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第25話 撞賢木冬姫


 ガラスを激しく叩く雨の音が、ただでさえ重苦しい室内の雰囲気をさらに陰惨にしている。


 十八歳の穂積ほづみ蓮太郎れんたろうは長椅子に腰かけ、打ち沈んだ表情で対面に座る男の話を聞いていた。


「……まことに、残念じゃが……嘆願出兵は取りやめざるを得ないじゃろう……」

 張州ちょうしゅう首席しゅせき宰相さいしょう・中川實臣さねおみは心苦しそうにそう言った。


 ここは張州藩の政庁である山口政事堂、その一室に設けられた応接室である。部屋は洋風で、中央にテーブルと長椅子が設置され、その一方に士装の蓮太郎が俯いて座っていた。


 背広姿の中川實臣は忌々しげに、

刹摩さつまが横槍を入れてきおった……時期尚早だとな。いつもそうじゃ。連中は自分達が主体となって動けぬと分かれば、すぐ臍を曲げて引っ込みよる。しかしまあ……今回ばかりは、それだけが理由ではないであろうが……」


 中川は耳を澄ますように顔を上げた。雨の音に混じって、遠くから女性の叫び声のようなものが聞こえている。


 蓮太郎はそれを聞かすまいとするかのように急き込み、

「まだ望みはあるはず……! 私がもう一度刹摩に赴き、家老を説得して参りましょう! それが上手くいかずとも、刹摩抜きでやればいいだけのこと!」


 中川は首を振って白髪を揺らした。

「穂積殿……すまぬが、弊藩へいはんにおいても事情はほぼ同じなのじゃ。わしももう反対派を押さえてはおけぬ。刹摩が参加せぬなら、幕府を倒せる見込みはとても……」


 蓮太郎は目を上げ、大声で遮った。

「幕府を倒すのが目的ではないと、あれほど言ったでしょう‼ 身分制を廃し、日本を近代国家に生まれ変わらせるのが目的だと‼ 挙兵はあくまで嘆願のためで、戦は最後の手段だと‼」


「分かっておる、分かっておる……しかしの、穂積殿も分かっておろう。刹張斗飛さっちょうとひを再び結集するには倒幕という大目的が必要だったのじゃ。撞賢木つきさかき冬姫ふゆひめ様の御志のもと、旧幕時代の悲願を今こそ成し遂げん、とな……」


 中川は再び間を取った。雨音と共に、女性の叫び声が依然として聞こえている。


「じゃが……あのご様子では……。医者も原因が全く分からんと言うし……。穂積殿、ここは大名持おおなもち様の仰られる通り、神河こうが藩にお帰りくださった方がよろしいじゃろう。……〈秋水しゅうすい〉は約束通り進呈する。まあ元々処分に困っていたものではあったが……」


 蓮太郎はわなわなと震え、怒りを露わにして言った、

「潰えた志を抱えて、おめおめと逃げ帰れと……! 冬姫様に、お身体の苦痛のみならず、夢破れし苦しみまで味わわせるおつもりですか‼」


 張州藩首席宰相・中川實臣は立ち上がって窓の側まで歩き、外の雨模様を見つめながら背中で言った。


「……我が張州藩はのう、旧幕の動乱以降百五十年、その苦しみと共にあり続けてきたのじゃ」


 ―――― ◇ ――――


 しばらく後、蓮太郎は山口政事堂の廊下をこれ以上ないほど惨めな気持ちで歩いていた。


 歩くにつれて、女性の叫び声が大きくなってくる。それはもはや狂気に満ちた化け物の声のように、蓮太郎の心をさらに蝕んでいった。


「あ、穂積君……」

 廊下の前方から駆け寄ってくる者がいた。カーキ色の制服姿が初々しい、十七歳の椙杜すぎもり佑月ゆづきだった。


「あの……会うん?」

 佑月は制帽の下から心配そうな顔を向けて訊いた。


 蓮太郎が頷くと、佑月は必死な面持ちで、

「やめといた方がええ……どんどん酷くなっちょるもん。……この前みたいに怪我するよ」


 蓮太郎は無言で佑月の肩に手を置き、横を通り過ぎた。


 佑月は泣きそうな表情でその背中を見送っていた。


 廊下を歩き続けると、叫び声は雨の音を打ち消すほどはっきりと聞こえてきた。


「痛い……‼ 痛いよぉ……‼ なな、なな助けて‼ お願いやから、はよ蓮太郎呼んできてよ‼ なんで呼んでくれへんのよ‼ 頭が……‼ ああああああっ‼」


 ついにその声の出処である部屋にたどり着いた。蓮太郎は深呼吸し、ドアを開けた。


 寝室のような洋風の部屋だった。絨毯の床にベッドや鏡台、机などが置かれている。しかし今は机や椅子は倒され、絨毯には割れた皿やコップ、食事らしき物の残骸が散らかっていた。


