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第2話 禍獣


 丸に三つ葉葵の紋を掲げた二機の黒い御霊機おんりょうきが、風にざわめく雑木林を抜けていく。


『なありんさん、何度も聞かされてそろそろ耳にタコかも知れねぇが、あまり気を張り過ぎちゃあいけねぇよ。御霊機持ちとはいえ、相手はただの不逞浪士。おいらの言う通りに動きゃあ鎮圧なんざ造作もねぇことさ。先だっての練兵を思い出しゃあいい。まあ、あん時ゃおいら、ちょいとばかしドジ踏んじまったが、しかし華凛さん、あんたの方は凄かった。なにせ……』


 ヘルメットに内蔵されたスピーカーから、ひっきりなしに聞こえてくる上官の声に、丹治たんじ華凛かりんは苦笑せざるを得ない。

「大丈夫よ、隊長。そっちこそ、また肝心なところでしくじったりしないでよね」

 固い操縦席の中、目の前の半周型モニターに映る先行機の背面を見つめながら華凛は言った。


『はっは! それでこそ丹治華凛ってなもんだ!』

 軽妙ながら優し気な声が返ってくる。華凛の脳裏には上官の松本郁之助いくのすけが、ヘルメットの下で微笑んでいる姿が容易に想像できた。


 ふと、華凛の無線に高圧的な男のざらついた声が届いた。


『報告せい。軍務の推移や如何に』

 大坂駐屯地にて軍務の指揮を執る、幕府陸軍将校からの通信だ。


 松本郁之助が即座に、

『はっ。ろ組三番機及び四番機、共に支障なく進軍仕りましてござりまする。ほどなく神河こうが藩領に参着致す次第にござりますれば』


「あ、あの……!」

 郁之助の勿体付けた言い回しを遮り、華凛が割りこんだ。


『何ぞ』

 将校はさらに高圧的に言った。


「えっと、さっき進軍中、農民と思しき二人の領民に姿を見られたのですが、それは問題ないのでしょうかと……」


『百姓のことなぞ気に留めんでよい』

 華凛が言い終わらない内に、将校は吐き捨てるように言った。

『下郎どもに気を取られている暇があると思うてか。戦の前にくだらぬことを申し立てるな。腑抜けたかネーデルラント人めが』


 華凛は白磁のような頬を赤くし、薄いピンク色の唇を強く噛み締めた。


『三番機……松本よ。仔細は分かっておろうな。神河藩庁にはすでに話を通してあるゆえ、領内は素通りしてよい。そのまま北上し、不埒な浪士共の御霊機を討ち取るのだ』


『……はっ』

 郁之助の畏まった返答を最後に、通信は切れた。


 郁之助は心底申し訳なさそうに、

『すまねぇ、華凛。あの人は……ちょっと言い方がきつくてなぁ』


「ううん、大丈夫。気にしないで」

 何の落ち度もない郁之助が飯森の代わりに謝るということが、むしろ自分の異質さを際立たせているような気がして心が重くなった。異国の血が半分入っているとはいえ、生まれも育ちも同じ日本の江戸なのに。


 華凛は頭をもたげかけた疎外感を振り払うように、急いで言った。

「それじゃ、あの人を見返してやるためにも、この領外軍務、ちゃんとやり遂げなくっちゃね」


『あたぼうよ。それじゃ、今の内に武具あらためをしとこうかい』

 そう言うと郁之助の三番機は土埃を上げて停止した。


 華凛は己の機体をその後ろに付け、計器類の中央にある液晶ディスプレイを操作し、武具システムが正常かどうかを確かめ始めた。


 まず何よりも、左腰に据えた祓御霊剣ふつみたまのつるぎ神験しんけんあらたかな霊峰のみで採れる魂鋼たまはがねを鍛え上げて造られた、御霊機の標準的な得物である。形状は反りの浅い日本刀だが、刃渡りは六尺(約百八十センチ)、幅は五寸(十五センチ)ほどもある。


 そして、背部に装着している巨大な銃器は、幕府がガリア共和国から輸入したAM‐40という大口径セミオートライフルで、直径三寸大(約十センチ)もの魂鋼の銃弾を撃ち出すことができる携行式火砲である。ただし、魂鋼自体が貴重なものであるため、装弾数は一丁につき四発であった。


