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第8話 拝謁


華凛かりんさん……? 何かあったのですか?」


 鈴姫すずひめに言われて、華凛はハッとして目を上げた。


 昼前どき、華凛は昨夜と同じく対面の間で鈴姫と向き合っていた。ただし、今日はお目付け役の老女きぬの姿は無かった。


「いえ……何でもないの。どうぞ続けて……」


 数刻前に蓮太郎れんたろうに言われたことを話す気にはなれなかった。


「そうですか……。えっとそれでね、お父様は本当に凄い方なんです。播磨国の一ノ宮である大物主おおものぬし神社を司る今人神いまひとがみであらせられ、すごく頭が良くて諸藩の偉い人にも顔が利いて、海外にいるのに色んな事を知ってて……」


 実に楽しそうに語る鈴姫の顔を見ながら、華凛は再び物思いに沈んでいった。


 ……ただ本性のままに、『神ながらに』在るのが神ならば、今人神であるこの少女はこれからどんな人生を送るのだろう。ただ神の荒御魂あらみたまたる禍獣かもを鎮めるためだけに、御霊機おんりょうきに神験を送り込むだけの存在としての暮らしを続けてゆくのだろうか……


 華凛はまたしてもハッと我に返った。鈴姫が口をぎゅっと閉じ、赤い顔で上目遣いに見つめてきている。


 ついにこの闊達な少女を怒らせてしまった、と思い慌てて謝ろうとしたが、その前に鈴姫が言った。


「あの! 私の話、どこがダメでしたか⁉ 内容ですか⁉ 話し方ですか⁉」


「えっ……?」


 よく見ると鈴姫の表情は怒っているというより、自分のことを深く恥じ入り、悔しがっているように見えた。


「教えてください! 次までにちゃんと直したいんです! 私、何か良くないこと言っちゃってましたか⁉ あっ! 自分のことばかり話しちゃったのが悪かったんですねそうですね⁉」


「ち、違うの! 鈴姫様は何も悪くないの! 私が悪いの! 私、悩んでることがあって、それでぼんやりしてしまって……」


「あ……そうなんですか、良かっ……いえ良くないです! そっちの方が大変です!」

 鈴姫はますます身を乗り出してきた。


「悩んでることってなんですか⁉ どうか話してください! 話すだけでもきっと楽になりますから! 私、華凛さんの力になりたいんです!」


「え、ええっと……」


 話したくない、とはとても言えなかった。しかし今朝のことをそのまま伝えるのも気が進まない。あれこれ悩んだ挙句、華凛は自分でも意外なことを訊いた。


「鈴姫様には、志ってある……?」


「え? こころざし?」

 鈴姫は見事なまでにきょとんとした。

「いえ、志というか……夢というか……。今人神として果たさなきゃいけない役割以外に、やりたいこととかはないのかなって……」


 鈴姫は顔の横のびんを触りながら、

「うーんと……そんな、志なんて呼べるほど立派なものではないですけど……しいて言うなら」


「なになに? 教えて?」


「……えっと、」

 鈴姫は視線を左右に這わせ、お目付け役の老女の姿が無いことを確認した。そして鬢を指でくるりと巻きながら、華凛を上目遣いで見て言った。


「……人が死ぬのが、嫌なんです」


「……え?」


「人が、死ぬのが嫌で……だから……なんか、そんな感じのことを将来出来たらいいな……と」


 華凛は押し黙った。ついさっき、蓮太郎から聞いたことを考えれば、さもあろう、といった感じだ。


「すみません、やっぱり忘れてください……!」


 鈴姫は赤い顔で首を振った。華凛が何か声を掛けようとしたその時、


「姫様ぁ? お目通りの時間やさけ、通したんでぇ、ええなぁ」


 部屋の外から老女の間延びした声が響いてきた。


 鈴姫は口に手を当て、

「やば、今日やったっけ……」

 と小声で言った。


 一体何が、と華凛が疑問を口にする間もなく、背後の障子ががらりと開き、日光が畳を照らし、何者かの影をそこに映し出した。


 華凛は慌てて膝を滑らせ、部屋の中央から壁際の方へと身を寄せた。すると障子の向こうにいるその人物の全貌が見えた。


 糊のきいた肩衣を着た壮年の男が、縁側の床板に張り付くように平伏している。傍らには三方が置かれ、その上には何かの本が乗っている。さらにその側で、きぬがぼんやりと突っ立っていた。


 男は平伏したまま、くぐもった声で言った。


「天顔、拝し奉りまして恐懼の極みにござりまする。主上におかれましてはその後、恙なくお過ごしでございましたでしょうか」


 華凛は声を上げそうになった。その声は数刻前に、嫌になるほど聞いた。


 シミ一つない肩衣を着て縁側に這いつくばっているのは誰あろう、穂積ほづみ蓮太郎だった。今朝、蓮太郎が川で身を清めていたのは今この時のためだったのか、と華凛は唐突に悟った。


