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第26話 御為よろしからず


 真昼時の瀬織津姫せおりつひめ神社、上空の雲はより一段と重苦しく圧し掛かっている。


「〈桜島さくらじま〉に乗っちょりもした、刹摩さつま陸軍大坂駐留重機隊機曹長きそうちょう肝付きもつき三太郎さんたろうでございもす」


 敬礼しながらそう言った刹摩の機乗士きじょうしは、その声質の通り涼し気な若者だった。好奇に光る大きな目に細身の眼鏡をかけ、髪は粋に耳下まで伸ばし、服装は詰襟の軍服。


「挨拶が遅れもしてもっさけなか、撞賢木つきさかき様。じゃっどん僕らぁ、来とうて来たわけじゃなかで。まあそりゃそいで、国元の家老が、よろしゅ伝えったもんせち申しちょりました」


 その隣で、同じ軍服を着た大柄な青年が敬礼した。髪は古風な総髪で、筋骨逞しい体格とは裏腹に、顔立ちはまだあどけない。青年は努めて低くしているような声で、

「同隊一機曹いっきそう菱刈ひしかり鎮雄しずお。乗機は〈墜星ついせい〉にごつ。……さしつけごあんどんさっそくですが犬神人いぬじにん殿、〈人斬り〉との遣り合いん折に横槍入れやったんは、まっこて余計なこっ。たとえ串刺しんなっども、拙者はそんまま、あん和郎がビンタを割っちょりもした」


 しかし二人の刹摩人に応答する者はいなかった。


「……空気読まんかい。刹摩ん坊どもが」

 椙杜すぎもり佑月ゆづきが副長の志道しじの横で、忌々しげに言った。


 鈴姫すずひめは拝殿の前に立ち、例によって跪いている蓮太郎れんたろうの頭を見下ろしている。そこから離れた位置に華凛かりんとなな、そして公文くもん寅美とらみが、それぞれ険しい表情で佇んでいる。


 吹き荒ぶ風の音に負けないよう、鈴姫は言った。

「……うちには無理やって思うから、反対するん?」


 蓮太郎は首を振った。

「そうではありませぬ……それ以前の問題なのです」


「また、『御為よろしからず』?」


「……いいえ。誰の為にもならぬことなのです」


 鈴姫は肩を怒らせた。

「なんで……! なんでよ! あんなに苦しんでる人らがおるのに、放っとけって言うん⁉」


 蓮太郎もまた声を張りあげて言った。

「あれらはほんの一部に過ぎませぬ……! あの人数を救うために主上が矢面に立たれるなど、どうあっても看過できませぬ……!」


「違う! あの人らだけやないの! 身分とか生まれとかから解放されたいって願ってる、たくさんの人達のために……!」


「いいえ主上‼ この国のほとんどの人間は、そんなことを望んでおらぬのです‼」

 蓮太郎のあまりの大声に、鈴姫は怯み、口をつぐんだ。


「嘘だとお思いならば、陣下の百姓を何人かつかまえて訊いてみなさればよろしい‼ お前達は、身分の別から解放されることを望むかと‼ 九割九分までが首をかしげて去るのみか、否と答えるでしょう‼ なぜなら、それは現状の秩序が変わるということだからです‼ それだけで、彼らは拒絶する‼ 彼ら自身が将来的に得るであろう利益をいくら説いても‼ それがこの国を良くすることだと何遍説明しても‼ 現状が変わるという、ただそれだけの理由で、世人は反対するのです‼」


 どの人影も、絵になったように動かなかった。ただ蓮太郎の叫びだけが、風に乗って木々の向こうまでこだましていった。


 鈴姫は蓮太郎の怪我の痕を悲しげに見下ろし、縋るような声で言った。

「穂積も……望んでへんの……?」


「……はい」

 一息の間がありながらも、はっきりとした返答だった。


 鈴姫は頭を振って髪を振り乱し、涙声で、

「嘘……! なんでよ……! 比延ひえさんにあんなことされて……! 役目やからって、十五年も一人で禍獣かもと戦わされてきたのに……! 解放されたいって思わへんの……? 蔑まれたり、命令されたりせんと、自分の為に生きて、幸せになりたいって思わへんの……⁉」


「……私は十分仕合わせにこざる。ただ主上が御健やかに、お優しく御成長あそばされれば……その為に務めさせて頂くことさえできれば、」


「嘘やっ‼」


 今度は蓮太郎が黙る番だった。風が一瞬止まったかと思えるほどの静寂の後、

「そんなことの為に……うちの為なんかに、あんなことされて、怪我して、それでもずっと働き続けて……そんなん絶対、幸せなわけない‼」


 鈴姫は衆目の中を走り抜け、鳥居をくぐって神社を出て行った。


 華凛は少し迷ったが、その後を追いかけて行った。


「……行くぞ」

 佑月が囁くように言い、志道を伴って踵を返した。


「おい刹摩ん坊ども、お前らも来い」


「……まっこて、めんどか」

 肝付はぼやきながら、菱刈は無言で付き従った。


 人気の少なくなった境内で、蓮太郎はゆっくりと立ち上がった。

「寅……」


「はい」

 公文は忠実な部下のように蓮太郎に歩み寄った。そして――


「がっ……‼」

 蓮太郎に頬桁ほおげたをぶん殴られた。両足が地面を離れ、横に飛んだ身体が土の上を滑った。


 公文は肘で起き、手の甲で血を拭いながら笑った。

「一発で済まされるとは思ってませんでしたよ……」


 蓮太郎は笑いもせず、

「……ぶった斬られると思ってたのか」


「はは……まあそうなっても悔いはありませんよ。僕の志は、確かに受け継がれましたから」


 公文は立ち上がり、砂まみれになった背広を手で払い、一礼して去って行った。


 残ったななは、蓮太郎に歩み寄りながら言った。

「……私のことも、殴っていい」


「んなことするかよ……!」

 蓮太郎は上ずった声で言ってから、深くため息を吐いた。

「なな……本気なのか。陰謀と血風が渦巻く濁世に、主上を放り込むことになるんだぞ……」


「どれだけ周りが穢れていても……希(のぞみ)だけを見て、進み続ける。……きっと、そういう血筋」


 蓮太郎は暗雲に翳るななの顔を見た。

「まだ、諦めてないのか」


 薄暗闇の中でも、ななが目に力を込めたのが分かった。


「死ぬまで、諦めない」


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