剣戟けんげき動作処理確認――其の一、其の二、其の三、自動型、いずれも良し。火砲照準補助機能――良し。神験残量――八割九分、良し。勧請かんじょう状態――」


 華凛は操縦席で上体を捻り、己の後背を顧みた。様々な機器類と剥き出しの配線がによって形作られた壁の上部、ちょうど華凛の頭上から操縦室内を見下ろすように、神棚が備え付けられている。注連縄、榊などの神具はしっかりと固定されており、中心部の宮形に収められているのは神札である。


『日光東照宮神璽』――と朱墨で書かれた神札こそ、この一ノ宮級御霊機を動かすに足る神験を勧請してくれる大元であった。


 華凛は席に座り直し、二つの操縦桿をまたしっかりと握り締めた。

「……良し。大権現だいごんげんがた邀撃ようげき機改八、ろ組四番機――武具及び機体検め完了、全て問題なし」


『こっちもだ。機体もおいらも、意気軒高さ』

 僚機から弾む声が届いた。見ると郁之助の三番機は、両腕を体操のようにぐるぐると回している。


『お膝元を随分離れちまったもんで心配してが、さすがは我らの権現様。これならどんな奴でもかかって来いってなもんだ』


「妙に元気ね隊長……そんな風に空回ったりして、前みたいに私に尻ぬぐいさせないでよね」


『おやおや、もしかして小石川の『火吹きおろし』との戦いのことを言っているのかい? そいつはお門違いというものだ。あの時あんたが奴の炎に巻かれて右往左往していたのを、おいらが救ってやったんだぜ』


「あら変ね。あの時わたくしが拝見したのは、火の勢いに取り乱して町家をあちこち壊しながら逃げ回る隊長さんの機影でしたけれど?」


『分かっちゃいねぇな。おいらはあれ以上火が回るのを防ぐために、敢えて家屋を壊して回ったんだぜ。町人達には申し訳ないが、それが最善の策というものだった。あんたにとってもな』


「あっそう。ふぅん、そういうこと言っちゃうんだ」


『ああ言った。言ったがどうした』


「それじゃその前の、三鷹の雷獣らいじゅう騒ぎはどうなの? 警護のためとか言って風呂屋の前に陣取って、女性客が逃げ出してくるのを今か今かと待ち構えていたのは、どういう最善の策だったのかしら?」


『待った。待ちたまえ。あんたは誤解してなさる。あれは違うんだ。いいか、つまるところ……』


 つまるところ何なのか、華凛は知ることができなかった。郁之助が突如として口をつぐんでしまったからだ。


「もしもーし、降参ですかー?」


 華凛はおどけながら応答を求めたが、郁之助の沈黙は続いた。その乗機もぴたりと動きを止め、道の先、雑木林の奥へ頭部を向けている。


「……隊長?」

 今度は慎重に声をかけてみた。すると、


『ああ、まずい……かかあの飯よりまずいぜ、こりゃあ……』

 スピーカーの奥へ消え入ってしまいそうな声が、微かに聞こえた。


「隊長、なにを……」


『逃げろ‼』

 郁之助の突然の大声が耳朶を打ったのと、計器の一つがけたたましい警告音を発したのが同時だった。


「えっ……」

 華凛は警告音の方に釣られてレーダーモニターに目を落とした。一つの光点が凄まじい速度で接近し、その横に強調された文字列が表示された――『ヤロカ水』と。


 その瞬間、轟然たる音と衝撃が華凛の身体全体を襲った。ほんの一瞬、急ブレーキをかけた車の中にいるかのように重心を後ろに引っ張られた後、重力の向きが変わったのを感じ、背中と後頭部に激痛が走った。


 巨大な水の塊が正面から激突してきたことにより、華凛の四番機は仰向けに倒されてしまったのだ。


 視界をチカチカさせながらもモニターに目を見開く。カメラが水を被ったせいでぼやけてはいるが、青い空を背景に、三番機の腕部が映っているのが見えた。郁之助の機も華凛と同じく転倒したらしい。が、すぐに関節を軋ませ、地面を揺るがしながら起き上がろうとしている。


