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第6話 撞賢木鈴姫


 実に奇妙なことになった。


 華凛かりんは御殿の一室、電灯に照らされた八畳の対面の間に正座している。汚れた機乗服きじょうふくは着替えさせられ、貸し出された小袖こそではかまを着ていた。


 そして目の前には、電灯以上に輝きを放っている十代半ば頃の少女――今人神いまひとがみの少女は、畳に両手をついて身を乗り出し、人生でこれ以上に楽しいことはないといった表情で、華凛の顔面を穴のあくほど見つめていた。


 華凛は戸惑った。その視線は今まで受けてきたどれとも違っていた。嫌悪でも侮蔑でも軽い恐怖でもなく、ただ溢れんばかりの興味と好意に満ち満ちていた。


 しかしさすがに辟易して何か言おうとしたその時、少女の方が先に口を開いた。


「マイネームイズ、スズヒメ・ツキサカキ‼」


「へっ?」


「ナイストゥーミーチュー‼ アイムベリーベリーグラッドトゥシーユー‼」


 歌うような節がついた妙な英語だった。


「アンド、アンド……ユーアーベリーベリービューティフル‼」


「あ、あの! すみません! 私、日本語分かります……というか、日本語しか分からないんです……」


「え? あっ」

 少女はたちまち鬼灯ほおずきのように赤くなり、俯いて「ごめんなさい……」と蚊の鳴くような声で言った。


 華凛は慌てて、

「あ、でもさっきの英語はとても……とても分かりやすくて、いいと思いました……」


「え、ホントですか⁉ あははっ! やった!」

 感情が極端に変化する少女のようだった。


「それじゃあの、改めまして! 私は撞賢木つきさかき鈴姫すずひめです! 掛けまくもかしこ大祓神おおはらえのかみ瀬織津姫せおりつひめ末孫ばっそん! です!」


「あ……私は、丹治たんじ華凛と申します。父はネーデルラント人で、母は日本人……です」


「すごい……! それで! 華凛さんは幕臣さんなんですか⁉ 乗ってたのってどんな御霊機おんりょうきなんですか⁉ どうしてこの藩に来たんですか⁉」


 華凛は立て続けに繰り出される質問に、口外法度に触れないよう気を付けながらどうにか答えていった。


 鈴姫は一つ一つの話柄に感心したり驚いたり、過剰なほどの反応を返した。昼間の禍獣かもとの戦いの段になると、まるで目の前でその戦いが繰り広げられているかのように、ハッと息をのんだり、胸をなでおろしたりした。


「……でも、そこで隊長が責任を感じて、腹を切って果ててしまったんです……。でその後、」


「ひっ――‼」


 突然聞こえた短く鋭い悲鳴に、華凛は視線を上げた。


 鈴姫は何らかの攻撃を受けたかのようにのけ反り、両腕で自身の身体を抱いていた。顔はみるみるうちに真っ青になり、身体が小刻みに震えだした。


「腹を、切って……亡く、なった……?」


「え、ええ……あ、でもあなたを責めてるわけじゃ……」


 にわかに、鈴姫は泣き出した。


 それはもう、激烈に泣きじゃくった。


「え? ええ……⁉」

 華凛は慌てふためいて、部屋の隅にいる人物の方を見た。


 実は、部屋にいたのは二人だけではなかった。もう一人、恰幅のよい老女が、お目付け役なのか何なのか、最初から部屋の隅に座していたのである。しかし鈴姫が特に紹介もせず、老女本人も何も言わずにぼおっとしていただけだったので、華凛も気にしないようにしていたのだった。


 その老女は鈴姫の泣き声がわんわんと反響する中でさえ、視線をあさっての宙に向け、口をわずかに開け放している。目を開けたまま寝ているのではあるまいか。


 一方、鈴姫は泣き続けた。真っ青な顔で、震えながら。上っ面ではなく、心から泣いているのは明らかだった。幼子よりも純粋に恐れ、悲しんでいるのが痛いほど伝わってきた。


 華凛はおずおずと膝を寄せ、鈴姫の背にそっと手を置いた。


 鈴姫はしゃくり上げながら、

「ご、ごめんなさい……うっ……あの……悲しくって……うぅ……っか、かわいそうで……。し、し……死んでしまったなんて……そんなのって……!」


 華凛の胸に熱いものがこみ上げ、鼻がツンとなった。


 郁之助いくのすけの死を悲しんでいるのは自分だけなんじゃないかと、半ば思いかけていた。あの穂積ほづみ蓮太郎れんたろうとかいう男が言っていたことが確かだとすれば、江戸にいる郁之助の両親でさえ、息子の切腹を名誉に思いこそすれ、これほど悲しんではくれないだろう。見ず知らずの人間が死んだことに対して、こんなにも泣いてくれる人がいたなんて……。


