「さぁ、着いた着いた!ようこそ、アゼルシルバ領の中枢!カステリナ中心街へ」
城壁に近づいてくると、トルヴェルが仰々しいポーズで城壁をあおいだ。
カステリナへの街道の後半は、本当にひたすら平野の荒地だった。確かにこれは土地がもったいない。魔力と水と人でさえあれば、いくらでも農業や畜産ができそうなのに。
カステリナ中心街が、わざわざこんなにも川から離れているのは、その昔、川向こうの領地テュフティアと、小競り合いが絶えなかった名残だそうだ。今は良好な関係を築いているらしく、ただ川から遠いだけの城下町となってしまっているらしい。
「おお〜!近くで見ると圧巻ですね」
城壁は石造りで、歴史の重みを感じさせた。ところどころに苔や蔦が絡まり、表面は雨風に削られてはいるが、その威厳は失われていない。
石垣の高さはおよそ四メートルほどで、建物の二階部分まで、という感じだ。さらに上部には尖った金属の返しが付いており、石を掴んで城壁を登ったとしても、おいそれと中には入れないようになっているようだ。
(初めての石垣の囲いだ。ちょっと重機でつついたら崩れそうな仕上がりではあるけど、ここなら十分なのかな)
丸い城壁に向かって、左手には結構な太さの川が見える。右手には――と、視線をやろうとして、胸の前に差し出された小さな手のひらに気づく。
「慈悲を」
ガリガリにやせ細った、ぼろぼろの五歳くらいの子供だ。肌や唇が、この荒野の乾いた土のようにひび割れている。
周りを見ると、門前に並ぶ長い列に、四十ほどの子供がわらわらと寄り付いては、「お腹が空いた」「弟が死にかけてる」「助けて欲しい」と手のひらを差し出して回っていた。
一人の男性がパンを子どもに渡すと、感謝しながら丁寧に両手で受け取り、ライチから見て右手の方に去っていく。他の子どもも、我も我もとその男性に寄っていくが、男性はそれを“しっしっ”という動作で追い払っていた。
目の前の子供に視線を戻す。光のない双眸がライチを射抜いている。何もできずに固まってしまう。
「……ぁ……」
しばらく無遠慮に手を差し出し続けていた子どもは、ライチのフリーズに諦めたようで、別の人の元へと向かった。フェラドとメルカトは顔見知りなのか、『また持ってくから、待ってな〜』と軽くかわしていて、トルヴェルは微動だにせず完全スルーだ。
「これが……」
ライチはそれだけの言葉をなんとか絞り出す。
まだ門まではかなりの距離がある。
城壁に向かって、左側を見た。川の上流側だ。今並んでいる西門から見て、左やや手前の北北西あたりから綺麗な川が流れ込んでいる。
そして、下流側を見た。ライチから見て右奥の南南東あたりに、ほったて小屋のようなぼろぼろの小屋が無数に並んでいるのが見えた。
遠目に見ても、どれも廃材を寄せ集めて打ちつけたような粗末な小屋で、壁の隙間から布や藁がはみ出したいびつな形に見える。
「難民とか犯罪者やその子孫とかの村っすね。中心街や河港の市民権はもちろん高くて買えないし、農地もないんで農村に身を寄せることも許されない。そんな人の集まりっす。
仕事も城壁内やオスティアの汚れ仕事を必死にやって、ほとんど賃金も出ず、生活はギリギリ。働けない子どもは物乞いで家族を助けてるっす」
泥にまみれた裸足の子どもたちが、力なく道の脇に座り込んでいる。細く、骨の形が浮き出た腕。ほとんど布きれのような服。人が通るたびに手を伸ばし、かすれた声で何かを呟いている。
命がこぼれていくような声に、聞き耳を立てる。
「……助けて。助けて……」
目を合わせた瞬間、ライチは咄嗟に視線をそらした。この自分が、“子供”から目を背けることがあるなんて、自分で自分に驚いた。
もちろん、嫌悪感からじゃない。あり得ない。胸が痛いほど締め付けられるのだ。我が子達の笑顔が脳裏によぎり、ひどい動悸がする。
「目を合わせるな」
脇にいたトルヴェルが小声で言った。
「情けをかけたくなる気持ちは分かるが、道半ばで片手間に面倒見きれる村じゃねぇ。農村にすら家のない、旅の身分だろ、お前は。半端に手を出すな」
