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第52話 貴族街の門


「――イチ、ライチ」


「うぅ〜ん、リノ、ごめん……あと五分でいいから寝かせて……起きたらすぐ洗濯するから……」


「昼になっちまうぞ!おら、起きろ!」


 掛け布団が引き剥がされ、意識がはっきりしてくる。そうだ、今日はいよいよ庶民の商界の最高峰、カステリナ商人組合へ向かうのだった。


「お、おはようございます、すみません、ベッドがあまりに気持ちよくて、ぐっすり眠ってしまってました」


 髪はボサボサ、顔はむくんでしまっている。ベッドサイドの水入りの洗面器がありがたい。


「何か洗濯したいものがあるんですか?」


 朝の挨拶とともに使用人部屋から顔を出したメルカトが、ライチの寝言を聞いて気を遣って尋ねてくれる。


「あ…………いや、寝ぼけてたんだ。仕事前の洗濯は、ずっと俺の朝の仕事だったからさ」


 朝昼夜の、どのタイミングで洗濯しても、物音でロクが泣いて起きてしまう。そんな中あるとき、早朝だけは子供たちの閉じた目が開きにくいことに気づいたのだ。そこからは早朝洗濯はライチの仕事になった。働いている義父母と、夜泣きの夜勤を引き受けてくれているリノの代わりに、ライチができることは、自分の入浴後の水切りなどの風呂場掃除と、早朝洗濯の物音ついでの洗い物とシンク掃除と、くだんの洗濯のみだった。

 夜間授乳後、お腹を出したまま寝落ちしているリノに、そっと布団をかけたりしたものだ。


(洗濯くらいしかできなくて、申し訳なかったな……。仕事に行かせてくれて、ありがとうって思いながら出勤してたな)


 久々にふかふかの布団のベッドで寝たからか、家の記憶が蘇る。ほんの少し前のことなのに、嘘のように全てが遠い。気持ちが家族に引っ張られそうになる。


「水面眺めてぼんやりしてないで、さっさと朝飯食って身支度を整えろ!食わねぇなら下げるぞ」


 トルヴェルが、木製のワゴンに置かれた一人分の朝食を指して吠えるのを聞いて、一気に異世界の現実に引き戻された。


「わ、すみません!急ぎます」


 寝ぼけた顔と跳ねた髪を濡らして目を覚ます。食事を終えたらグレゴル村長の晴れ着に着替えなくては。


「朝食は部屋に運ばれるんですね」


 ベッド端に腰掛けてパクパクと食べつつ、そう言うと、トルヴェルがフンと鼻を鳴らした。


「運ばれるんじゃなくて、運ばせたんすよ〜!ライチさん、叩いても蹴っても、もう少しぃ〜……って言って起きないから、レストランの食事を適当に部屋に運んでもらったっす」


 カラカラとフェラドが笑う。


「ちなみに、今は朝と昼のちょうど真ん中ごろですよ。そろそろ支度しないと、いい加減、全行程が押してしまいます」


 メルカトもそれに乗って、くくっと笑った。


「うそっ、レストラン? えっ、起こしてくれてたの? 朝と昼の真ん中って……遅っ! やばい、急ぎます、寝かせてくれてありがとうございます!」


 ライチは皆の優しさによって訪れた穏やかな眠りに感謝しながら、大急ぎで朝食と身支度を整えた。




---




「そういえば、商人の一番トップの人と会うのに、アポは取らなくて大丈夫なんですか?」


 宿から商人組合方面へ向かう道中。朝食後のうんラッシュはもう終わっているのか、富裕層街では元々外には捨てていないのか、周囲はとても綺麗に保たれている。

 富裕層街にある建物の壁には、あちらこちらで紐や格子が設置され、這わせるようにバラのツルが茂っている。春の終わりと言えばバラの季節なので、花だらけの道だ。とてもいい香りと彩りである。


