大急ぎでベルトを外し、ヘルメットを脱ぎ捨て、側面の扉を開けて外に飛び降りる。
鳥居の方を見ると、やはりと言うべきか、
『あらぁ。
蓮太郎は走り、鈴姫の前を塞ぐように片膝をつき、頭を下げて言った。
「主上、何故ここに……! 公文に何を言われたのです!」
「
鈴姫はこれまでになく蒼白な顔で、唇を震わせながらも熱を込めて言った。
「今すぐお戻りくださりませ! ここは
「ううん、そんなわけにいかへん……!」
鈴姫は蓮太郎を避けて前に進み出た。神官、巫女達が一様に驚愕の表情で固まり、その中央に坐す少年も、口をわずかに開け、両目を球体にして鈴姫を見つめている。
「
鈴姫は慌ただしく礼をした後、急き込んで言った。
「どうか……どうか、そんなことはやめてください! あなた達が神河藩を襲おうとしたわけじゃない! お父様に、
しかし豊成は徐々に視線を下げ、やがて元のように悲痛な面持ちで俯いてしまった。
傍らの老人が、両手をついて鈴姫に頭を下げ、
「撞賢木鈴姫様……何と何と、御母堂に生き写しであられること。しかしながらそのお言葉、間違いであると申さねばなりません。大名持様の挙に応じて神河藩を襲撃することも、それが破れた暁には自刃するということも、全てはこちらにおわす豊成様の御意思にございます」
鈴姫は息を呑み、年下の少年に問いかけた。
「ど、どうして……⁉ 一体、何が望みでそんなことをなされるのですか⁉」
遠津山豊成は唇をわずかに開き、消え入りそうな声で、だがはっきりと口にした。
「…………死にたい」
鈴姫は衝撃のあまり後ずさった。まるで攻撃を受けたかのように胸を押さえ、呼吸を荒げた。
「な……そ、んな……」
豊成は堰を切ったように言葉を続けた。
「あんな人間が、のうのうと生きてるこんな世……ぶっ壊れればいい……踏み潰して、焼き払って、消えてしまったらいい……! それが無理なら、私が……! 私が消えてやる……!」
豊成は喋るうちに大粒の涙を流し、ついには毛氈の上に突っ伏して嗚咽した。神官の老人がその肩に優しく手を置き、
「……
鈴姫に切実な顔を向けて語りはじめた。
「麓の富原藩では
老人は次第に肩を震わせ、声に怒りを込めていった。
「その怒りの矛先を……! こともあろうに、この豊成様へ向けるなど……! この年端もゆかぬ今人神に、あのようなおぞましき言葉の数々を投げつけるなど……! 到底、我慢できるものではございませなんだ……!」
蓮太郎は一人密かに奥歯を噛み締めた。
『まさか、誹謗中傷……? 今人神にまで……⁉』
鈴姫は信じられないといった表情で、
「そ、そんな……! 禍獣とは神々の
「まさしくその通り! しかし短慮な民衆はその程度のことにすら思い至らんのです! 誰が言い始めたのか、『豊成様が降魔の儀を行ったせいで禍獣が出た』などという馬鹿げた戯言を、多くの者が信じ込みおった! 百姓だけでなく、士分の者さえも! そして神社への落書き、嫌がらせの電話、投書、果ては投石まで! あらゆる攻撃が始まったのです!」
鈴姫は愕然とした。信じたくないその言葉を何とか否定できる材料は無いかと、鈴姫は目を泳がせ、言葉を探しながら言った。
「で、でも……神河藩でも禍獣はいっぱい出ますけど……私、そんな酷いことされたことなんか、一度も……」
ところが老人は身を乗り出して声を荒げた。
「当然でございましょう‼ 神河藩には、穂積蓮太郎様がおられるのですから‼」
鈴姫、そしてこの場にいる全員の視線が己に集まるのを感じ、蓮太郎は頭をいっそう下げた。
「穂積様が始末役の任に就かれてから、禍獣による直接的な死者は皆無‼ しかし通常、そんなことは有り得ないのです‼ 対禍獣用御霊機を揃えている大藩でさえ、禍獣の被害を完全に抑えるなど出来るものではない‼ しかし穂積様はこの十五年間、一体たりとも禍獣を討ち漏らさなかった‼ だからこそ、撞賢木様は領民から恨まれずに済んだのです‼」