 郁之助が死んでからずっと凝り固まっていた悲しみが、ようやく溶けて流れ出てきた。華凛は鈴姫の背をさすりながら、静かにすすり泣いた。


 しばらく、対面の間に二人分の泣き声が流れるだけの時間が続いた。


 やがて徐々に落ち着きを取り戻した鈴姫は、懐紙で鼻を押さえながら、

「今まで……この藩で、禍獣のために亡くなった人はいないって……そう聞いてたんです……」


「……そうなんですか」

 そんなことがあり得るだろうか、と心の隅で思いつつも華凛は頷いた。


「だから……人が亡くなったって聞くと、どうしても堪えられなくなって……」


「……ありがとうございます。こんなにも悲しんでくださって……せめてもの慰めになります」


 いつの間にか、華凛はごく自然に微笑んでいた。

「何だか私も、胸のつかえが取れたみたいです……。こう言うとあれですけど、今人神様が私の分まで泣いてくださったので」


 鈴姫は一瞬きょとんとした後、恥ずかしそうに笑った。そして、

「鈴姫と呼んでください……」


「そんな、それは畏れ多いです……」


 鈴姫は哀し気に首を振った。

「そんな大層なものじゃないんです、私は……。末裔っていっても、私自身はただの人間なんです。瀬織津姫様の神験を引き出してくれるのは巫女のななだし、『秋水しゅうすい』を動かしてるのは……あいつだし……」


「あいつって……穂積蓮太郎という人のことですか?」


 鈴姫は黙って頷いた。


「あの人、どういう人なんですか? 犬……何とかって言ってましたけど……」


 鈴姫は可愛らしく頬をぷくっと膨らませて、

「あいつのことなんて気にしなくていいんです。いや~な奴なんですから」


「いや~な奴……?」

 華凛の胸に、小さなわだかまりが生まれた。


「そんなことより! 訊きたいことがあるんです!」

 鈴姫はまた表情をぱっと輝かせ、十二ひとえの懐をごそごそ探り、おもむろにスマートフォンを取り出した。


 華凛はあまりにも不釣り合いな光景にぎょっとした。


「んーと……これ! この方のこと、知ってますか⁉」

 と言いながら鈴姫は膝を滑らせて華凛の側まで近づき、スマホの画面を見せてきた。


 映し出されていたのは配信サイトに投稿された動画だった。どうやら海外の討論番組か何かを切り抜いたもののようで、スタジオ内に多様な人種の男女が横一列に並んで座り、早口の英語で何やら議論を交わしている。


 そこに、

『あっははは! それで我が国を非難するのはお門違いというものだろう』

 突如はっきりとした日本語が轟いた。


 カメラが移動し、右端に座っていた発言者を捉える。


 今人神であることは明白な、美しさと勇ましさを完璧に備えた男だった。鋭く上がった眉、余計な肉のない頬、しっかりとした顎と形のいい口元には薄髭が生え、長い髪は頭の上で結って大きな髷を作り、そこから幾筋か垂れた後れ毛が、ジャケットスーツの肩に触れている。