 鈴姫は頬を膨らませ、そっぽを向きながら、

「……今お客様と話しとんねんけど」

 と、今までとは打って変わったぶっきらぼうな調子で言った。


「……畏れながら、主上しゅじょう


 蓮太郎はほんの少し華凛の方に顔を上げ、

「そちらのお客人とはあまりお話になられぬ方がよいかと存じまする」


「なんでよ」

 鈴姫は目をむいて蓮太郎の頭頂部を睨んだ。


御為おためよろしからず」


「そんなん勝手に決めんといてよ! うちは華凛さんと話したいから話しとんの!」


「江戸言葉をお使いください」


「そっちこそ! 喋るんやったらこっち来て人の顔見て喋りぃよ!」


「貴人の御尊顔を直接拝するは礼を失する行いにござりまする。たとえ主上が御自ら礼を失されようとも」


「むくく……そういう言い方の方が礼を失しとんのとちゃうの!」


 傍らでやりとりを聞いていた華凛は内心安堵する所があった。というのも、鈴姫が蓮太郎のことを「いや~な奴」と言ったりこういう態度を取ったりするのは、ひょっとして蓮太郎の身分に関係があるのではないかと思っていたからだ。しかしそうではないことが分かった。……これはいや~な奴だわ。


 鈴姫はため息をつき、足を横に崩して言った。

「もーえーからはよ終わらしてよ」


「主上が威儀をお正しくださいますれば」


 じろり、と鈴姫は蓮太郎を睨んだ後、いきなり身体をべたっと前に投げ出した。そして畳の上で泳ぐように、うつ伏せで両手足をばたばたさせた。


 華凛は吹き出しそうになるのを必死でこらえた。蓮太郎は相変わらず頭を下げたままだったが、小さくため息を吐く音が聞こえた。


「……されば結構。此度は亀の姫神にでも拝謁したと思うことに致しまする」


 鈴姫は大きく広がった黒髪の下からぷくく、と声を漏らした。


 蓮太郎は傍らの三方を持ちあげ、自分の頭の前に置き直した。その間、やはり頭は下げたまま、一度も鈴姫の方に顔を向けなかった。


 すると老女のきぬが動き出し、本が乗った三方を持って部屋に入り、寝そべっている鈴姫の頭の側にぞんざいに置いた。そして部屋の隅に移動し、正座してまた虚ろな目を宙に向けた。


「今月の御進物は前回に続きまして、『中等本朝史教書巻の十四・新幕府の成立と勧請かんじょう技術革新』でござりまする」


「……題名聞いただけで寝そうになるわ」

 鈴姫は本を見もせずに言った。


「されば主上。先月進上仕りました『巻の十三・旧幕府の終焉と慶応の大天変だいてんぺん』はお読みになられましたでしょうな」


 ぴくん、と鈴姫の肩が動いた。

「……んー」


「では畏れながら伺い申しあげまする。『慶応の大天変』とは、何年何月何日のことでござりましょうか」


「慶応、の…………もにゅもにゅ」


「もにゅもにゅ、とは」


「うぅー……」

 鈴姫は困り果てた顔を華凛の方に向けた。


 華凛はすぐさま指を順々に立て、さらに口の動きで数字を示した。……四、四、一……


「慶応四年四月一日!」

 鈴姫は得意げに言ってのけた。


「……左様。なれど次からはそちらのお客人のお節介抜きでお答えいただきたき所存にござりまする」


 華凛と鈴姫は互いにしかめっ面を見合わせた。


「慶応四年当時、旧幕府軍は刹摩さつま張州ちょうしゅう斗佐とさ飛前ひぜん差賀さが軍のために退勢極まり、江戸において最後の抗戦が行われる一歩手前でございました。ところが四月一日その時、天にも地にも溢れんばかりに出現した禍獣の大群により、刹張斗飛さっちょうとひ軍は壊滅的被害を被りました。その後、幕府軍は勢いを盛り返し、数々の戦いで倒幕軍を圧倒し、慶応四年十月二十三日、ついに京を奪還、そして朝廷にとある勅許を迫ったのですが、さてその勅許とは――」


 鈴姫は今度は自分で答えた。

「たいせーさいにーん……」


「大政再委任。左様でござりまする。これにより朝廷は幕府を再び日本の統治者と認め、刹張さっちょうが巻き起こした倒幕騒ぎは終息に向かいました。しかし新幕府はその後も様々な危機に直面していくのでございますが、まず――」


 ここでついに鈴姫が音を上げた。

「もーええって! そんなんいちいち覚えて何の役に立つん⁉」


「江戸言葉をお使いください。何度も申し上げておりますように、御年十八におなりあそばされた暁には、神河こうが藩鎮守の今人神として、幕府や諸藩の士を引見なされるお立場に――」


「あと三年もあるやん! それにそんな引見なんか、お客さんが頭下げとんのをただじっと見とったらええだけやろ! うち知っとうもん!」


「江戸言葉をお使いください。大半はそうであっても、位持ちの武士などには直接言葉をかけてやらねばなりませぬ。その際に間違っても恥をかかれることのないよう、正しい言葉遣いと確かな見識を身に付けあそばされねばなりませぬ」