鈴姫の目が、蓮太郎の傷だらけの手と、首に幾重にも巻かれた包帯を捉えた。
「撞賢木様……! 畏れながら、ご理解しておられるのですか‼ 穂積様はこの十五年間、神河藩を、何よりもあなた様を……‼ たったお一人で、護ってこられたのですぞ‼」
「穂……積、」
鈴姫は様々な感情を含んだ声で呼びかけたが、
「私のことなど、今は関係ありませぬ」
蓮太郎はそれら全てを拒絶するように言った。
「今人神なんかに……」
少年の声に、鈴姫は振り返った。いつの間にか豊成は上体を起こし、鼻を啜り上げていた。
「今人神なんかに、生まれたくなかった……」
神官の老人はその背を撫でながら沈痛な面持ちで、
「……一昔前までは、禍獣の被害を今人神のせいにされるなどということはありませなんだ。しかし聞くところによると、他藩でも同様のことが最近起きているとか……。私にはもはや、今の世のことが分かりません。一つ分かることは、人心の荒みは行くべき所まで行き着いてしまったということ……。神の末孫である今人神が、これほどまで世に絶望してしまうほどに」
豊成はしゃくり上げながらも強い口調で言った。
「大名持様は、言ったんだ……神河藩の占領が終わったら、あいつらを罰してくれるって……私の苦しみを、あいつらに思い知らせてくれるって……! でも、失敗した……だったら、」
そして傍らの短刀に目を落とし、
「……死ぬしか、ない」
鈴姫は歯を食いしばり、両手を握り締めた。そして一言ずつに力を込めるように、
「そんなに、苦しまれているなら……今人神なんか、やめてしまっていいと、思います……!」
豊成は目を丸くして鈴姫を見た。しかし隣の老人は力なく笑い、
「今人神はやめられませぬよ……命ある限り」
鈴姫は両目に決意を込め、強く言い放った。
「やめられます‼ 世の中が変われば‼」
「主上……っ⁉」
蓮太郎は思わず顔を上げ、黒髪長く波打つその後姿を見た。
境内にいっそう強い風が吹き込む。その風に押されるように、鈴姫は歩み出た。
「この国の誰もが、自分の意志で自分の生き方を決められるようになれば……! 生まれや身分に囚われず、誰が何をするのも自由な世になれば、きっと全てが変わります! 今人神も、そして
と、鈴姫はいきなり背後へ振り向き、蓮太郎は慌てて頭を下げた。
「二十一年前、穂積と、ななと、そしてお母様が……! 誰もが自分の志を遂げられる世を創るために脱藩した、その理由がやっと分かりました……! 生まれや身分のために苦しんでる人が、こんなに近くに、いえ、きっと日本中にいるから……!」
「主上……!」
蓮太郎は苦しげな声を出した。無意識に手を伸ばし、着物を掴んで制止しようとまでした。しかし鈴姫はすでに、前へと歩き始めてしまっていた。
「豊成様! どうかお願いです! 希望を捨てないでください‼ いつか豊成様も、叶えたいと思う志を、きっとお持ちになるはずです……‼ だから、どうか……生きてください‼」
豊成は
「撞賢木、鈴姫様……! あなた様は、御母堂のご遺志を、継がれるというのですか……⁉」
「……はい‼」
強風が威風となり、鈴姫の小さな身体を何倍にも大きく見せた。
「私がお母様の志を継ぎ……! 誰もが自分の志を遂げられる世を、創ってみせます‼」
豊成は両目から大粒の涙を流した。神官、巫女達はそれぞれ手を付き、深く頭を下げた。御霊機に乗る各藩の機乗士達、そして公文、ななが、その神々しさに打たれている中――
蓮太郎はただ一人俯いて歯を食いしばり、風の音が心を苛む、その苦しみに耐えていた。