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第10話 二十一年前


 陽が落ちた後、華凛かりんは陣屋の一室で、ななと向かい合って座っていた。


 そこは御殿の奥の方にある小部屋で、どうやら御次の間のようだった。


 風が雨戸を激しく打つ音に混じって、時折誰かが慌ただしく走る音や、興奮して話し合っている声などが聞こえてくる。公文くもん寅美とらみが応接方に話した内容が、陣屋中に広まりつつあるのだろう。


「あの……ななさん」

 華凛はおずおずと話しかけた。自分がここにいる理由が今一つ分からなかった。

「話したいことって、何なんですか……? どうして鈴姫すずひめ様じゃなく、私に……?」


 ななは壁の時計をちらりと見た後、力のこもった目で華凛を見つめ、唐突に切り出した。


「……鈴姫様の、お母様……冬姫ふゆひめ様……亡くなったの。十五年前……ご病気で」


 昼間、鈴姫もそんなことを言っていた。華凛は黙って頷いた。


「話すのは、それよりもっと前のこと。冬姫様が、まだ子供だった頃のこと」


「……それならやっぱり、私じゃなくて鈴姫様に話したほうが……」


「正確には、二十一年前の春。場所は、瀬織津姫せおりつひめ神社の裏手」


「あの、ななさん? 聞いて……」


「その夜は、晴れてた。千切ちぎり川も、やっと落ち着いてくれてた……」


「え? もう始まってる?」


 ―――― ◇ ――――


 前日までの荒天が嘘だったようにその夜は晴れ、千切り川の水もまだ濁ってはいるものの、流れは本来の穏やかさを取り戻しつつあった。


 泥だらけの河原には流木や小岩が散乱しており、その中にひときわ大きな岩がぽつんとある。


 ななと冬姫の二人はその上に腰かけ、濁った千切り川を眺めるともなく眺めていた。


 撞賢木つきさかき冬姫は銘仙の着物を着て、髪を長く後ろに垂らしている。輝くような美しさも今は濡れそぼったように色を失い、大きな目は泣き腫らし、時折手で額を押さえて苦しそうな声を出す。その度にななは左手を冬姫の肩に回し、自分の胸に抱き寄せるのだった。


 しばらくして、背後から砂利を踏みしめる足音が聞こえてきた。


 ななは振り返る。小僧のくせに常にしかめっ面の顔、枝のように細い手足、白の上衣に浅葱あさぎ色の袴――十三歳の穂積ほづみ蓮太郎れんたろうが、鎮守の森から河原に出てくるところだった。


 蓮太郎は眉間に跡が残りそうなほど皴を寄せ、砂利を蹴り歩きながら岩に近づき、迷わず冬姫の左隣に腰かけた。


「……消してきた。全部」

 歯ぎしりのような声だった。


 冬姫は振り絞るようにして笑顔を作り、かすれた声で言った。

「今日は、なんて書いてあった……?」


「知らん。見てへん」

 蓮太郎は親の仇のように自分の手元を睨んでいた。


「……うち、気にしてへんよ。大丈夫」

 冬姫は優しく蓮太郎に言ったが、逆効果だった。


 蓮太郎は両手を握り締め、冬姫と反対の方を向いて吐き捨てた。

「もう堪えられん……! 書いた奴一人残らず見つけて、ぶっころ――ぶちのめしたる……! 神社にあんな落書きするとか、神様も絶対許さへん……!」


 冬姫はどこまでも穏やかに、ゆっくりと首を振った。

「神様に言うとんのとちゃうよ。うちに言うとんの……。仕方ないんよ。大事な人を突然奪われて、家も田んぼも流されてもうて、だからって神様恨むわけにいかへんもん……。でも、それでも、誰かを恨まんとどうしようもないんよ……。ななも、そうやったやろ……?」


 ななは冬姫の顔を見つめ、目に力をこめた。

「私は、恨んだことなんかない。父様も、母様も、きっと……。人は、禍獣かもには勝てへん……」


「殿様が御霊機買うてくれとったら……」

 と蓮太郎が悔しそうに言うと、冬姫は力なく笑い、


「お金、いっぱいかかるんやろ……? ただでさえ禍獣かもさん出て大変やのに、年貢までぎょうさん取られてもうたら、お百姓さんが可哀そうよ……」


 三人は沈黙した。満天の星空のもと、川の流れる音がことさら大きく耳に響く。


 やがて蓮太郎が岩から飛び降り、瀬に数歩近づいた。


「……やっぱり出てくしかない」


 冬姫がその背に向けて困ったように微笑んだ。

「また脱藩計画?」


 蓮太郎は星空に向かって吼えた。

「もう実行するしかない! こんな藩、こっちから捨てたったらええ! あんな奴らがおるとこ……冬姫にはふさわしくない! あんなこと言われんのやったら、今人神いまひとがみなんかやめたったらええねん!」


「……どこに逃げても、今人神はやめられへんよ」


「やめれる! 世の中が変わったら!」


 冬姫は顔を上げた。丸く見開かれたその目に、蓮太郎の真剣な顔が映っていた。


「この国の誰もが、自分の志を遂げられるような世の中になったら! 今人神も、武士も百姓も町人も、犬神人も! 上も下もない、誰が何をするんも自由な世の中になったら! 冬姫は禍獣が出るたんびに悪く言われんで済むし、夜中にこうやってこっそり会わんでも、三人で大手を振って町を歩ける! 何もかもええ方に変わる!」


