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第7話 禊


 翌日の朝、華凛かりん神河こうが藩の陣屋町を横切って、領内一の河川である千切ちぎり川のほとりへ向かっていた。


 朝一番、華凛が外出したいと申し出ると、家老の比延ひえ大膳だいぜんはすんなりと許しを出した。いっそそのままどこかへ消え去ってくれた方が面倒が減ると思っているんじゃないかと、華凛は密かに思っていた。


 川に向かう途上、陣屋に向かう武士や、町ですれ違う商人や、田に向かう百姓などは、華凛の姿を見ると露骨に睨んだり、逆に視線を避けて仲間内でひそひそと話したりしたが、そういう反応に慣れている華凛は気に留めずに大路を歩いた。


 霊寄たまよせ巫女の巻島ななに教えてもらった道をたどって町を抜け、川のせせらぎを聞きながら、華凛は岸辺にある目当ての場所に着いた。


(これが、家……?)


 事前に聞いていなければそこに家があるとは気づかなかっただろう。町家から離れた場所に、人の目から隠れるように雑多な木や草が生い茂った一角がある。その中に一軒のあばら屋が建っていた。壁板は黒く変色し、瓦は所々剥がれ落ちており、窓には雨戸がかかっていた。


 耳障りな虫の声が鳴り響く中、華凛は呼び鈴のない戸の前に立ち、ノックをするべきか声をかけるべきか悩んだ。するといきなり引き戸ががらりと開き、長身の男がそこに現れた。


「っ……!」

 華凛は驚いた。不意を衝かれたからというだけではなく、その男の服装が、上衣も袴も足袋も紐も、全て真っ白だったからだ。


 白装束を着た穂積ほづみ蓮太郎れんたろうは華凛を見下ろして少し眉を動かし、

「何の用だ」と言った。


「あの……今ちょっと時間ある?」


「ない」

 にべもなくそう言うと、蓮太郎は手拭いの入った桶を小脇に抱え、華凛を避けて生け垣の門を出て行った。


 すごすご引き下がるのも癪だったので、華凛は後を追った。

「ちょっと訊きたいことがあるだけなの! 少しくらいいいでしょ!」


 蓮太郎は無視して歩いた。家を覆い隠す草木を回り込み、すぐ裏手にある河原へと降りていく。華凛はその背に向けて、蝉の声に負けじと叫んだ。


「ねえ教えて! あなたは一体何者なの⁉ 武士でないなら、どうして御霊機おんりょうきに……!」


 蓮太郎は持っていた桶を砂礫の上に置き、

犬神人いぬじにんだと言っただろう」


「だからその……!」


 皆まで言う前に、忌々しげな声が返ってきた。

「神社に属する神官だ。太古の昔から神の社を守り奉り、境内を掃き清め、死者を葬送する――すなわち、神のために穢れを祓うことを役目としてきた」


 そう言うと蓮太郎は川の上流の方へ身体を向け、腰を曲げて二拝した。どうやら上流の岸辺に見える小さな森に向かって拝んでいる。そこに神河藩の鎮守である瀬織津姫せおりつひめ神社があるらしいことは、華凛はななから聞いていた。


「それって……あやびとの中だと、その、どれくらい……」

 華凛が言いにくそうにしていると、蓮太郎はその意を察したように、


「下の下だ。穢れを祓うということは、穢れに触れるということだ。穢れは忌避されるべきであり、穢れに触れる者は蔑まれ、貶められる。……人とも思われない妖し人の中でさえ、底にいる存在だ」


 華凛は余りの衝撃に声も出なかった。


「ただ、俺は特例として名字帯刀が許されている。……昔のことで、殿様に功が認められてな。だがあくまで犬神人、身分は下の下だ。大路を通ること、人の家の軒下に立つこと、公衆の場に顔を出すこと、移住、転職、自由な通婚、あらゆることが固く禁じられている。どうだ、これで満足か」


 華凛は言葉が出なかった。この藩に来て以来何度目かの衝撃を味わっていた。


 蓮太郎は腰をかがめたまま、上流の神社に向けて何やら祝詞のりとのようなものを小声で唱え始めた。その間に華凛は考えを整理しようとしたが、かなり長い祝詞が終わった後も、心中のもやはどうにもならなかった。


 蓮太郎の背に向けて、華凛はとりとめのないまま話し始めた。

「昨日、鈴姫様と話をしたの。それで、」


「……何だと」

 ここで蓮太郎は初めて華凛の方を向いた。それも、深い怒りを湛えた表情で。

「会って、話したのか」


「え、ええ……ぜひそうしたいって言われたから……」


 蓮太郎は数歩で華凛の目前に迫り、暗雲の渦巻くような眼で見下ろした。

「……郁之助いくのすけとやらが死んだこと……話したのか」

 その表情は明らかに、それが望ましくないことだと語っていた。


「え……っと、あんなに泣かれるとは思ってなくて、」


「穢れというものが具体的に何を指すか知っているか」

 蓮太郎は言葉を上から強く被せてきた。


「……血、とか?」


「そうだ。なぜなら血は穢れの最たるものに繋がっているからだ。そして穢れの最たるものとは、死だ」


 白装束の蓮太郎は瞳の奥に暗い炎を宿し、地獄の底から響いてくるような声で言った。


「……穢したな」


 周囲の気温が下がったように感じ、華凛は無意識に言葉を発していた。

「……つ、次からは、言わないように気をつける…………」


 蓮太郎はしばらく黙って華凛を見下ろしていたが、やがてあっさりと背を向け、川辺の方へ戻って行った。


 華凛は生き返った思いでどっと息を吐いたが、同時に蓮太郎の威に負けた自分が悔しくもあった。


 蓮太郎は今度は千切り川に向かって二拝している。その背に向かって何か言葉を投げつけたくなり、そもそも自分は何を言いたかったのだろうと思い、懸命に思い出そうとし、そして思い出したのはいいが論旨を組み立てる前に口が開き、その結果途中の段階をすっ飛ばしていきなり結論を叫んでしまった。