 華凛の頭は未だ混乱していた。しかし機体の方は自動姿勢復元機能により、ひとりでに上体を起こし始めた。


 平衡感覚の狂う頭を必死に働かせ、華凛は脳内の教則書をめくった。河川かせんせい禍獣かも『ヤロカ水』――相対するのは初めてだが、この神河藩などという小藩に棲息する程度の禍獣であれば、それほど脅威ではないはずだ……。


 華凛は操縦桿を握り直し、モニターに映る雑木林の景色に目を凝らした。が、大質量の鉄砲水を放ってきたはずの禍獣の姿は、木々の間のどこにも見えない。ただ、どこか遠い場所で洪水が起きているかのような不気味な音が、微かに地面を揺らしている。


『隠れてやがる……油断するな』

 三番機は既にAM‐40を両手に持ち、林の奥を見据えている。


 華凛は大急ぎで操作盤の左側にあるレバースイッチを押した。機体の左腕が背部に回り、火砲の銃把を掴む。さらに液晶ディスプレイを操作して照準補助機能を起動。


『来たぞ……』

 郁之助の緊張した声に、華凛は視線をモニターに戻す。


 そして、見た。


 地面を滑るように音もなく接近してくる、巨大な水溜り。濁った泥水が木々の根元を浅く浸しながら、どんどん広がってくる。


 操縦桿を握る手が汗ばんだ。レーダーの警告を見るまでもなく、その水溜りこそが『ヤロカ水』であると分かった。


 あっという間にそれは視界の両側いっぱいにまで地面を浸し、接近する速度を上げた。水際が波打ち、小さな津波のごとく盛り上がってきた。


 華凛にはそれが何らかの形を取ろうとしているように見えた。まるで長い髪を引きずりながら接近してくる、巨大な人間の頭部のような――


『撃て‼』

 郁之助の声に衝かれて、華凛は操縦桿のトリガーを押した。


 空気を震わす轟音が二連続で響き渡った。二機がそれぞれ放った魂鋼の銃弾は不定形な泥水の固まりを木っ端みじんに飛び散らせ、土を深く穿った。だが広大無辺な水溜りはその穴を左右に避けつつ、なおも接近してくる。


『ダメだ……! もっと本体を露出させなきゃ神魂しんこんは貫けねぇ!』


 郁之助の指示に従い、華凛は再び照準装置を操作しようとした。


 が、その時、『ヤロカ水』とは別方向からのとてつもなく大きな衝撃が機体の前面を強打し、華凛の乗る四番機はおもちゃのように吹き飛ばされた。


「ああッ‼」


 あまりの激痛に悲鳴が漏れ出た。ヘルメットの中で頭が鳴動し、意識が飛びかける。固定ベルトが腹部に食い込み、喉奥が灼けるように熱くなる。機体は後方にあったクヌギの木に激突し、その根元に横ざまに倒れこんだ。


『華凛‼』

 郁之助の叫びが頭をさらにガンガンと鳴らした。


 両目を閉じて痛みに耐えている華凛には状況が分からず、ただ腹の底をえぐられるような気味の悪い音と、僚機からの切羽詰まった叫びが、ただならぬ事態を伝えてきている。


『何てこった……‼ 『土石つちいわの大蛇おろち』だ‼ 二体目が出やがったんだ‼』


 突然首元に冷たさを感じ、華凛は驚いて目を開けた。ぼやけた視界に横倒しになった操縦室内の様子が映る。なんと開口部の隙間から泥水が入り込んできている。倒れた機体目掛けてヤロカ水が集まってきたのだ。


