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第5話 犬神人と今人神


秋水しゅうすい』という名らしいオンボロの御霊機おんりょうきを荷台に積んだ中型トラックは、雑木林の獣道からアスファルトで舗装された道に出た。見渡す限りの水田が山麓によって縁どられ、左手には流れの早い豊かな川が見える。


 だがその景色も、華凛かりんの慰めにはならなかった。運転席の男が電話で誰かと話している内容も、全く頭に入らなかった。


 華凛は助手席で俯き、胸中に渦巻く感情に対処しようとしていた。怒りが薄れ、代わりに禍獣かもと戦った時の恐怖と、そしてその後に起こったことへの悲しみが甦りつつある。


 つい嗚咽が漏れた。それを誤魔化すように咳払いをし、華凛は右隣を見ずに言った。


「隊長……郁之助いくのすけさんの……」

 死体はどうなるの。という言葉が出せなかった。


 だが答えはすぐに返ってきた。

荼毘だびに付された後、江戸に送られるだろう。あんたと一緒に」


 男はいつの間にか通話を終えたらしい。どこまでも落ち着いた声だった。


 華凛は両手で膝を抱き寄せた。胸中の感情がまたぐちゃぐちゃに入り混じり、言葉にして吐き出さずにはいられなくなった。


「どうして……どうして郁之助さんはあんなこと……。大昔ならともかく、今の時代に切腹だなんて……あんな恐ろしい事、誰があの人に教えたのよ……」


「父親に決まってる」


 華凛は面食らって右隣を見た。ハンドルを握る男は感情のない顔で前を見据えている。


「なに……父親? どういうこと? 訳の分からないこと言わないでよ……」


「あんた何処の生まれだ」


 生まれてこのかた八百回はされてきたであろう質問に、華凛はうんざりしつつ一気に答える。

「日本です。生まれた時の名はカリン・スタンジェ。今は丹治たんじ華凛。父ハンス・スタンジェはネーデルラント国の重工企業の交渉役として来日し、日本人女性と婚姻。けれど九年前に離縁し、母と私を残して帰国。私は生まれも育ちも日本の江戸。他にご質問は?」


「そうは言っても居留地育ちだろう。築地か横浜辺りの」


「……築地居留地だけど」


「なら外国育ちと同じだ」


 引っかかるもの言いに苛立ったが、今はそれよりも重要なことがあった。

「ねえ、郁之助さんのお父上が、息子に切腹を教えたってあなたは言うの? そんな恐ろしいこと冗談でも言わないで……!」


 男は華凛を横目で見て、軽く息を吐いた。そして視線を正面に戻し、話し始めた。


「普通の武士はな、元服する際に一通り教わるんだ。昔も今も変わらない。父親か、そうでなきゃ烏帽子えぼし親から……切腹の作法を、一から十まで入念に。いざその場に臨んだ時、恥をかかないためにな。武士にとって、最期にして最大の華舞台だ。誰も邪魔するべきじゃない」


 華凛は衝撃を受けた。

「元服って……十五かそこらの時でしょう⁉ そんな子供に、自殺の仕方を教えるって言うの⁉」


「自殺の仕方じゃない……始末のつけ方だ。自分で自分の始末をつけなきゃならなくなった時、人並みの心得がある武士なら誰だってそれをやる。そこらの小役人でも、その時が来ればさっさと腹を切る。別に何も特別なことじゃない」


 男は淡々と言った後しばらく間を置き、

「まあ……あそこまで潔いのは最近じゃ確かに珍しいが……」

 と付け加えた。


 一方華凛は憤っていた。居留地で暮らす外国人が、日本人のことを馬鹿にしている様子を見た時に感じたあの嫌な気持と、地続きの憤りだった。


「だからこの国はいつまで経っても未開だの野蛮だのって言われるのよ……! 身分制だけじゃなく、そんな野蛮な風習をまだ引きずってるなんて……!」


 男は沈黙している。華凛は構わずに憤りをぶつけた。


「責任を取る方法なんて他にいくらでもある。いくら武士だからって、死なずに済むなら絶対その方がいいはずよ。そう思うでしょう?」


「さあな。俺は武士じゃない」

 男は肩をすくめて言った。


「え?」

 華凛は男の横顔を見てから、シフトレバーの横に立てかけてある蝋色鞘ろいろざやの太刀に視線を移した。


「でも、その刀……。それにあなた、機乗の士でしょう? 御霊機に乗ることが許されるのは士分のみのはず……」


 男は何も答えない。


 しかし華凛はふと気付いた。そもそも禍獣を討つのは武士の役目ではない。禍獣とは神々の荒御魂あらみたまが具現した穢れた生き物であるとされ、余人はそれを目にすることすら忌避している。その始末役を、公に与えられているのは……


