街に入った時点でほとんど夕方に近い時間だった。中心街の大通りを左に曲がって、左奥にあった城に近づいていくと、一気に街の雰囲気が変わった。建物が品良く美しい。そして、道端に汚物がない。臭いもいくらかマシである。
「(おぉ、もしかして、ここが、富裕層街ってやつ? 仕切りの柵とかはないんだな)」
メルカトに耳打ちすると、耳打ちで返ってくる。
「(富裕層といえど、庶民ですからね。勝手に下町との間に柵を設けるわけにもいきませんし。このあたりには貴族の使いも来るので、街は綺麗に保たれています。家の内装や広さが段違いになりますね)
ライチは姿勢を正し、いいとこの出のようなフリを始めた。
「ここっすよ。高級宿の【イン・セレーナ】。かなりの奮発っすけど、明日はもっと高級ゾーンマックスの商人組合で貴族と表立って取引してる組合長に会うし、慣れときましょ」
フェラドが笑いながらムリーナの手綱を引く。建物は二階建ての堂々たる作りで、木の壁には艶のある塗りが施されていた。扉の横には目を閉じた女性の美しいイラストの入った小さな看板が吊られ、濃い色で染められた美しい模様の布が入り口の上に掲げられている。
「ぅ、ゎぁ……」
おのぼりさん全開の声が出そうになるのをなんとか抑える。
中に入ると、まず美しい中庭が広がっていた。周囲は荒野だったが、城壁内には魔力が満ちているのか、花や草が豊かに茂っている。ここだけ別世界のように、ラベンダーのようなハーブのいい香りが充満していて、鼻が歓喜の深呼吸を繰り返す。
中庭を抜けてロビーに着く。板張りの床には、ほぼ全面に美しい模様のじゅうたんが敷かれている。靴で踏むのがしのびないほどだ。挙動不審にならないように気をつけて、周りを見る。
塗りが施された白い壁には飾りの模様が描かれ、飾り布が掛けられている。室内だが、ろうそくの照明がふんだんに使われていて、とても明るい。門から中庭に入って右手がレストラン、左手が客室、奥がロビー、のコの字構造になっているそうだ。
「チェックインだ。市街通行証を出しな」
トルヴェルに言われ、受付カウンターにいる女性に、通行証を見せる。
メルカトがサラサラと受け付けの木札に字を書いていく。インクとペンだ!文化的!
「(組合長以外の三人は住所不定なんで、お付きの小間使いってことにしてるっす。部屋もその分狭くて安く済むっす。空いててよかったっすね)」
フェラドがこっそりと教えてくれた。トルヴェルが堂々とした風格で支払いを済ませている。そういえば、いつの間に予約していたのか。ライチが水について思案している間に、お使いに空いた宿を探させていたのかもしれない。さすがの手腕である。
トルヴェルがとんでもない金額を払っていそうな気がするのを見ないようにして、受付に向かって左後ろの部屋の方へと進む。案内されたのは、天蓋付きの大きなベッドが一つある部屋だ。ベッドサイドに水を張った洗面桶と燭台がある。彫刻が美しくて、とんでもない高級感だ。
更に、腰掛けて用が足せる夜壺の個室と、使用人部屋もあり、そこに暖炉と二段ベッドがあった。主人の部屋を夜通し暖められるようになっているようだ。
ポーターが、入り口からずっとムリーナの背にあった荷物を運んでくれていて、部屋に着くと隅に丁重におろして出ていった。そこで、ようやくライチは全力でそわそわとし始めた。
「えっ、えっ、めちゃくちゃいい部屋すぎません? ……天蓋だし……なにこれ、嘘っ、布団が、ふかふかだ……羽毛? 羽毛ですか? 信じられない!」
ずっと虫と一緒に土や板の上の藁山で寝ていたのである。羽毛布団の天蓋付きのベッド。そんなの絶対に寝たい。……支払いをしてない身分で、叶わない夢なのだけど、夢くらい見たっていいじゃないか。
「ハハ、広いベッドだ。端と端なら二人くらい寝れんだろ。護衛は床で寝る想定だがな。バレねぇバレねぇ」
「ライチさん、前半はずっとサンダルでぷるぷるしながら歩いてたし、おっきなベッド使うといいっすよ」
「俺たちは二段ベッドの方で充分ですし、ゆっくりなさってください」
みんなが優しい。ライチはありがたい申し出に秒速で乗っかった。