 冬姫は再び顔を下げ、優しさのこもった口調で言った。

「……蓮太郎は、武士になりたかったんとちゃうの?」


「俺は……そう、日本中の人間が武士になったらええ! みんな一人一人が誇りを持って、みんなが御政道のこととか、国のこととかを考えられるようになったら、それが最高やろ!」


「……素敵な夢やね」

 冬姫の声は笑っているようにも泣いているようにも聞こえた。


「そう! だから命を懸けられる!」

 蓮太郎は振り返り、星を見上げた。


「旧幕時代、あれだけたくさんの志士が、命も顧みんと故郷を飛び出して奔走した理由が分かった……! みんなこんな風に夢見てたんや……! 自分達の手で、新しい世を創ることを……! 俺もそう思える……冬姫が苦しまんと生きていける世を創るためやったら、命なんかいくらでも懸けられる!」


 冬姫は潤んだ目で蓮太郎の背中を見た後、下を向いて鼻をすすり上げた。そして、

「……なな」と呼んだ。


 ななは冬姫の手に自分の手を重ね、

「私も……冬姫は、ここを出て行った方がええと思う……それに、」

 と、星空に向かって拳を振り上げている蓮太郎に目をやり、

「あんなん、放っとかれへん」


 冬姫はくすくす笑いながら、

「うちは……ななと、蓮太郎と、ずっと一緒におれたらそれでええから……だから……」


 冬姫は岩から降り、涙の跡が残る顔で微笑んだ。

「……ええよ。行こ。みんなが志を遂げられる世の中……創れるように、一緒にがんばろ」


「約束する‼ 絶対実現したる‼ ……あと、冬姫の頭痛直す方法も、絶対見つけたる‼」

 蓮太郎は拳を握り締めた。


 ななも岩から降り、はしゃいでいる蓮太郎に問いかけた。

「藩抜けてから、どうするん」


「やっぱまずは宍粟しそう大物主おおものぬし様んとこに行くんがええと思う。どんな人か知らんけど、なんせ一ノ宮様やし、多分話したら分かってくれるはず……」


「ん……その後は」


「やっぱり刹張斗飛さっちょうとひやろ! なんせ雄藩やし、旧幕時代の気概もまだ残っとうやろうし、御霊機もいっぱい持っとうし、それに……」

 蓮太郎は少し声を落として言った。

「今人神のことにも詳しそうやから、冬姫の頭痛いの治す方法も見つかるかもしれんし……」


 冬姫は安心させるように微笑み、

「ええよ。どこでも行きたいとこ行こ」


「冬姫は、どっか行きたいとこないの?」


 ななが訊くと、冬姫は口元に手を当てて悩んだ。

「うーん……うちは……どこでもええねんけど……」


 冬姫は、目の前を流れる濁った千切り川を見た。

「うちは、海に出たいかな……海に出て、そんで……いつか三人で船乗って、外国まで行ってみたいな……」


 蓮太郎とななは顔を見合わせ、そして二人そろって冬姫に頷いて見せた。


「海やったら播磨灘はりまなだに出たらすぐ見れる! 海外渡航も、幕府の許しが出たら……いや、幕府の許しなんかなくても、いつか誰でも自由に海外行けるようにしたる! それも約束する‼」


「ん。いつか、三人で」


 冬姫は二人の顔をそれぞれ見て、


「……あははっ!」


 心から嬉しそうに、笑った。


 ―――― ◇ ――――


 華凛は途中から息をするのを忘れてしまったかのようだった。


 ななはすでに話すのを止め、石のように沈黙している。


 乾いた口を無理矢理動かし、華凛は訊ねた。

「そ、それで……?」


「二日後に、脱藩」


「……三人で」


「ん」

 ななは頷いた。


「……刹張斗飛さっちょうとひに?」


「最初は、宍粟しそう大物主おおものぬし神社。そこの……今人神様が、助けになってくれた」


「……その方って、確か……」


「ん……鈴姫様の……御父君」


「……それから、諸藩に?」


「ん。張州ちょうしゅう斗佐とさ刹摩さつま……あといろいろ」


「……その時、公文くもんさんと」


「ん。いろんな人と」


「……誰もが志を遂げられる世のため……冬姫様の……ために」


「……ん」


 頭の中で無数の疑問が竜巻のように旋回している。その重みでふらつきそうになりながらも、華凛は目下の所にある疑問をとりあえず口にした。


「どうして……今の話を、私にしたんですか……?」


ななは華凛の頭越しに遠くを見るような目で言った。


「……『鈴姫様には話すな』って言われてる。蓮太郎に。……でも、もう知っておくべき」


「それじゃあ、私から鈴姫様に話せってことですか……? でもそれは……」


 しかしななは首を振った。

「そんなこと、頼まない。あなたは、もののついで」


「……え?」


 スパアアン‼


 華凛は正座したまま飛び上がった。振り向くと、開け放たれた襖の中央に、両手を広げて仁王立ちしている真っ赤な顔の少女――


 鈴姫は泣き三割、怒り七割といった表情で肩を上下させていた。


 驚愕の姿勢のまま固まっている華凛の後ろで、ななが落ち着き払って言った。


「『聞かせるな』とは、言われてない」





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