 そしてベッドの向こう側、部屋の隅に、一人の少女が座り込み、腕で顔を覆い隠していた。


 その側に屈みこんでいるななは、憔悴しきった顔で蓮太郎を見た。


 少女――冬姫は腕の隙間から血走った目を覗かせ、蓮太郎を睨んだ。

「……どこ行っとったんよ……‼ ずっと呼んどったのに‼ うちがこんなに痛いの我慢しとったのに‼ どこほっつき歩いとったんや‼ 蓮太郎‼」


 蓮太郎はその側にしゃがみ込み、静かに言った。

「……済まなかった。首席宰相殿と話があって……」


 冬姫は顔を覆っていた腕を勢いよく解いた。髪は振り乱れ、血走った眼は見開かれ、顔は真っ赤で、かつての優しい表情は面影もない。


「嘘や……‼ うち置いて逃げる気やったんやろ‼ うちのことなんかもう面倒見たない言うて、ここに放ったらかしてどっか行こうとしとったんやろ‼ うち知っとんねん‼ 蓮太郎も、ななも‼ ほんまはうちに死んでほしい思とるんや‼」


 ななは堪えきれずに嗚咽を漏らした。蓮太郎は素早く冬姫の手を取り、その顔を真っすぐ見つめて言った。


「思ってない……! 俺も、ななも、そんなこと絶対に思わない!」


 しかし冬姫は振りほどこうと暴れた。

「いや‼ 触んな‼ 頭痛い言うとるやろが‼ 離せやボケ‼」


 冬姫は襦袢が乱れるのも構わず、足を上げて蓮太郎を蹴った。身体といわず顔といわず、何度も、何度も。


 蓮太郎は黙って耐え続けた。止めさせようとも、防ごうともせず、ただ冬姫の手だけは強く握り、罵声と暴力を受け続けた。


「知っとるんや‼ 二人ともうちに死んでほしいんやろ‼ 百姓らみたいに、陰で死ね死ね言うとるんやろが‼ ほんならさっさと捨ててけや‼ うちのことなんか放っといて‼ うちの……! うちの、ことなんか…………」


 冬姫は突然、蹴るのを止めた。


 蓮太郎が顔を上げると、冬姫はたった今蓮太郎の存在に気付いたかのようにぽかんとしていた。やがて目をしばたかせ、辺りを見渡して徐々に顔を青くしていった。蓮太郎は手を離した。


「……うち、また……また…………あ、あぁ……!」


 顔を両手で覆い、冬姫は泣いた。ななが膝を進め、自分の胸に抱き寄せた。


「なな……ごめんなさい……れ、蓮太郎……ごめん……本当に、ごめんなさい……。うち、ほんまに何も分からんくて……ううん、うちが悪い……うちが全部悪いの……ごめんなさい……」


