「いやああああ―――――――っ‼」
「郁之助さんっ‼」
だが、全ては遅かった。
郁之助は腹の左側に突き刺した短刀を、気合と共に右に引いた。腹が横一文字に裂かれ、どろりとした血が溢れ出る。さらにそこから刃を上に向け、縦に一寸ほど斬り上げる。
口の端から血を流し、蒼白な顔を震わせながら、郁之助はゆっくりと首を回し、操縦席の後ろを顧みた。そこにある神棚に対し、郁之助はぐっと頷いて見せた。それは敬意を表しているようにも見え、同時に
刹那、背もたれの上部から、千枚通しのような針が飛び出した。それは寸分違わず郁之助の後ろ首に突き刺さり、郁之助は一度痙攣した後、上体を前に倒して絶命した。
「ぁ…………あぁ…………」
華凛は全てを見てしまった。冷汗が吹き出し、見開いた目から流れる涙と一体になって顎から滴り落ちる。死体となった郁之助から目を離し、足元の操縦席へとゆっくり視線を移す。
今まで気に留めたこともなかった、背もたれの上部に空いている小さな孔――。
華凛は操縦席から転げ落ちるように降り、両手両膝を地についた。そして堪えきれず、泥の上に嘔吐した。顔の色んな部分から、身体中の水分が放出されていく。いま目にしたもの全てを一緒に吐き出してしまいたい思いで、華凛は何度も咳き込んだ。
風の吹く音に混じって、鴉の鳴き声が聞こえる。どれくらい時間が経った頃か、華凛は少し先の地面に、
(あの
怒りが瞬時に煮えたぎり、衝撃、苦痛、悲しみを全て上書きしていった。華凛は泥を踏みしめて立ち上がり、そこにいる人間を正面から睨みつけた。
出で立ちは奇妙で、役夫が着るような作業着のベルトに
男は眉間に皴を寄せ、暗雲のような瞳で華凛を見下ろしている。その視線に挑むように、華凛はヘルメットを脱ぎ捨てた。栗色の髪が波打って垂れ、白い肌に鋭角の鼻筋、淡褐色の瞳が露わになる。
男の片眉が少し吊り上がった。
互いにしばらく睨み合ってから、男が口を開き、低く乾いた声で言った。
「……幕軍か」
華凛は答えない。胸の内に渦巻く怒りを、どうやって相手にぶつけるべきかを考えていた。
男はさらに問い重ねた。
「幕軍がこんなところで何をしてる」
咎めるようなその口調に、ついに怒りが爆発した。
「軍務に決まってるでしょ‼
男はしばらく押し黙った後、眉根を寄せ、
「あったとして……俺には知る由もない」と言った。
「あなた……! 他に言うことは無いの⁉ あんなことがあったのに! 何も思わないって言うの⁉ 郁之助さんを……私の上官を見殺しにしておいて‼ 何か言うことは無いの⁉」
「ああ……」
男は目を上げ、三番機の凄惨な操縦席を見て言った。
「……不心得者だ。お社を血で穢してやがる……降りてから腹を切るべきだった」
一瞬、記憶が飛んだ。
気が付いた時、華凛は男の目の前で、右腕を強く掴まれてもがいていた。怒りに我を忘れて男に飛び掛かったのだと、しばらくしてから思い至った。
華凛は右腕を振りほどこうとした。が、男の左手は万力のように右腕を掴んでびくともしない。華凛は怒りに叫び、男の足の甲といわず脛といわず、めちゃくちゃに蹴りまくった。
化学繊維のズボンがたちまち泥の足型で汚れ、足首に巻いていた包帯までも泥に塗れた。しかし男は顔色一つ変えず、曇った瞳で華凛を見下ろすのみだった。
その時、
「おいこらぁ、
男の背後でしわがれた声がして、華凛の右腕が解放された。華凛は反動でよろめきながら、声のした方を見た。
着流しの上に羽織を纏い、大小を腰に差した小柄な老武士が、せかせかとこっちに向かってくる。一瞬、昔の日本人のように月代を剃っているのかと思ったが、よく見ると単に頭髪が禿げ上がっているだけだった。
「……
男は腰を曲げて礼をした。
将監と呼ばれた老人はそれどころではないといった風に片手を上げ、華凛の姿や辺りの土石などあちこちを見回し、
「何や何や……何やこれは。おいこれ……」
そして機体も機乗士も無残な姿となった御霊機を見上げ、
「こら
困惑というより迷惑そうな面持ちで言った。
機乗士の男は華凛をちらりと見て、
「反幕派浪士の鎮圧に来たと言っておりますが」
「わし知らんぞそんなもん……
「はい、ヤロカと
「にしたって一度に三体は多すぎや……! ほんまどないなっとんねや……」
将監は愚痴っぽく首を振り、改めて御霊機の方を見上げた。
「まあともかく早よ片さなあかんわ。こんなん運べる重機うっとこにはあらへんけど、キレイにはしとかな。
機乗士の男は郁之助の死体を見上げて、
「……私が片付けましょうか」
しかし将監はぞんざいに首を振り、
「あっかい……」
と否定の意味らしいことを言った。
「そこらの仏さんとちゃうんや。
華凛には将監なる老人の言っていることが半分ほどしか理解できなかったが、機乗士の男に顔で促され、どうやらついて行かなければならないことを悟った。