「アポ? 取ってたじゃねぇか」


「あれってアポって言うんすかね」


「明日行くぞ宣言、ですね」


 聞くところによると、ライチが下水処理方法に夢中になっている間に、トルヴェルが知り合いを捕まえて使いを飛ばしていたらしい。


「プルデリオに“昼食時に短時間でいいから会え。新しい稼ぎの話がある”って伝えてくれ」


と。プルデリオ? さんはよく分からないが、呼び捨てにするということは、多少気の知れた仲の人のようだ。


「そう言っとけば、あいつは昼食すっ飛ばしてでも予定をこじ開ける。そういうヤツさ」


 トルヴェルが笑う。約束が昼食中なら、まだもう少し時間はありそうである。


「おそらく、でかい取引をすることになるだろうから、ギルドカードは必須だ。大金を抱きしめて生きていくわけにはいかねぇからな。ギルドカードを発行するには、ここか、オスティアの市民権が必要だ。今回は立て替えてやるから、ここの市民になっとけ」


 “市民権”といえば、スピネラ村で、街の市民権を捨てて移住した、木工職人のリグナスのことが思い出される。皆にかなりの変わり者だと言われていた。


「市民権……って、めちゃくちゃ高いのでは……」


「十万Gですね。農夫の稼ぎなら、四年分まるまる、ってところでしょうか」


 メルカトが説明してくれる。


(そうだよね。高いよねぇぇ〜)


 四年分まるまる。日本とは効率や生産力が違うので等価ではないが、感覚としては年収が五百万円だとしたら、四年で二千万円の立て替えだ。物価の感覚で言えば、十倍して百万円くらいかもしれないが。


(どちらにしろそんな大金、ポンと立て替えてくれるトルヴェルさん、気前良すぎ……)


 見た感じも性格も、“川の男!”という感じなのに、この先行投資を全く惜しまない感じは、ディスイズ商売人だ。しっかり稼いで家族に仕送りをしたい身としては、とても心強い味方である。



「……ほれ、ついたぞ、ここが市民登録をする建物だ」


(おぉ。両端の塔が威厳たっぷり。ドイツのケルン大聖堂から装飾を取って、塔の先を鈍角にした感じ)


 まず目に入るのは、左右にそびえる二本の塔だ。なだらかに尖った屋根は黒い石で組まれている。

 一・二階の窓は、人が通れないサイズの防犯意識の高そうな小さなもの。塔の部分は大きな窓枠に鉄の格子がついている。

 塔の間は一・二階として建物が繋がっている。正面から見ても大きいが、奥行きは更に三倍ほど長く伸びて見えた。


 木製の門扉の上に取り付けられた金属製のプレートには、【ギルドホール】と鋳出された文字が輝いている。その上には多くの紋章の旗が掲げられており、どこから見てもとても目立つ建物だ。門番もつけていた三本麦の紋章や、フェラドたちやトルヴェルのつけている月の満ち欠けの紋章の旗も揺れている。


「組合のお偉い連中が集まる集会所が、市民権などの管理も担っている。まぁ、お役所だな。そんで、通りの向かいのあの建物が、このあと行く商人組合の建物だ。

 この大通りは大聖堂と貴族街を繋ぐ、一番高貴な庶民大通りだな」


 役所。日本で聞いてもほんの少し構えてしまう響きである。役所と言えば、待ち時間がやたら長いイメージだ。なるほど、先に役所に行くからホテルを出る頃に急かされていたのか、と合点がいった。


「一番高貴な大通り……。あの城壁円の中心の低い石のお城みたいなのが大聖堂で……その反対奥に見える、めちゃくちゃ高い壁が、貴族街の防壁ですか?」


 ライチは、糞尿も下水もない美しく整備された石畳の大通りで、それぞれ左右の奥にある建造物を見やった。

 大聖堂は下町のどこにいても見えるが、貴族街については驚くほど全く見えない。開けた通りに出ても、下町の周囲の城壁の倍ほどはありそうな、かなりの高さの石壁が見えるだけなのである。