「皆さんありがとう。今夜はベッドで寝ます」
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「(レストラン♪レストラン♪)」
ついこっそりと小さく歌ってしまう。【レストラン】である。【レ ス ト ラ ン】、なのである。天蓋付きの羽毛布団ベッドを見た今、当然ながら、期待値はマックスだ。
日暮れの祈りの歌が街に響く頃、食事の準備が整ったと、ライチたちはレストランへ案内された。トルヴェルが、『今日は使用人にも同じものを同時に食べさせる』と伝えたため、ここになったらしい。個室で、使用人が世話を焼くスタイルもあるそうだ。
大理石に似た淡い灰色の石床の上に、じゅうたんが敷かれ、濃い木目のテーブルがいくつか置かれている。
テーブルの表面は艶やかに磨かれており、両端には二脚ずつ背の高い椅子が並ぶ。椅子の背にはふわふわの毛皮がかけられ、座面には薄いクッションが縫い留められていた。
天井の梁には干した香草が束ねて吊るされている。ろうそくのランプの火がその間を照らし、かすかなハーブの匂いが漂っていた。壁には織物のタペストリーが下がっている。
ポロン ポロン……
「♪〜〜〜 〜〜〜」
部屋の隅では琵琶のような楽器を持った男性が、食事を邪魔しない程度の声量で歌っている。BGMだ。曲のためだけに人を雇っているなんて、たいそうリッチである。
テーブルには、青い陶器の下皿が三枚ずつ並んでいる。この上にこれから料理の皿が置かれるらしい。その隣には水の入った細い銀縁のカップ、そして刃の細工が美しい短いナイフと、重みのある金属のスプーンが用意されていた。フォークはない。肉はナイフで切り、パンで掬って食べるのものらしい。
まず初めに、乾燥ラベンダーが浮かべられた陶器の碗の水が持ってこられる。これは、食前に手を洗うものらしい。おしぼり文化が定着している日本人にはありがたいサービスである。
次に運ばれてきたのは、食前酒。ミードという蜂蜜のお酒らしい。薄琥珀色の液体で、金属のグラスの中にハーブの葉が浮いていた。
「悪くねぇな」
「甘くてコクがあって……美味しいです」
一口含めば、甘さの奥にかすかな酸味を感じる。胃にすっと落ちていく感覚。あぁ、幸せ。
続いて給仕されたのは、キノコとネギを煮込んですりつぶした淡いポタージュだった。乳のように白い液体を匙で口に運ぶと、ネギの香りが舌の奥にやさしく広がった。ほのかに甘く、奥に土のような渋みがある。コンソメとかの旨味を足したい気もするが、これはこれで素朴な甘みで美味しい。
続けて、牛肉と干し葡萄の煮込みが小さな銅鍋ごと運ばれてきた。熱々にチーズを振りかけると、その場で恭しく取り分けてくれる。牛肉とチーズとハーブの香りが、なんとも食欲を誘う。
「あ……美味し……」
久しぶりに食べる牛肉は、ナイフを当てるだけでほろりと崩れ、葡萄の甘酸っぱさが肉の繊維に染み込んでいた。チーズによって塩味も良く効いていて、旨味は少ないものの、感動するほど美味しい。
「牛……オスティアの牛さん……美味しいです……ありがとう」
祈るようなライチに、トルヴェルが『そうだろう、そうだろう』とニヤッと笑っている。
ワインも出された。銀のコップに注がれたワインだ。オスティアの食堂でワインについて尋ねたときに、『濁ってて悪酔いする。水で薄めて飲むのが普通だ』とフェラドから聞いていたが、これは銀の底が見えるほど、美しく赤紫に透けている。口に含むと、澄んだ軽やかな味がした。美味しい!牛肉と合う!
焼きたての白いパンも運ばれてきた。火傷に気をつけながら割ると、ふわりと湯気が立つ。せっかくの焼きたてだ、まずは添えられた塩入りの油とパンだけで食べてみる。
(う〜ん。ふわふわ……じゃ、ないな。硬くはないけど、パサパサでなんか……もそっとしてる)
イースト菌って偉大なんだなと思わされる瞬間だ。よく聞く天然酵母とやらもぜひ試してみたいお味だ。
ライチは焼き立ての白パンを煮込みの汁に沈め、ソースを吸わせて頬張った。口いっぱいに香ばしさと牛肉の旨味が広がる。これまた美味しい!
