重厚な木の扉の入口には左に三本麦、右に月の満ち欠けの紋章が染められた黄土色の布の垂れ幕がかかり、その隙間から中の薄暗さがうかがえる。
二人が上がってこないな、と振り返ると、入口のすぐ脇に荷運び動物用の囲い場があり、二人が慣れた手つきでムリーナを杭につないでいた。フェラドがムリーナの鼻先をぽんと叩く。
「お疲れ、ムリーナ。ここからは俺たちの見せ場っすよ。ちょっと待っててくれな」
手早く丁寧に包まれた商品が下ろされていく。
「組合長は、今のこの時間ならここにいると思うっす。結構なお年っすけど、元川渡しの船乗りで、なんかいまだにオラオラしてるんで、ビビらないでくださいっす」
フェラドが軽く説明をしながら、荷物を包んだ風呂敷のような布を抱えて段を上ってきた。
「トルヴェル組合長は新しいもの好きですから、きっと興味を持たれるかと」
メルカトもたくさんの荷を抱えて追いついた。
布を払って中に入る。建物の中は、しんとした空気に包まれていた。
床は踏みしめるたびに ぎし、と音を立てる板敷き。
窓は少なく、壁の高い位置に空けられた小さな開口部には、羊皮紙のようなものが張られ、そこから光が差し込んでいる。
入ってすぐは廊下になっており、左に二つ扉がある。右には上下に続く階段が見える。どうやら上階と地下階があるようだ。廊下の先、正面の大きな部屋には、粗末な木の机と椅子が数脚。
そのうちの一つに、女性が腰掛けている。青い布を左胸に縫い付けた黄土色のチュニックに、同じく黄土色の帽子をかぶった彼女は、板に何やら書きつけている。帽子の飾り羽は白だ。
「フェラドたちかい。…………何の用だ?」
ライチを見て、かなり間をあけてから問いかける。職員らしきその言葉に、ようやくライチは気付いた。
(……はっ!もしかして、この人こそ、“ギルドの受付嬢”ってやつでは……!)
組合とはギルドのことだ。なんかこうプルルとしてる女性が『冒険者登録ですね』と笑顔で迎え入れてくれるイメージを持っていたが……目の前の光景はすごく現実的で、ライチはなんだかじーんと来てしまった。
(創作世界が現実になると、こんな感じなんだな)
「組合長にお会いしたくて。面会を取り付けられますか?」
とメルカトが尋ねると、女性は頷き、マットに黒く光る板を差し出した。
(黒板……? ……じゃないな、蝋だ)
木の枠の中に黒い蝋を塗ったもので、すでに上から何人かの字が書いてある。
「書くのは、名前、目的、持参品、でしたね」
女性がこく、と頷く。メルカトが尖った鉄のペンを持って、蝋を押し付ける形で書き込み始めた。
「ポリクロ……あ、ポリ“エ”クロスでしたね」
メルカトがそう言いながら、間違えたらしい字に指を乗せて、素早く何度も擦り付ける。柔らかい蝋なのか、摩擦熱で字が消えて、ちょいちょいと均せば平らに戻っていく。しばらく冷やしている間、メルカトは別の場所の字を書き始めた。
(ふぇらど、めるかと、らいち……うん、読めるな)
これはスピネラ村からの道中、休憩中の暇つぶしに行った実験だ。
メルカトに字を教わったところ、この世界の言語はアルファベットをもじったような形をしているらしい事がわかった。そして、誠にありがたいことに、ライチの目にはその文字の上に日本語でルビがふってあるように見えるのだ。
アルファベットといっても、『ABCDEFGHI KLMNOPQRST V XYZ』の二十三文字で、J はなくてI が、U はなくてV がその役割を兼ねているようだ。W は完全にないらしい。
地面に書かれたFerado(フェラド)、Mercato(メルカト)、Laichi(ライチ)を見て、なんとなく読める気がしたところで、まだ敬語時代、『ジュリアはどう書くんですか?』と聞いたら、メルカトは【IVLIA(ジュリア)】と書いてくれた。確かにルビはジュリアだが、異世界語の方はどう見てもイヴリアにしか見えず、ここでもうライチはお手上げになった。
次に行ったのが書く実験だ。(よし、ジュリアを書くぞ……)と思ってから書くとどうなるのか? イヴリアと書けるのか? という実験だったが、オーマイゴッデスなことに、書くぞと念を込めれば、ご丁寧にもルビと同じく、木でこれから書こうとしている地面に、うっすらと異世界語を浮かび上がらせて待っていてくれるのである。ライチは拙いながらもそれをなぞれば、異世界文字のIVLIAが書けてしまう……という寸法だ。
めちゃくちゃキレまくった神様に、すごく優遇してもらってて、ライチはなんともいたたまれない気分になった。……いや、勝手な転移には全然納得はしていないが。
そんな回想をしている間に、メルカトが蝋板に面会予約を書き終えたようだ。女性に提出している。
「待ってな」
女性はそう言うと、ライチたちの横をすり抜け、廊下にあった階段を上っていった。
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階段からダン、ギィ、ダン、ギィ……と足音と木の軋む音がする。廊下を見ていると、男性が現れた。先ほどの女性も後ろについている。
歳は、村長たちよりさらに上に見える。五十歳ごろだろうか。川渡しの船乗りとして、日光と川の反射光に長年曝されたその顔には、深い皺と濃い斑点がある。眼光は鋭く、鍛え上げられた身体と、舟に慣れた者特有の重心の低さがあった。
くすんだ藍色のチュニックには、左肩に銀糸で月の満ち欠けの紋章が刺繍されている。腰の革ベルトのバックルには、収束して川になる三本小麦が描かれていた。
そんな彼の足が、広間に踏み込んだ瞬間。視線が、まっすぐライチに注がれた。上から下まで、チラリと値踏みするように見る。
次の瞬間、男性の表情がころっと変わった。顔が緩み、笑みが咲く。とろけるような、営業スマイルだ。
「これはこれは、はじめまして。組合長のトルヴェルと申します。さて、お見受けしないお顔ですが……本日は、どのようなご用命でございましょう?