「あなたは……『あやびと』なの?」


 おずおずとした華凛の質問に、男は沈黙を以て答えた。


 華凛は静かに座り直し、俯いて深刻な考えに陥った。


 妖し人――武士、百姓、町人、商人、あらゆる身分の最下に位置する存在。その起源は定かではなく、太古の昔、中央に民だとか、冶金やきんや建築などの特殊な技能を持った集団だとか、他でもない禍獣から生まれ落ちた者どもだ、などと主張する者までいる。


 いずれにせよ、妖し人は『穢れて』いるとされている。妖し人の多くは余人が厭う役、つまり死に関連する役目を与えられ、中でも禍獣かも始末役しまつやくの任に就いている場合が多いという……


 二人と御霊機を乗せたトラックは水田地帯を抜け、川を西側へ跨ぐ橋に差し掛かった。その先が、神河こうが藩の陣屋町だった。


 橋を渡り、陣屋町の入口が目前に迫った所で、男は急にトラックを停めた。


「……どうして停まるの?」


「迎えを待つ。……俺の身分では大路を通れない」


 華凛はばつの悪い気分で沈黙した。


「……来た」

 男の声で前を見ると、対向車線から一台のワゴン車が向かってくるのが見えた。


「降りろ」

 言われるがまま、華凛はドアを開けてアスファルトの上に降りた。ドアを閉めようとした瞬間、禍獣から助けてもらった礼を言っていなかったことを思いだした。しかし郁之助を見殺しにされた怒りも未だ消えず、逡巡するうちに全く別のことを言った。


「あの……名前を訊いていい?」


 男はしばらく黙った後、言った。


穂積ほづみ蓮太郎れんたろう。……犬神人いぬじにんだ」


「犬……なに?」


「言っておくが」

 穂積蓮太郎はじろりと華凛を睨んだ。


「余計なことはするな。喋るな。江戸に帰りたいなら御陣屋ごじんやで大人しく公儀の沙汰を待ってろ。もし……その、のお呼びがかかったとしても……絶対に、穢れをもたらすようなことは言うな」


「やんごとなき御方? それって藩主様のこと? それに穢れって……何のこと?」


 蓮太郎は目を逸らすように前方を向いた。


「いや……まあいい。閉めろ」

 有無を言わせない口調だった。


 華凛がドアを閉めると、蓮太郎はハンドルを右に切って脇道に入った。


 トラックは荷台をガタガタ鳴らしながら川と町並みの間の狭い道に入り、姿を消した。


 ほどなくしてワゴン車が本道の向こうから走り寄り、反転してから華凛の目の前で停車した。助手席と後部座席のドアが開き、中から数人がドヤドヤと降りてきた。


 まず近侍きんじらしき武士、次に太刀持ち。そしてその次に降りてきた身分の高そうなかみしも姿の男は、華凛の顔をじろじろと眺めて言った。


「いやいや、まさか本当に異人の機乗士きじょうしとは。御公儀ごこうぎも軽々なことをなさるもの……」


 そして後部座席に向けて手招きし、

「おなな、やれい」


 そう言われて最後に降りてきたのは、若い女性だった。背はすらりと高く、細面で気品のある顔。服装は、白い小袖に緋色の袴。手には御幣ごへいを持っている。要するに巫女の装束であった。


