陽が落ちた後、
そこは御殿の奥の方にある小部屋で、どうやら御次の間のようだった。
風が雨戸を激しく打つ音に混じって、時折誰かが慌ただしく走る音や、興奮して話し合っている声などが聞こえてくる。
「あの……ななさん」
華凛はおずおずと話しかけた。自分がここにいる理由が今一つ分からなかった。
「話したいことって、何なんですか……? どうして
ななは壁の時計をちらりと見た後、力のこもった目で華凛を見つめ、唐突に切り出した。
「……鈴姫様の、お母様……
昼間、鈴姫もそんなことを言っていた。華凛は黙って頷いた。
「話すのは、それよりもっと前のこと。冬姫様が、まだ子供だった頃のこと」
「……それならやっぱり、私じゃなくて鈴姫様に話したほうが……」
「正確には、二十一年前の春。場所は、
「あの、ななさん? 聞いて……」
「その夜は、晴れてた。
「え? もう始まってる?」
―――― ◇ ――――
前日までの荒天が嘘だったようにその夜は晴れ、千切り川の水もまだ濁ってはいるものの、流れは本来の穏やかさを取り戻しつつあった。
泥だらけの河原には流木や小岩が散乱しており、その中にひときわ大きな岩がぽつんとある。
ななと冬姫の二人はその上に腰かけ、濁った千切り川を眺めるともなく眺めていた。
しばらくして、背後から砂利を踏みしめる足音が聞こえてきた。
ななは振り返る。小僧のくせに常にしかめっ面の顔、枝のように細い手足、白の上衣に
蓮太郎は眉間に跡が残りそうなほど皴を寄せ、砂利を蹴り歩きながら岩に近づき、迷わず冬姫の左隣に腰かけた。
「……消してきた。全部」
歯ぎしりのような声だった。
冬姫は振り絞るようにして笑顔を作り、かすれた声で言った。
「今日は、なんて書いてあった……?」
「知らん。見てへん」
蓮太郎は親の仇のように自分の手元を睨んでいた。
「……うち、気にしてへんよ。大丈夫」
冬姫は優しく蓮太郎に言ったが、逆効果だった。
蓮太郎は両手を握り締め、冬姫と反対の方を向いて吐き捨てた。
「もう堪えられん……! 書いた奴一人残らず見つけて、ぶっころ――ぶちのめしたる……! 神社にあんな落書きするとか、神様も絶対許さへん……!」
冬姫はどこまでも穏やかに、ゆっくりと首を振った。
「神様に言うとんのとちゃうよ。うちに言うとんの……。仕方ないんよ。大事な人を突然奪われて、家も田んぼも流されてもうて、だからって神様恨むわけにいかへんもん……。でも、それでも、誰かを恨まんとどうしようもないんよ……。ななも、そうやったやろ……?」
ななは冬姫の顔を見つめ、目に力をこめた。
「私は、恨んだことなんかない。父様も、母様も、きっと……。人は、
「殿様が御霊機買うてくれとったら……」
と蓮太郎が悔しそうに言うと、冬姫は力なく笑い、
「お金、いっぱいかかるんやろ……? ただでさえ
三人は沈黙した。満天の星空のもと、川の流れる音がことさら大きく耳に響く。
やがて蓮太郎が岩から飛び降り、瀬に数歩近づいた。
「……やっぱり出てくしかない」
冬姫がその背に向けて困ったように微笑んだ。
「また脱藩計画?」
蓮太郎は星空に向かって吼えた。
「もう実行するしかない! こんな藩、こっちから捨てたったらええ! あんな奴らがおるとこ……冬姫にはふさわしくない! あんなこと言われんのやったら、
「……どこに逃げても、今人神はやめられへんよ」
「やめれる! 世の中が変わったら!」
冬姫は顔を上げた。丸く見開かれたその目に、蓮太郎の真剣な顔が映っていた。
「この国の誰もが、自分の志を遂げられるような世の中になったら! 今人神も、武士も百姓も町人も、犬神人も! 上も下もない、誰が何をするんも自由な世の中になったら! 冬姫は禍獣が出るたんびに悪く言われんで済むし、夜中にこうやってこっそり会わんでも、三人で大手を振って町を歩ける! 何もかもええ方に変わる!」
冬姫は再び顔を下げ、優しさのこもった口調で言った。