そして最後に出されたのは、温められた卵のデザートだった。
柔らかな黄色のクリームの表面に、蜂蜜がかけられている。匙を入れると、とろりと引き伸ばされた。カスタードのような、高級な蜂蜜をたっぷりとかけた甘いデザートに、顔がほころぶ。
食後にはスパイスワインが出された。薬草が入れられた温かいワインだ。香り高く、薄く切った干し果実とともに味わえば、満足感がひときわ深まった。
(スピネラ村のみんなにも、食べさせてあげたいな……ティモやエルノ、シーラたちは、元気かなぁ)
満ち足りた気持ちでお腹を触る。あの七日間かかる道中をなんとかしないと、山奥のスピネラまで新鮮なものをたくさん持ち帰ることができない。
(魔道具の世界だし、“転移魔道具”みたいなものとか……ないかなぁ)
見かけたら是非とも手に入れたいものだ。そのためにも、まずは稼がないと。
「♪〜〜〜 〜〜〜」
男性の独特の旋律の歌声が耳に心地よい。
この贅沢さは癖になってしまいそうだ。明日には大切な会合がある。スパイスワインの最後の一口を飲み干して、ライチは気を引き締めた。
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「お……お湯!!しかも一人一杯!贅沢!!」
食後、部屋に大きな桶のお湯が四つ運び込まれる。冷めないように厚い布で覆われているが、香草が浮かべられているのか、とてもいい匂いがする。床を濡らさないための厚手の布と、湯上がり用のタオル代わりの布。捨てるお湯用の大きな空の桶には、湯をかぶる用の片手桶と、捨て湯桶の中に座ることのできる木の椅子も入っていた。
(お湯だ〜。しかも一人風呂)
かけ湯方式だが、お湯で入浴ができることに感動が止まらない。パーテーションも運び込まれて、これはゆったり一人で入浴できそうだ。
パジャマの貸し出しはないので、今着ている砂だらけの服で寝るしかないのが悔しいくらいだ。
「パーテーションなんざいらねぇからどけるぞ」
「えっ……?」
ゆっくり一人で入浴できる期待が、さっそくパーテーションとともになくなってしまう。
「今後ヘアケアで儲ける気なら、仕掛け人の行商人と、オスティア商人組合長こそ、ケアしておくべきだろうが。おら、湯が冷める前にさっさと誓うぞ。やり方を教えろ」
なんと、ゆったり入浴のためのお湯ではなく、ヘアケア講習会のためのお湯だったようだ。『必要なものをもらってきますね』と、メルカトが部屋から出ていく。
(あぁ……俺の優雅なお湯入浴タイムが……)
捨てるお湯用の大桶が一つなので、ライチは大桶の中に座り、講習しながらの公開入浴をさせられて、とても安らぎとは程遠い時間を過ごした。
(でも……お湯……やっぱいいな……最高……)
最後の下半身を洗う時だけ、パーテーションで隠してくれたので、もう文句は言うまい。久しぶりに満足いくほどしっかりと股間が洗えて、気分は最高である。
(この宿に泊まらせてもらえただけでありがたいと思わないとな)
「はふぅ〜〜……」
パーテーションの向こうで三人がヘアケア製品の流行らせ方を熱心に相談しているのを聞きながら、ライチは幸せのため息をついた。
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「俺、寝相が悪いんだよな。いびきもするしな。寝れなかったらすまんな」
トルヴェルが、そんなことまったく気にしてないが!という風にガハハと笑う。大きな天蓋付きの夢の羽毛布団だが、一緒に入るのが大きなおじさまでは……
(いや、全然嬉しいな。だって羽毛布団だぞ。羽毛布団!!)
正直、横で寝るのは誰でもいいくらい楽しみである。
「大丈夫です。羽毛布団ですから。余裕です。二人とも、ありがとう。ゆっくり寝かせてもらいます」
フェラドとメルカトが、いえいえ〜と、使用人部屋に消えていく。
「火、消すぞ」
「あ、はい。……うぉぉおぉ……ふかふかの布団だ……最っ高……」
真っ暗になる前に布団に潜り込んだライチの全身から、感動の震えがほとばしる。
(これっ!これっ!!寝具はこれっ!!)
藁山で寝られるだけありがたい。ざらざらの分厚い布の布団をかぶれるだけありがたい。手ぶらで農村に飛ばされた身で、贅沢は当然言えなかった。
しかし!眠りの環境って絶対に大事!ふかふか布団、最高!!
「良かったなぁ。これからも良いもん作ってりゃ、こんな暮らしもできるだろうよ。明日がその第一歩さ。きばれよ」
「頑張ります。……トルヴェルさん、たくさんありがとうございます。おやすみなさい……」
心からの感謝を込めて礼を伝える。ライチはそのまま、異世界に来てから一番の心地よい眠りに落ちていった。