「……私は! この国を良くしたいと思ってるの……!」


 蓮太郎はゆっくりと腰を伸ばした。


 華凛は赤くなり、頭の中を整理しながら言った。

「つまりその……私は、この国が野蛮だ未開だって言われるのが嫌なの! だから変えたいのよ! 切腹なんていう前時代的な蛮習を続けてたり、中世みたいな身分制の中で生活したり……! そんな意識だから、日本はいつまでも後進国扱いされるのよ!」


 華凛の息継ぎの合間に、低い声の祝詞が入り込む。

「……燒鎌やきがまの敏とがま以ちて打ち掃ふ事の如く、遺る罪は在らじと 祓へ給ひきよめ給ふ事を……」


「昨夜鈴姫様は、郁之助さんの切腹のことを聞いてあんなに悲しんでくれた……! あの方もきっと、切腹なんて無くなればいいと思ってくれるはず……! そう、それだわ! 神様の、今人神の力を借りて、この国を変えていけばいいのよ!」


「……速川の瀨にす瀨織津比賣と云ふ神 大海原に持ち出でなむ……」


 華凛は興奮していた。胸の中で燃え上がりつつある炎を、目の前の白い大きな背中に何とかして燃え移そうと、必死になって訴えた。


「鈴姫様からこの藩の士民に向けて、呼び掛けてもらいましょうよ! 切腹なんてやめようって! 身分制を無くして、皆が平等の権利を持つ社会にしようって! まさに神様が人を導くみたいに! 神様が、人に奇跡を与えるみたいに!」


 華凛はそこで言葉を切って、相手の反応を待った。


 蓮太郎は口を閉じ、曲げていた腰を伸ばした。肩回りの筋肉が、さっきまでよりも細くなっているように見えた。


 蓮太郎は悲しげな声で言った。

「……あんたは何も分かってない。他国の風習や制度を一方的に悪と決めつけるその独善に満ちた厚顔さはさておくとしても…………まずこの国の神々のことを何一つ分かっていない」


 情熱の炎は一瞬にして消えた。華凛の言葉は、蓮太郎の心を燻らせることすらしなかったようだった。

「……それじゃ分からせてよ。何が問題なの……?」


 蓮太郎はゆっくりと膝をつき、湿った小石だらけの地面に正座した。


「……神道は本来、水のようにまっさらで、澄明ちょうめいなものだ」

 そして左手を川の水にそっと浸し、語りはじめた。


「太古の昔、この国にいた人々は山の威容を畏れ、森の幽冥さを畏れ、川の水勢を畏れた。畏れればすぐにその周りを清め、穢れが入り込まないようにした。それだけで、山や森や川は神になった。そこらの奇岩一つでも、周囲を清めてみだりに人の足が入らないようにすれば、すでにそこに神がおわす。それが、ただそれだけが神道だった……」


 蓮太郎は川に浸した左手をゆっくりと返した。その仕草はもはや愛おし気でさえあった。


「だから神道には教義も教祖もない。さらに言えば社殿も必要ない。社殿は後世になって、仏教が伝来した時、その風を真似て造られるようになったものだ。自然であれ物であれ人であれ、人々が畏れていつけば、それが神であり、ご神体であり、神社だった」


 蝉の声が止んだ。風が千切り川の水面を波立たせ、対岸の森と、その奥にある山の裾野をざわめかせた。華凛は説明のつかない何事かを感じ、息を忘れた。


柿本かきのもと人麻呂ひとまろが歌ったように、『葦原あしはらの 瑞穂みずほの国は 神ながら 言挙ことあげせぬ国』。神ながらとは神の本性のままにということ。言挙げせぬとは論を言わないということ。それが日本の神だ」


 蓮太郎は立ち上がり、徐々に語勢を強めながら言った。

「山や森や川が、人に向かって説法を垂れたり、人のために奇跡を起こしたりすると思うか。心得違いにも程がある。神はただおわすだけだ。山は山の本性のまま、川は川の本性のままに――神ながらに坐すだけだ。時には和魂にぎみたまを以て生命に恵みをもたらし、時には荒御魂あらみたまを以て破壊と死を振り撒く。そこに理非善悪はない。だからこそ人は神を畏れ敬う。そこに現世の利益りやくを乞おうなんて卑しい考えは持ちこむべきじゃない。ましてその御稜威みいつを借りて人の世を思い通りに変えようなんてことは――言語道断だ」


 華凛は思わず後ずさりそうになった。


 蓮太郎は草鞋を脱ぎ、川の中へ進み入った。ざぶざぶと歩を進め、膝上まで浸かったところで足を止め、

「あんたが勝手に勘違いするのは止めようがない。多くの外国人がそんな風に誤解しているようにな。……だが、かつてマシュー・ペリーという男がやったことと同じことをしようってんなら……流石に我慢がならない」


 蓮太郎は半身だけ振り返り、華凛を横目で睨みつけて言った。


「異なる文化の仕組みを理解しようともせずに、通俗的な価値観を振りかざして他者の世界を侵そうとするのは止せ。……自他共に、ろくな結果にならんぞ」


 そして蓮太郎は上流の方を向き、膝を折って肩まで水中に浸かった。


 神妙に目を閉じ、水流の中で屹立する澪標みおつくしのようにじっと動かなくなった。


 もはや外部からの何物をも受け入れないという意思が、嫌になるほど伝わってきた。


 華凛は鉛を飲み込んだような気分でその場を後にした。


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