フェラドか、メルカトが……何か失礼でも?」
フェラドとメルカトが否定の身振りを取る横で、ライチは少し困ったように微笑んだ。
「いえ、あの、俺はスピネラ村に滞在している旅の者でして……今日は、村で作られた新製品を売りたくて持ってきました」
「ほう……?」
トルヴェルが『続きをどうぞ』とばかりに片眉を上げる。
「この服なんですが、スピネラ村に製法を伝えて、皆で作った“ポリエクロス”という布でして。これに加えて、砂糖のような甘みを引き出せる甘味シートも持参しています」
「それから、彼が今日してきているヘアケア方法も」
メルカトが補足してくれる。
トルヴェルの顔から笑みがスッと消える。にこやかだった顔が、一気に乾いた皮だけになったかのようにストンと落ちて静かに強張った。
「…………なるほど、なるほど。新しい布に、ヘアケア……更には砂糖、と」
ひと呼吸。
「ボウズ、詳しく聞かせろや」
途端、ぎらつく双眸がライチを射抜いた。
そこにいたのは野獣。商品価値を嗅ぎつけた、商売相手を逃さない獣の目だった。
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「――と、いう製品になっています」
廊下に二つ並んでいた部屋に入り、グレゴル村長宅で、お湯をかけたり、糸を火に近づけたりした実験を、トルヴェル組合長にも見せた。甘味シート水も試飲済みである。
「ふむ。指摘点が一つもねぇ。怖いくらい良いもんを生み出してきやがったな」
どの実験にも驚いて真剣に調べていたトルヴェルが頷く。フェラドもメルカトも実際に見るのは初めてだったので、布を煮沸しても縮まず、染色の色持ちも良いところなどに終始驚いていた。
「うちの組合だけで処理できる品じゃねぇ。まずはアゼルシルバ領主の城下町、カステリナ中心街の方の商人組合に話を通さねぇと。
その後はおそらく、貴族様向けに卸して、高級路線で売るところからだろうな。このままだと、なんで平民どもが貴族よりいいものを着てるんだ!って難癖つけられちまう」
それは当初からライチも考えていたことだ。生産力が確保できるまでは高級路線。ある程度行き渡ってきたら、その次に富裕層、その次に市民、そして最後に、念願の市民のベビードレスやキッズ服まで回ってくるのである。
糸紡ぎが格段に速くなる分、前よりも服の供給が多くなり、ゆくゆくは、布オムツに回せる布も増える……はずである。元々は布オムツのための布だ。ライチは絶対に諦めない。
「……残る懸念は、生産力だな。村から製法を出さない誓いなら、貴族や金持ちの搾取は避けられるかもしれないが、いくら良いものでも、畑仕事をしながらの生産では、需要に追いつかねぇだろ。貴族なんてビラビラフリルのたっぷりついた膨らんだ服を、何着も何着も持つんだぜ。甘いものだって目がねぇだろう。まずはそこから足りねぇや」
それもライチもずっと考えてきたことだ。
「そうなんです。布や甘味を安価で市民に届けたい俺としては、人手のことを考えると、製法はあちこちにバラまきたいんです。街の方が良い環境で効率よく作れるでしょうし。ただ、原材料の量が現状、それに耐えられるかが分からず……。お世話になってる村なんで、村の分の材料がなくなるのだけは避けたいと思っています」
材料さえ揃えてくれれば、溢れる行き場のない父性により無限にクラフトポンができる気がするが、肝心の原材料だけは、どうしてもクラフトができない。
スピナ麻とネバリダケとクリザ葛とミズヨリグサは、どこかの土地に広く植えて育てることができれば、今後、かなりの生産力になるかもしれない。問題はベトノキだ。増やしたくても、木が育つまでは何年、何十年もかかってしまう。
リノたちの世界と、どれくらい時間の進み具合が揃っているのかは分からないが、父親不在の今、できるだけ早く仕送りが出来た方が良いのは間違いない。木が育つのなんて待ってられない気持ちだ。
「うちの領地にゃ森が多いからな。スピネラの近くの森にあるもので作れるなら、探せば森の他の地域にももっとあるかもしれねぇな。貴族様が喉から手が出るほど欲しくなって、領地にバラまく魔力を増やしてくれれば、収穫量も上がるかもしれねぇし」
(……ん?)