 大通りにはたくさんの人が行き交っているのに、その始点の貴族街へ通じる門には、黒い色をした門扉があり、日中なのに固く閉ざされている。遠目だが、通行する人は、人一人が通れるくらいの小さな通用門をパラパラと行き交っているように見えた。


「そうさ。俺はオスティアの生産のことなんかでちょくちょく貴族街の中に呼ばれてるが、あの大きな門は、貴族が馬車で通るためのもんで、庶民はまとめて通用門行きさ。もちろん、通るときには厳重にボディチェックもされるぞ。

 ……つっても、貴族が下町に来ることはないから、あの門は本当に非常事態用なんだけどな」


 トルヴェルがライチと同じ方向を見ながら教えてくれる。


「え?? 門のある下町に来ないって……一生をあの壁の中で過ごすってことですか?」


 ライチの疑問に、トルヴェルは首を振った。


「俺たちがオスティアから歩いて入ってきたのが西門。郊外村の連中と下水が通っていくのが、肥溜め池に繋がる南東通用門。南門と東門は他領との交易用。

 残る北門は貴族街に面していて、貴族の専用門になってる。貴族が馬車で城壁外に出たいときは、北門を通るってわけだ。貴族の馬車のためにわざわざ庶民が道を開けなくて済むのは、正直ありがたい」


(なるほど。貴族しか通れない門があるのか。となると、北から出た貴族が、南に行きたい時は、わざわざぐるっと城壁に沿っていかないといけないってことだな。……ふ〜ん。不便そう)


 わりと人権意識高めの環境で育ったライチとしては、身分制度はしっくりこない。いくら魔力を納めているご身分だからといって、門まで分けるのはいかがなものか。そんな風に臭いものに蓋をするから、下町の衛生環境がいつまでも改善されないのではないか。どうにももやっとする。


「……ちなみに、あの貴族街防壁には魔道具が設置されていて、臭いも音も、全て浄化・消音してから貴族街に届くって代物だ。中に入ると、それはもう爽やかな香りの風がそよついてるのさ。

 貴族様達は、よほど俺達を知覚範囲に入れたくないらしい。……俺達の手垢がついたもんを着て食べて暮らしてる癖にな」


 お手上げ、というジェスチャー。

 富裕層街を歩いていても、貴族を全く見かけないなと思ったら、そういう理由があったらしい。臭いものに蓋、どころではなかった。臭いものはなかったことに、だった。

 街の人々は下水も臭いも気にもしていないし、貴族も見ない嗅がない。このままではペストや赤痢、コレラなんかで下町の人々が大量に死にでもしない限り、誰も下水処理に立ち上がる者はいなさそうだ。


「あとは、貴族は“飛車”を使ってますよね。それで飛行する様子が、遠目にですが見かけられます」


「飛車?? あの縦横何マスでも動けるチートの駒……じゃ、ないよな」


 思わず日本的ワードを聞いて、耳が大きくなってしまった。成ると竜王になって斜めまで動けるスーパーチート駒になるんだよなぁ……としみじみ。


(……あっ、もしかして、空飛ぶ車、だから“飛車”?)


「その名の通り、馬が引く車は馬車。馬が引かなくても空を飛べば飛車です。風の魔道具で飛ぶので、門を通過する必要がありません」


「なにぃ!」


 これは衝撃である。

 この古代ローマと中世ヨーロッパの間のような発展途上の世界に、まさか大型輸送ヘリの翼無しみたいなものが存在するとは。なんと便利そうなことか。なんというファンタジー。是非いつか乗ってみたいものである。


「ガイドはもういいか? 入り口前でぼんやり突っ立ってないで、さっさと入れ」


 空を見てそんな空想をしていたら、いよいよ待てなくなったトルヴェルに、蹴りを入れられそうな勢いで急かされてしまった。

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