「……病気のせいだ。冬姫は何も悪くない」


 蓮太郎はななに目配せして、冬姫をベッドに座らせた。すすり泣く冬姫が落ち着くのを待っていると、廊下から足音が近づき、続けて扉を激しく叩く音が聞こえた。


 誰も返事をしていないにもかかわらず、扉は開かれた。


「おお……‼ おお冬姫よ‼ ここにいたか‼」


 烏帽子えぼし直垂ひたたれを身に付けた二十歳程の若い男が、芝居のような大仰さで現れた。


「心配したぞ……とてつもなく‼ さあ、お前の痛みも怒りも、私に全てぶつけるんだ‼」


 蓮太郎は影のようにその男の前に立ち、下から睨み上げた。

「……大名持様。大声はご遠慮ください。冬姫様のご病気に障りがあります」


 大名持貴彦はにっこりと破顔した。

「おお、蓮太郎よ。うん、その通りだ。お前の言う通りだとも……。ただ私は冬姫のことが心配で心配で堪らなくてね。冬姫は私の……娘のようなものだから」


 冬姫がそっと蓮太郎の横に立ち、大名持に気丈な笑顔を向けた。

「大名持様……このような格好で申し訳ありません。わざわざお越し頂けて、とても嬉しいです……」


 大名持はたちまち目に涙を溜めた。

「冬姫……! 顔が見られて嬉しいぞ。もう平気なのか」


「……はい。今しがた、少し良くなりまして」


「それは何より……! そうだ冬姫、私は今日この藩庁に宿を取る。だから今夜は私の部屋に泊まらないか。一晩中付きっきりで看ていてやるぞ……!」


 冬姫は心底申し訳なさそうに、

「せっかくですけれど……遠慮させていただきます。そこまでの御迷惑はかけられません」


「迷惑などとんでもない! 私はお前を……」


 蓮太郎が再び大名持の前に立った。

「……お引き取りを」


 大名持は怒るどころかさらににっこり笑い、

「うむ! それでいい! お前のような忠義者にこそ、冬姫を預けられる! 私は冬姫の元気な顔が見られればそれでいいのだ! ではな!」


 足音も高らかに、大名持は部屋を出て行った。


 蓮太郎は冬姫を促して、再びベッドに座らせた。冬姫は青白い顔に汗を滲ませ、何度か浅く呼吸していたが、やがてひっそりと言った。


「やっぱりうち、一人で神河に帰る……」


 蓮太郎とななは顔を見合わせた。


「二人がうちのこと思ってくれてるんはちゃんと分かっとうよ。でも……やっぱりこれ以上、迷惑かけたくない……。最後まで頑張りたかったけど、自分じゃどうもできひんかった……。うちがおったら、二人にも、張州の人達にも迷惑かけてまうから……」


 ななが冬姫の右隣に、蓮太郎が左隣に腰かけた。長い間沈黙した後、蓮太郎は言った。


「……帰ろう、三人で」


 冬姫は蓮太郎の横顔を見た。

「でも、もうすぐ出兵やのに……。蓮太郎はやっと機乗士になれて、佑月さんらと一緒に京に行けるようになったのに……」


 蓮太郎は首を振り、明るい笑顔で冬姫を見返した。

「いいんだ、もう……。そんなことしなくても、一緒には居られるって気付いた。それだけでいいんだって……それだけで、よかったんだって……やっと……」


 言葉が途切れる。蓮太郎は俯き、肩を震わせた。


「ごめん、冬姫……約束したのに……。誰もが志を叶えられる世にして見せるって……いつか、海外に連れて行くって、約束したのに……一つも、守れなくて……ごめん……」


 冬姫は蓮太郎の背を優しく撫でた。

「謝らなあかんのは、全部うち……。蓮太郎は、うちに色んな素敵なもの見せてくれた……神河藩しか知らんかったうちに、色んな景色見せてくれて、色んな人と会わせてくれて、たくさんの人の心を動かしてくれた……。それを……こんな形で終わらせてもて……ほんまに、ごめんね……」


 冬姫は蓮太郎の肩に額を押し付けた。ななが大きく鼻をすすり上げ、

「……終わりじゃない。帰ってからが」


 蓮太郎は顔を上げ、目をごしごしと拭いて、

「……ああ、帰ってからが大変だ。脱藩の罪は許されてるからいいとして、帰って何したらいいのか……そうだ。せっかく御霊機おんりょうきもらったんだし、禍獣かも退治をさせてもらえるように頼んでみるか」


 冬姫は明るくなった表情で蓮太郎を見た。

「それ……ええね。禍獣に苦しむ人が減るんやったら、うちもすっごく嬉しい……そしたらうちも、神験主しんけんぬしとして頑張らなあかんね。神河には、あの……神験送信なんたらもないから」


 ななが大きく頷く。

「……ん。私も、霊寄せの練習しなきゃ」


 冬姫は少し寂しそうな表情で、

「藩に戻ったら……また前みたいに、昼間に堂々と会えへんようになってまうけど……でもうちの病気もあるし、その方が……」


「いや、会いに行く」

 蓮太郎は赤い目で冬姫を見つめ、断固として言った。

「ずっと側にいる……たとえ冬姫本人が嫌がっても。何を言われても、何をされても、俺は……ずっと冬姫の側にいる。この約束だけは、死んでも破らない」


 冬姫は目を丸くし、その目にみるみる涙を溜めた。そして下を向き、何度もしゃくり上げながら言った。


「……ありがとう…………」


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