「魔力をバラまく? 収穫量が増える? とは?」
初耳ワードだ。
魔力と言えば魔法!貴族は魔法が使えるのか?
ライチは首を傾げて問いかけた。魔法なんてそんな……是非見てみたい。
「なんか来るときもそんなこと言ってたっすね。自分が貴族に見えるかどうか、みたいな」
フェラドが頷くと、トルヴェルが唖然とする。
「旅人らしいが、そんなことも知らない領地から流れてきたのか? どんな僻地だ? ……まぁいい。説明するぞ」
トルヴェルはドカッと音を立てて椅子に座った。ライチも続いて椅子に腰掛ける。
「まず大前提に、領地に魔力が行き渡ってないと、命が育たねぇ。緑も、動物も、お腹の胎児も、みんなだ。貴族様は、魔力を持つ者のことだ。魔力を、魔道具を通じて領地に納めることが、貴族としての大きな義務で、これには全ての命がかかっているから、領民はいくらでも税を納める」
(お……思ってた感じの魔力と違う)
明かりよ!とか言ったら光る感じの魔力じゃないようだ。命が育つ力って……なんだ。ちょっと想像ができない。
「魔力……って、他に使い道はないんですか?」
ちょっと……いや、かなりあってほしいと願いながら尋ねる。
「ありますよ」
これにはメルカトが答えてくれた。朗報である。
「貴族の邸宅には、魔力で動く魔道具が配置されています。これらは、巨大なモンスターの魔石を使って作られているので、驚くほど高価です。高位のモンスターは神聖力でないと倒せませんしね。その魔道具を動かすのに、魔力が使われます」
(神聖力? なんかまた新しいのが出てきたぞ)
「余った魔力は自宅に消化してるパターンしか聞かねぇな。魔道具は高価だから、明かりに使うのか、水を通すのに使うのか、火をおこすのに使うのかは、家系の魔力の特性や、領地に納める魔力の多さ……つまり、収入によっても大きく差が出るわけだな。おっ、そうか、特性も知らねぇか」
トルヴェルが続ける。もちろん、特性だって知らない。そして、魔力の説明で手一杯で、神聖力について聞く余裕もない。そのうち折を見て聞くしかなさそうだ。
「額の魔石の色を見りゃ、何の魔道具で効果を発揮しやすい魔力持ちなのか、すぐ分かる。火は赤、水は青、風は緑、土は黄だ。黒もいるが、これは一時的に魔力を封じられた状態……まぁ、罪人ってことだな」
「額の魔石?」
(この感じだと、魔法にはどうも使ってなさそうな言いっぷりだ。実に残念だなぁ)と思っていたところに、また意外なワードである。
「お前は、森ではモンスターは見たことがあるか?」
「え? は、はい。ウサギのモンスターは二度ほど」
急に全然関係のない話を振られ、必死に記憶をたどった。バルゴがクワで殴ったり、顔肉を削いで、額の魔石を取っていた記憶がよみがえる。
(あ、そういえば、額の魔石だ)
「そんな感じで、額に魔石が出てきているのが、魔力を持つ者……つまり、貴族様だ。お前のことが貴族に見えるやつがいるとしたら、めちゃくちゃ離れているか、よほど額のことが目に入っていないやつ、ということになる」
それでフェラドたちがぽかんとしていたのか。確かに、それは『見えない』と断言されるはずだ。
「……まぁ、他にも気になるかもしれねぇが、あとはおいおい調べな。
今の問題は、貴族様が独り占めしたくてもしたくても持ちきれない量の製品を、あらかじめ作れるようにしておくことだ。貴族様の、人に負けたくない欲は、スピネラ村だけでは抱えきれないはずだぞ。このままじゃあ無茶振りで潰されちまう」
村を守るつもりが、潰されてしまうのは本末転倒だ。
「……スピネラ村では、売り上げの二割を、製法料を伝える代わりに俺に納めてもらってるんです。
もし村の分の素材には手を出さない約束で、生産力を上げるために製法を広げていくとしても、どの場所でもこの二割は揃えたいです」
(そして、俺が街や村のためにそのお金を使っていけば、平等だし、ウィンウィンだ)
「二割はライチに、な。いいんじゃねぇか。そういう決め事は、カステリナ中心街に入ってからだろうがな。……あとは、ヘアケアは話が済んでるんだったな?」
「はい。売り方は一任で、利益の一割を渡す誓いで、やり方を教えてもらいました。逃げ切り型で、本来の材料にダミーを混ぜながら売れば、材料がバレるまでに、これもかなり売りさばけますね」
トルヴェルが船乗りらしい豪快な笑い方でガッハッハと笑った。
「メルカトにここまで言わせるたぁ、とんだ金のなる木だな、お前は」
向かいから肩をバシバシと叩かれる。川の船乗りらしく、操船でムキムキになった名残の太い腕の平手打ちに、ライチはぶっ飛びそうになった。