トルヴェルの言葉から、本音が透けて見えた。『俺だって何とかしてやりたい』。そう、聞こえる。
「……こんなに近くに、立派な街や豊かな村があるのに……」
「貴族の魔力が配られている土地は限られている。この辺の荒野では自給自足も難しい。そうなると、どこかの農村に身を寄せられればいいが、どこもその日その日食うので手一杯だ。畑が拡大しないうちに郊外村まで受け入れたら、ただ皆で飢えるだけだろうな。貴族が増えて、領地ごと豊かになるまで、救われねぇんだ」
無機質なのに、どこか口惜しそうなトルヴェルの声に、実際に郊外村に住んでいるメルカトが説明を加えた。
「小屋とも呼べない建物が二百戸ほどあり、そこでみなさん小さな家で身を寄せ合って家族で暮らしていますね。ここの四十人ほどの子供たちが乞食で家族を助けていて、十歳より上になれば城壁内やオスティアで汚れ仕事や雑用仕事があります。それも、運が良ければ、ですが。飢えて亡くなる子も人も、たくさんいます。本当にたくさん、ね」
メルカトは三年前から行商をしてると言っていた。郊外村に住み始めたのもその頃だろう。だとすると、その期間に、一体いくつの見知った命がこぼれ落ちていったのだろう。五年前からのフェラドは、もっと、である。心を痛めないはずがない。
「あそこの人らは、整備された街の、“汚れ仕事”を請け負ってくれている。家畜や人の糞を集めて城壁外の肥溜め池まで運び、路地の下水溝を掃除し、死んだ人間を埋める穴を掘る。誰もやりたがらない、けれど誰かがやらなきゃいけない仕事を、城下町はほとんど無償で郊外村に押しつけているのさ」
トルヴェルは続けた。
「彼らを“汚れ者”と呼ぶやつもいる。けど、俺は知ってる。彼らの手がなけりゃ、街はすぐに腐る。人間、綺麗ばかりでは生きられない。美しく見える暮らしは、誰かが泥をかぶってくれてるから成り立ってるんだ」
しばらく俯いたあと、ライチは子どもたちを見た。小さな声が耳に届く。
「……たべ……もの……」
今ここで無視をするのが、この世界では正しいのかもしれない。エネルギーを溜めて、溜めて、世の中を良くして救うのが、一番の根本解決の手段なのかもしれない。
(俺には…………無理だ)
ライチはムリーナに積んである、粉ユキミルクを引っ張り出した。フィルム袋に包んだ赤子の五日分の栄養食が六十袋ほどある。
「……まぁ、短い付き合いだが、なんとなくこうなるだろうなとは思った」
「俺もっす」
「俺も」
商品を迷いなく配ろうとし始めるライチに、三人はどこか誇らしげに笑った。
大きな麻袋を抱え、おいで、おいで、と子どもたちを呼び寄せる。
「これは赤ちゃんのご飯。お腹が膨れる粉だよ。本当はお湯に溶かして飲んだほうがいいけど、粉のまま少しずつ舐めるだけでも、君たちの弟や妹はお腹いっぱいになるし、もし君たちや大人の人たちにも元気がないなら、一緒に舐めたっていい」
ライチは一袋ずつ子どもたちに手渡し始めた。四十人ほどの子どもたちがわらわらと集まっているのに、奪い合いなどにはならず、みな穏やかな表情で受け取り、静かに頭を下げている。
その様子をフェラドとメルカトが見守っている。
「……もらったものは、郊外村のみんなで分け合うんす。だから、一人ひとりはほんの少しにしかならないかもっすけど……あの子たちにとっては、ほんの少しのことでも、大きな希望になると思うっす」
フェラドがぽつりと言う。
「ライチさん、ありがとうございます」
メルカトが頭を下げる。
ライチは静かに頷き、粉ユキミルクの残りをロバのムリーナの元へとしまった。
「今はまだこれで精一杯。でも、次に来るときまでに、もっとできることを考えるよ。まずは、絶対に量産したいものに、粉ユキミルクが増えたな」
子どもたちの小さな手が粉の袋をしっかり握りしめているのを見て、ライチの胸に新たな決意が芽生えた。
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「(次!)」