 鈴姫は相変わらず畳にべったりと張り付いたまま、もぞもぞと動いた。

「別に恥かいたってええもん。 ずっとここにおるんやし」


「……たとえそうであっても、そのような心持ちでおられてはなりませぬ」

「なんでよ」


「御為よろしからず」


「……んなーあ‼」

 鈴姫は打ち上げられた鯉のように跳ねた。


 そろそろ口を出すべきかそれともこのまま地蔵を決め込むべきか、華凛が迷っていると、楚々とした足音と共に、障子の陰から新たな人物が縁側に姿を現した。


「あ! なな!」

 鈴姫は上半身を持ち上げ、ほっそりした美人の姿を見上げた。


 霊寄たまよせ巫女のなな――この時は巫女装束ではなく桜模様の小袖こそで姿だった――は、両手をそろえて腰を曲げ、鈴姫と華凛に向かって順番に詫びた。


「お邪魔してすみません」


「どないしたん? うちに何か用事?」


 鈴姫は嬉しそうに訊いたが、ななは柔らかく微笑し、


「残念、こっち」

 と、足元に平伏している蓮太郎を指でちょいちょいと指した。


 蓮太郎は身体ごとななの方を向いてから頭を上げ、

「……どうした」


 ななは蓮太郎のすぐそばに膝を折り、互いの頬が触れるかどうかの所まで顔を近づけ、耳元に何かを囁いた。


 その内容は聞こえなかったが、蓮太郎が驚きに目を見開いて呟いた言葉は聞こえた。

「『トラ』が? ここに来てるのか」


「ん……喫緊の、事態だって」


 何事かは分からないが、ただならぬ空気が二人の様子から感じ取れた。鈴姫はアシカのような体勢で、二人のただならぬ様子に興味津々の目を向けている。


 蓮太郎はしばらく眉をひそめて何かを考えた後、また身体を正面に向けて平伏した。


「真に勝手ながら主上、此度の拝謁はこれまでとさせて頂きとうござりまする。何卒、お許しを……」


「ああ、はいはい許す許す……」

 鈴姫はぺたっとうつ伏せに戻った。


「では……来月に。くれぐれも、御勉学に勤めなさいますよう、重ねてお願い申し上げまする」


「んー」


「もし御身体の御不調などございますれば、すぐななにお伝えくださりますように」


「分かったって」


「それと……ゲームはほどほどになされませ」


「……うぇー」


 肯定か否定か分からない鈴姫の返事を聞いた後、蓮太郎は膝立ちで少し下がって障子を閉めた。それから蓮太郎とななが立ち上がり、そそくさと去って行くのが影で分かった。


 鈴姫はぴょんと身を起こし、元のように慎ましく正座して、髪を撫でつけながらぶつぶつ言った。


「あの穂積……お父様に言い付けられてるそうなんです。月に一回、私の機嫌伺いをしなさいって。私が産まれた時から続いてるんですって。だけどあいつ、うるさいのなんのって……。二言目には勉強しろ勉強しろ言葉遣いを直せって」


 華凛は久しぶりに口を開いた。

「……まあ、それも務めなのよきっと。鈴姫様の為なのは確かだと思うし……」


「だったらせめてちゃんと私の顔を見て言ってよって思いませんか? いっつも縁側に這いつくばって、私がいくら言っても顔上げなくて」


「それは……あの人の身分が、その……」


 華凛は何と言うべきか迷ったが、鈴姫はごく軽い調子で、


あやびとだから? けど私そんなの気にしないってずっと言ってるんですよ。そもそも穂積だけなんです、私にうるさく言ったり、やたら馬鹿丁寧に接してくるの。御陣屋ごじんやの人達は堅苦しい挨拶なんかしてこないし、おじさまだって普通に優しいし」


「おじさま?」


「藩主の本多ほんだ淡路守あわじのかみ様です。お家の繋がりとかは無いんですけど、私にすっごく優しくしてくれて、パソコンもスマホもゲームも買ってくださったんですよ」


「へ、へえ……」

 小藩とはいえ大名でさえも、この少女にとっては優しいおじさんらしい。


 鈴姫は思い出したように顔を輝かせた。

「それより華凛さん、さっき穂積とななが何話し合っててたのか気になりませんか⁉ なりますよね⁉」


「え? ……まあ、ちょっとは」


「やっぱり! せっかくやしちょっと覗きに行かへん? ……じゃなくて行きませんか?」


「や、でも……」

 華凛は部屋の隅で虚空を眺めている老女きぬの方に目をやった。


「大丈夫です! きぬは相当騒がない限りずっとあのままですから!」


「そ、そうなの? けど、覗くってのはちょっと……。私一応、幕府の沙汰待ちの身だし……」


「だい! じょう! ぶです! 私といれば御陣屋の大人達は何も言ってきませんから!」


 そういう問題じゃないんでは、と言いかけたが、鈴姫はもう立ち上がっている。


「さ、行きましょ!」


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