商人らしい移動用の格好の若い二人と、汚れもなく美しく染色されたツヤツヤのポリエクロスのいい年の優男が一緒に歩いていたら、そう見えてもおかしくないのかもしれない。
「お姉さん。今は先を急ぐので、主人には時間がなくて。またの機会に」
メルカトが悪ノリしてニコリと微笑んで会釈をする。なかなかに悪いやつだ。主にライチにとって。
「……目立つっすよね〜、その格好。念の為、みんな避けていくっすもんね」
フェラドが笑う。確かに、汚したら大変だ!とばかりに、馬車も荷車も大きく避けて泥ハネをしないようにしてくれる。
「さすがに、貴族とまでは思われてないよな? お金持ち、くらい?」
ライチがちょっとした雑談のつもりで尋ねると、二人はきょとん、として顔を見合わせた。
「“旅の人”って、そこから認識違うんす??」
「服装はともかく、貴族には、さすがに見えないと思いますよ」
なんとも意味深な言い草だ。
「どういう意味――」
と聞きかけて、フェラドのセリフに上書きされる。
「着いたっす!ここが、オスティア河港街の商人組合っす!! ぃよっし!やるっすよぉ〜!!」
市の広場の中央で左に曲がり、たくさんの建物が立ち並ぶ大きな道を少し歩いた先。
他の木造のものとは大きく異なる建物が建っていた。
厚い石の塊を積み上げたような外壁は、灰色がかった無骨な色合いで、年月を経て角が丸くなっている。木の扉は重厚で、鉄の留め具がところどころ錆びつきながらも堅牢さを物語っていた。
建物の正面、扉の上には、ひときわ目を引く紋章が飾られている。石に彫られたその紋章は、フェラドたちがマントの内側につけていたボタンにあった、月の満ち欠けのような模様だ。白っぽい石は、昼間の光に淡く反射し、不思議な威厳を醸し出している。
窓は少なく、小さい。近くの一つをよく見ると、窓穴の中に、ガラスではなく薄い羊皮紙のようなものが張られているようだ。
屋根は瓦のような重ね方の木の板で覆われており、その苔から、雨風に耐えてきた歴史を感じさせた。
「そうか、商人組合……着いたのか」
いよいよ、自分がクラフトしてきたものの価値を示す時が来たのである。
ライチは服装と髪型、姿勢も正し、胸を高鳴らせながら、ゆっくりと入口の石段を上った。