いよいよ門番の声が遠く聞こえるほどに列が進んできた。城門は木製の分厚い扉で、黒く煤けた鉄の輪と金具が、錆びつきながらも豪華に取り付けられている。
門扉の両脇には、守備のための小さな監視塔が左右対称に立っており、そこから見張りが絶え間なく城壁の外を見守っている。
門の前には、制服を着た門番たちが整列していた。天下の城下町だが、彼らの服はオスティア河港街の門番と変わらなかった。おそらくまとめて同じものが支給されているのだろう。
強面の男もいれば、まだ若くてあどけなさを残す門番もいる。真剣な表情から、城下町を守るという重責を背負う彼らの緊張感が伝わってきた。
「次!」
ついに自分たちの番になった。ライチ以外の三人は、マントの内側のボタンのような紋章を見せて通行許可を出してもらっている。
ライチも緊張しながら、自分の名前と目的を伝えた。
「オスティア商人組合長と行商人の同行者か。身元を保証できる者はいるか?」
トルヴェルとメルカトが名乗り出て、ライチの信用を証明する。
門番の鋭い目がライチをねめつけるように見定めた。
門番はチラと人数を見て「三百Gが四人と、ロバ百Gと、荷物が三百G。合計、千六百Gだ」と厳かに告げる。おぉ、暗算だ。さすが城下町。
トルヴェルとメルカトが支払いを終えると、ライチだけに「市街通行証だ」とオスティア河港のときと同じ焼き印の木札が渡される。裏を見ると、こちらには“二五三”と番号が焼き印で記載されていた。
返ってきた木札を再利用しているらしく、前の順番の人が、連番とはかけ離れた四桁の数字をもらっていたのを思い出した。
厚さ一・五メートル程の門の向こう側からは、城壁内の活気が漏れ伝わり、ライチは意気揚々と一歩を踏み出す。
「いよいよ城下町、カステリナ中心街だ!」
期待に膨らんだ胸からそう吐き出す。輝く目をして門をくぐったライチの表情が、次の瞬間――ひしゃげた。
「くぅぅッッッさ!!!」
目を見開いたまま、全身が後ずさる。
「(こもってる!くっさ!なにこれ!くさっ!農村の肥溜めとも違う、こもりきったひどい臭い!ひぃい、鼻がもげるぅ!!)」
人様の街なので声量には配慮するが、発言内容に配慮する余裕がない。それくらい暴力的な臭さだ。
「そっか〜そんな反応とかありましたっけ。ここ生まれだと、何も思わないっすけどねぇ。すぐに鼻が諦めるっすよ」
フェラドが隣で余裕そうに笑う。
(鼻が……諦める……パワーワードだな……)
ほぼ効果はないが、鼻をマントで覆いながら道を見ると、前方にまっすぐ伸びる石畳の道の端っこに、申しわけ程度の浅っっい溝がある。けれど、あちらこちらで糞尿が流れきれず、そのままコロコロとご滞在していた。元気に羽音を奏でるハエのオーケストラたち。
その脇では、ガリガリでボロボロの服を着た、郊外村人らしき男性が素手でそれをバケツに入れて掃除していた。
べちゃちゃちゃっっ
だが、そのすぐ後ろの建物の二階の木窓から、壺に溜めてあったであろう茶色の固体と液体が降ってくる。
「(えっ?!えっ?!いま捨てたよ!?窓から!糞尿を!清掃の方の目の前で!!犯罪では?!犯罪だよね?!取り締まってもらう?!)」
「ははっ、犯罪って!まぁた面白いジョークっすねぇ〜。今は昼と夜の間だし、食後のうんこラッシュはまだだから、全然マシっすよ〜。綺麗なもんじゃないっすか」
(食後のラッシュ……綺麗なもん……ぐわぁ)
円形のカステリナ中心街は、円の中心にある大きな建物から放射状に道が伸びている。その道が、川の下流側の南、西門を入ったライチの右手へ向かって、ゆるやかな下り坂になっている。その斜面に沿って、一応排水も南へ南へと流れていく作りのよう……だが……。
(……いや、ぜーんぜん!流れきってない。隠せてもない。くすんだ糞の山が、あちこちでこんにちは☆してる)
ライチは一人、ふるふると首を振った。もう街中を高圧洗浄機で洗って回りたいくらいである。鼻がもげる前に。