 華凛は背筋を凍らせた。姿勢復元機能は既に作動しているが、動きを阻害されているらしく、エンジンを吹かすような音を立てるのみで一向に起き上がってはくれない。


 モニターは機体がみるみるうちに水の中に飲み込まれてゆく様子を映している。否応なく華凛の脳裏に、泥水の中で溺れ死ぬ未来がよぎる――


 直後、砲声が三回轟き、水面から急浮上したかのように視界が開けた。郁之助が火砲でヤロカ水を撃ち抜いてくれたに違いない。


 水の呪縛から解き放たれた機体はようやく腰を上げてくれた。しかし損傷しているらしく、側の木の幹を支えにしてもなお直立まで時間がかかった。


「隊長、ありが……!」

 機体を僚機の方へ向けさせた華凛はそこで声を詰まらせた。


 そこにあったのは御霊機ではなく、泥の山だった。岩や木の枝やごみの混じった泥の固まりがとぐろを巻き、郁之助の三番機をくまなく覆いつくしている。辛うじて、AM‐40を握った左腕だけが泥の中から突き出ていた。


土石つちいわの大蛇おろち』――土石流が具現化した河川凄かせんせい禍獣かもが、郁之助を完全に捕えていた。


「隊長っ‼」

 アクセルペダルを踏む。だが地面の泥が駆動輪での走行を阻んだ。華凛は苛立ち紛れに声を上げ、歩行移動に切り替える。


 しかし二歩も進まないうちに、

『来るなっ‼』

 強い制止の言葉に思わず前進を止めた。


「何言ってるの‼ 私が助けるしかないでしょ‼」


 郁之助の火砲は四発全てを撃ち切ってしまっている。腰の祓御霊剣は、あの状態ではとても抜けまい。


『もう、無理だ……とても敵わない』


「諦めないでよ‼ 二体が相手でも、私が何とか……‼」


『違う……』

 歯の隙間から絞り出すような声で、郁之助は言った。


『三体だ』


「えっ……?」


禍獣かもは……三体いた』


 そう言うや否や、郁之助の機体は泥の大蛇と共にずぶずぶと沈み込み始めた。地面に目をやると、そこはどす黒く淀んだ沼になっていた。表面に粘っこい気泡をぼこぼこと弾けさせながら、今まさに三番機の脚部を飲み込まんとしている。ひときわ大きな気泡が弾けたかと思えば、そこに一つの濁った目玉がぎょろりと現れ出た。


 新たな警告音――レーダーのディスプレイには土石大蛇と重なるように、『泥田どろた入道にゅうどう』の文字が明滅していた。


「くっ……!」

 華凛はとっさに沼に向けて火砲を三発連射した。だがそれはいたずらに泥を辺りに飛び散らせただけだった。沼の中でゆらゆら揺れる目玉が、嘲笑うかのように視線を向けてきた。


「くそっ‼」

 操作盤左側のレバーをオフにし、次いで右側のレバーをオンに。機体の両腕が旋回。火砲を背部へ戻し、そして右手が刀の柄を握る。抜刀――全身の肌が粟立つような金属音を発しながら、鈍い輝きを放つ祓御霊剣が露わになった。


 豪壮極まる御霊機の動作とは裏腹に、内部の華凛は戸惑っていた。郁之助を救うにはまず足元の泥田入道をどうにかするしかないが、その糸口が見出せない。首尾よく倒せたとして、三番機を覆いつくしている土石大蛇をどうしたものか。無闇に斬りかかれば、中の郁之助まで一緒に――


『華凛‼ 後ろだ‼』


「――っ‼」

 間一髪、華凛が機体をよじらせると、鉄砲水が胴体をかすめ、曇り空に飛沫を舞い上がらせた。


 ヤロカ水の再襲撃だ。背後を振り向くと、氾濫した泥水はもはや確実に人の上半身を形作っていた。長い髪と着物が後方に広がり、歪ながら目鼻までついている。まるで入水した女が水面から這い上がってくるかのように、もうすぐそこにまで……。


 剣戟けんげきプログラム起動――! 華凛は焦りながらも液晶ディスプレイを操作。基本型其の一、開始! 機体の左脚が後ろに下がり、右脚は前へ。神威を纏う太刀を大上段に振りかぶり、右上から左下に向けて一閃――!


 太刀筋は間違いなくヤロカ水を捉えた。だがそれはまさしく水を斬ったように何の手応えもなく、ただ泥水の中を通過しただけだった。すぐさま、御霊機は自動で刃を返し、今度は左下から右上へ逆袈裟に斬る。しかしそれも、水滴を上に跳ね上げただけに終わる。


 ヤロカ水は少したじろいだ様子だったが、すぐに接近を再開した。


(まだ……!)