 女性は華凛の姿に上から下までさっと目を通した後、

「必要ありません」

 と言い返した。


「いやいや、ちゃんと祓ってやらねば御陣屋には入れられぬであろう。何しろ……」

 身分の高そうな裃の男は、華凛の栗色の髪と淡褐色の瞳を横目で見た。


 すると女性は目に力をこめて男を見据え、

「血は出ていません。汚れた服は着替えればいい。はらい落とすべきものは、何もありません」


「しかし……。いや、まあそちが申すのならばそれでよしとしよう。では……乗られませい」


 華凛にはこのやり取りの意味が何となく分かって不愉快な気持ちになったが、大人しく従ってワゴン車に乗り込んだ。


 後ろの席で裃の男が電話で誰かと話している声が聞こえてくる。


「いやいや、御公儀よりまず姫路の酒井さかい雅樂頭うたのかみ様にお伺いを立てねばならぬであろう。あわよくば姫路藩に全て押し付け……いや、肩代わりして頂くのだ。殿にそう伝え申せ。よいな、決して余計な波風を立てるでないぞ……」


 隣の巫女装束の女性がそっと囁いた。

御家老ごかろうの、比延ひえ大膳だいぜん様」


 華凛はむしろ、この巫女姿の女性の方に興味を持った。

「あなたは……?」


巻島まきしまなな。霊寄たまよせ巫女」


「霊寄せ巫女って……神降ろしの儀で、御霊機へ神験しんけんを送るっていう……?」


 華凛が目を丸くすると、巻島ななは横目でその視線を捉えた。


「珍しい?」


「ええと……はい。幕府陸軍ではずっと前から神験送信機構を使ってますから……」


「そう」

 ななは興味なさそうに前を向いた。


 車は陣屋町の目抜き通りを走ってゆく。両側に並び立つ家屋は最初は雑多な商店や民家だったが、やがて小さな門構えの武家屋敷が並ぶ侍町へと趣を変えていった。遥かに見える山の稜線のもと、瓦屋根が品よく連なっている風景を、華凛は素直に美しいと思った。


 進むにつれて道路の両側に木々が増え、その先にひと際立派な黒木のやぐら門が見えた。そこが神河藩の中枢、藩主の住居と政務の場である神河陣屋のようだ。ワゴン車は空堀にかけられた石橋を渡って櫓門をくぐり、広場の隅にある一棟の屋敷の前で停まった。


「申しわけありませぬが」

 と、華凛の後に降りてきた家老・比延大膳がさほど申し訳なくなさそうな様子で言った。


「当家は少身にござるゆえ、雅やかな持て成しなどは致せませぬ。ご了承頂けますかな」


「……はい。江戸に帰してもらえるだけで結構です」


「それともう一つ……」

 比延大膳は辺りを憚るように言った。

「くれぐれも、御宮おみや様にはお会いなさらぬよう。面倒なことになるやも知れませぬゆえ……」


「御宮様? 誰ですかそれは……?」


「……いや、ご存じないのならば結構。ではこちらへ……」


 その時、爆発音じみた大音が広場に響き、比延の言葉をかき消した。


「――――⁉」

 華凛はびくんと飛び跳ねて音のした方向を見た。


「あ」

 ななが口を僅かに開けた。


「……しもた」

 比延は息を吐いて額を押さえた。


 それは、戸が開いた音だった。屋敷の東側の一角で、雨戸が大きく開け放たれ、両手を広げた一人の人間が仁王立ちになっていた。


「あ……」

 華凛は思わず声を漏らした。その容姿が、比類を絶していたためだった。


 簡略化された十二ひとえのような色鮮やかな衣装と対照的に、肌はあくまで白い。長い黒髪は強風にも散らされることなく、空に流れる川のごとくしなやかになびく。絵に描いたように整った眉が陽気な弧を描き、大きな瞳は水面のようにきらきらと光を放っている。真っ直ぐに通った鼻は慎ましく、織ったばかりの絹のように滑らかな頬は紅潮し、小桜のような唇がこれ以上ないほど笑んでいる。つまりは、この世のものとは思えないほどに美しい少女であった。


「あの……あの、方、って……」


 誰に説明されなくとも分かる。あんな人間がこの世にいるとすれば、それは一種しかない。


 今人神いまひとがみ――神々の末裔として信仰を一身に集め、神験という力に変えることができる存在。


 曇天の下、地上の太陽のように輝く今人神の少女は、煌めきを放つ視線をまっすぐ華凛に向け、山々にまでこだまする大声で叫んだ。


「おった‼ 異人さんや‼」




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