「あ、知ってる……」

 華凛は頷いた。恐らく、日本のみならず世界で最も有名な今人神だろう。


 鈴姫は嬉しそうに笑い、高らかに言った。

「そう! 大名持おおなもち貴彦たかひこ様! 私のお父様です!」


「え――ええっ⁉」

 華凛は心底驚き、鈴姫の顔ととスマホの画面を交互に見つつ、

「この人って……! 確か十六年前に、倒幕の兵を挙げようとした人でしょ⁉ それが失敗して、国外に逃れたって習ったけど……! え、お父上なんですか⁉ 本当に⁉」


「あははっ! すごいでしょ! ね、見てください!」


 鈴姫は目を輝かせ、画面の中で話している大名持貴彦に見入った。


『孤立主義? 貿易の不公正? 人権侵害? 異人に対する不当な扱い? あっははは! おかしなことを仰る。そりゃそっくりそのまま、あんたらの国が今やってることじゃないか。国を閉ざせ異人は出て行け、世界のどこで何が起ころうが、自分達さえよけりゃそれでいいんだ、そう言って今まさに大騒ぎしてるんだろう』


 傲岸不遜そのものの態度で大名持貴彦は宣う。そのすぐ隣に座っている角縁眼鏡の日本人男性が、額に汗しながらマイクに向かって英語でたどたどしく話し始める。どうやら通訳らしい。


 恰幅の良い白人男性がすぐさま口を開き、口角泡を飛ばして英語をまくし立てる。


 通訳の男性がハンカチで汗を拭きつつ大名持に耳打ちし、大名持はますます鷹揚に、

『あっははは! そう怒りなさんなよ。しかし皮肉なもんだよなあ。百五十年余り前、我が国の鎖国を無理矢理解いたあんたらが……あっははは! 今や知っての通りの有様だ。そろそろ分かったんじゃないのかい、我が国は『世界最後の未開国』なんかじゃなく、むしろ『世界最後の先進国』なんだってな』


 鈴姫は「わあ……」とか「へえ……」とか言いながら画面に釘付けになっている。どうも話の内容はあまり分かっておらず、大名持の視覚的な威容に心奪われているように思えた。


 画面内では他の出演者数人が一斉に大名持に激論を飛ばし、スタジオは騒然となっている。司会者が苦笑しながらもなだめすかし、番組の締めに入ろうとした。


 だがそこで、

『おっと待った。最後に一つ言わせてくれないかい?』


 眼鏡の男性が通訳するまでもなく、出演者も客席も静まり返った。大名持の声には言語の壁など容易に越える威力があるらしい。


『知っての通り、東アジア一の貧乏国である我が日本の立国のもとは、御霊機――そっちで言う所の『賜りし恩寵の矛』か。そのずば抜けた性能と保有数のおかげだ。で、御霊機の力の源となるのはもちろん、人々の信仰心。……てなわけで世界の皆よ、』


 大名持は目の覚めるような笑顔をカメラに向けて言った。


『俺のチャンネル登録と、SNSのフォローよろしく。細かいことは気にすんな。日本の神々は寛容なんだ』


 再生は終了した。鈴姫はスマホを胸に抱き、感動のため息を吐いた。


「カッコいいですよね……海外の人の前で、あんなに堂々として……」


「あの大名持貴彦……様が、鈴姫様の……。一体どういうご縁で……?」


「えっと、十六年前、お父様が……倒幕活動? のため諸国を渡り歩いてる時に神河こうが藩に立ち寄られて、お母様と出会ってすぐ『妻問つまどい』なさったそうです。絵物語みたいで素敵ですよね」


「へえ……。でも大名持様って、今は幕府のお尋ね者でしょ? その、幕府の詮議せんぎとか、大丈夫なの……?」


 鈴姫は目を伏せ、悲しげに微笑んだ。

「……大丈夫です。私が物心つく頃にはもう日本にはおられませんでしたから。直接お会いしたことも、お話したこともありません。お母様も、私を産んですぐに亡くなられて……。私は、画面の中のお父様しか知らないんです」


 華凛は掛ける言葉が見つからず、押し黙った。


 壁際にある和時計の針が暮れ六つ(午後六時)を指し、鐘の電子音が鳴った。すると部屋の隅にいた老女が夢から醒めたように動き出した。


「は? ……ああ、姫様、夕餉の時間ですえ。……ほれ、あんたは早よ去んだってや」


 老女は華凛の方を見ずに手で追い払う仕草をした。


 鈴姫は老女に向かって頷き、

「分かった。でもちょっと待って、きぬ」


 そして両手で華凛の手を握り、満面の笑みで言った。

「明日もまた来てください! いつでもいいので! もっと聞きたいことがたっくさんあるんです!」


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