 ディスプレイの上で指を躍らせ、剣戟プログラムを基本型其の二に切り替え。同時にペダルを踏んで、機体を少しずつ後ろに下がらせる。


 四番機は忠実に、じりじりと後ずさりながら左から真一文字に水平斬り。次いで右からの逆袈裟。しかしもはや泥水の女は怯みもしなかった。神魂が斬れないことにはどうにもならない。


 ついにヤロカ水は凶暴な性を露わにした。女が両手を広げて飛び掛かってくるかのように、泥水が大波となって四番機に覆い被さってきた。華凛がどうする暇もなく、機体はたちまちバランスを崩し、背後の泥田入道の中に仰向けに倒れ込んだ。


「ぐぁ……‼」

 三度みたび身体が打ちのめされ、痛みに目を閉じる。


『華凛……‼ 華凛‼』


 郁之助の声に何とか応えようと、薄く目を開けた。だが目の前のモニターには、目を覆いたくなるような恐るべき光景があった。


 ヤロカ水が、カメラに触れんばかりに覗き込んでいる――間近で見ると、とても人の顔と呼べるものではない。小石や細かいゴミ、小魚までもが内部で渦を巻き、口は無く、空の眼窩はどういうわけか井戸のように真っ暗で、中から泥が滴り落ちてきている。


 華凛は己に言い聞かせた。単なる自然現象の具現化だ――大昔、洪水で死んだ人の中には、襲い来る川の水が怒れる神のごとく見えた人もいたのだろう。そういう妄念が積もりに積もってこんな荒御魂あらみたまの権化などという化け物が生まれてしまったのだ。


 操縦桿を、ペダルをしきりに動かし、華凛は沼に沈みつつある機体を何とか動かそうと努力した。だが目だけは、どうしても目の前のモニターから外すことができなかった。


 底知れなく黒い眼窩は、何か途方もなく大きな感情を訴えてきているように思えた。それは怒りであり、悲哀であり、歓喜であるようにさえ感じられた。


 華凛はもう動けなかった。手足は震え、全身から冷たい汗が吹き出し、ただ目だけはこれ以上ないほど見開いていた。


 畏れていた。恐れではなく、畏れに打ちのめされていた。八百万の神がおわすというこの国で、何百年、何千年という時間をかけてこの禍獣の中に堆積された何かが――人間の力など及ぶべくもない、抗しようとすることさえ烏滸がましいと思うような何かが、華凛を心底から畏れさせたのだった。


 モニターの周囲を黒い泥が侵食してゆく。開口部の隙間から侵入してくる泥水は激しさを増し、ついに背中が水に浸りはじめた。


 郁之助の叫び声、機体の警告音、洪水のような水音が鳴り響く中、華凛の震える口から言葉が漏れ出た。自分の出自とは一切関係なく、ただこの国で十八年間生きてきた上で身に付いた慣習や価値観が、ごく自然にこの言葉を発させた。


「……かみ、さま…………」


 その瞬間、ヤロカ水が叫んだ。


「え……?」

 いや、それは水音だった。大量の水が狭い隙間から溢れ出しているような高い音が、悲鳴のように空気を切り裂いている。と同時に、泥に覆われてしまっていたモニターの視界が、掃いたように明るくなった。


 そこには、驚くべき光景が映っていた。


 ヤロカ水の胸の辺りから、夥しい量の無色透明の水が噴き出している。その水は瞬く間に泥に塗れたカメラを洗い流し、ヤロカ水の姿をますます鮮明に映してゆく。女の眼窩は左右に大きく開き、そこにははっきりと苦痛が表れていた。


 よく見ると、水が噴き出しているのは左胸の辺りで、そこから刀の切っ先のようなものが突き出している。水を通して、何か大きなものの輪郭がぼんやり見えた――ヤロカ水の向こう側に、何かがいる。


 女の体は溶けるように縮んでいき、最後にひときわ大きな水が噴き出した後、ヤロカ水はただの泥水となって四散した。そして、その後ろにいたものの正体が明らかになった。


(御霊……機…………?)



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