「……蓮太郎は、武士になりたかったんとちゃうの?」
「俺は……そう、日本中の人間が武士になったらええ! みんな一人一人が誇りを持って、みんなが御政道のこととか、国のこととかを考えられるようになったら、それが最高やろ!」
「……素敵な夢やね」
冬姫の声は笑っているようにも泣いているようにも聞こえた。
「そう! だから命を懸けられる!」
蓮太郎は振り返り、星を見上げた。
「旧幕時代、あれだけたくさんの志士が、命も顧みんと故郷を飛び出して奔走した理由が分かった……! みんなこんな風に夢見てたんや……! 自分達の手で、新しい世を創ることを……! 俺もそう思える……冬姫が苦しまんと生きていける世を創るためやったら、命なんかいくらでも懸けられる!」
冬姫は潤んだ目で蓮太郎の背中を見た後、下を向いて鼻をすすり上げた。そして、
「……なな」と呼んだ。
ななは冬姫の手に自分の手を重ね、
「私も……冬姫は、ここを出て行った方がええと思う……それに、」
と、星空に向かって拳を振り上げている蓮太郎に目をやり、
「あんなん、放っとかれへん」
冬姫はくすくす笑いながら、
「うちは……ななと、蓮太郎と、ずっと一緒におれたらそれでええから……だから……」
冬姫は岩から降り、涙の跡が残る顔で微笑んだ。
「……ええよ。行こ。みんなが志を遂げられる世の中……創れるように、一緒にがんばろ」
「約束する‼ 絶対実現したる‼ ……あと、冬姫の頭痛直す方法も、絶対見つけたる‼」
蓮太郎は拳を握り締めた。
ななも岩から降り、はしゃいでいる蓮太郎に問いかけた。
「藩抜けてから、どうするん」
「やっぱまずは
「ん……その後は」
「やっぱり
蓮太郎は少し声を落として言った。
「今人神のことにも詳しそうやから、冬姫の頭痛いの治す方法も見つかるかもしれんし……」
冬姫は安心させるように微笑み、
「ええよ。どこでも行きたいとこ行こ」
「冬姫は、どっか行きたいとこないの?」
ななが訊くと、冬姫は口元に手を当てて悩んだ。
「うーん……うちは……どこでもええねんけど……」
冬姫は、目の前を流れる濁った千切り川を見た。
「うちは、海に出たいかな……海に出て、そんで……いつか三人で船乗って、外国まで行ってみたいな……」
蓮太郎とななは顔を見合わせ、そして二人そろって冬姫に頷いて見せた。
「海やったら
「ん。いつか、三人で」
冬姫は二人の顔をそれぞれ見て、
「……あははっ!」
心から嬉しそうに、笑った。
―――― ◇ ――――
華凛は途中から息をするのを忘れてしまったかのようだった。
ななはすでに話すのを止め、石のように沈黙している。
乾いた口を無理矢理動かし、華凛は訊ねた。
「そ、それで……?」
「二日後に、脱藩」
「……三人で」
「ん」
ななは頷いた。
「……
「最初は、
「……その方って、確か……」
「ん……鈴姫様の……御父君」
「……それから、諸藩に?」
「ん。
「……その時、
「ん。いろんな人と」
「……誰もが志を遂げられる世のため……冬姫様の……ために」
「……ん」
頭の中で無数の疑問が竜巻のように旋回している。その重みでふらつきそうになりながらも、華凛は目下の所にある疑問をとりあえず口にした。
「どうして……今の話を、私にしたんですか……?」
ななは華凛の頭越しに遠くを見るような目で言った。
「……『鈴姫様には話すな』って言われてる。蓮太郎に。……でも、もう知っておくべき」
「それじゃあ、私から鈴姫様に話せってことですか……? でもそれは……」
しかしななは首を振った。
「そんなこと、頼まない。あなたは、もののついで」
「……え?」
スパアアン‼
華凛は正座したまま飛び上がった。振り向くと、開け放たれた襖の中央に、両手を広げて仁王立ちしている真っ赤な顔の少女――
鈴姫は泣き三割、怒り七割といった表情で肩を上下させていた。
驚愕の姿勢のまま固まっている華凛の後ろで、ななが落ち着き払って言った。
「『聞かせるな』とは、言われてない」