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第29話 安禄肖高


 もうすっかり陽は落ち、木々の黒影が恐ろし気にさんざめく中、鈴姫すずひめは無言で桑畑を通り抜けて陣屋へと歩き、華凛かりんは胸騒ぎを抱えつつその後を追う。


 不意に鈴姫が足を止めた。見ると、裏手門の前で何やら不審な動きをしている人影があった。華凛が目を凝らすうちに、その人影もこちらに気付いたらしく、忙しない動きで近づいてきた。


「あ、あ、あのすみません……お、お、お取次ぎをお願いしたいのですが……はっ‼」


 男性は鈴姫の顔を見て驚愕に目を見開き、

「つ、つ、撞賢木つきさかき様……⁉ お、お、お久し……違う‼ お目にかかれて光栄でございます‼ 安禄やすとみ肖高すえたかと申します‼」


 角縁つのぶち眼鏡めがねをかけ、折り目正しいスーツを着た三十代中盤頃の男性は深く身体を折り曲げた。鈴姫とは初対面らしいが、華凛はその姿に見覚えがあるような気がしていた。


「……通訳の人」

 鈴姫が抑揚のない声で言った。


「通訳? ……あ!」

 華凛は思い至った。以前鈴姫に見せてもらった大名持おおなもちの切り抜き動画で、英語の討論を逐一訳して大名持に耳打ちしていた、あの気弱そうな男性だ。


「てことは、あなたは大名持の関係者でしょ⁉ どうしてここに……まさか、大名持も……⁉」


 安禄肖高は音が鳴りそうなほど素早く身体を起こし、慌ただしく両手を振った。

「い、いえいえいえ‼ あ、あの方はいません! わた、私はもうずっと前に、あの方の下を離れたんです! こちらへは警告というか、お願いをしに参ったのですが、その……連れとはぐれてしまい……」


「主上……!」

 他方からの声に振り向くと、蓮太郎が神社の方から早足で向かって来ていた。後ろにななの姿も見える。


「あ、あなたは、穂積さん! ああ、よかった……」

 安禄が心底ほっととしたように手を揉む。


 蓮太郎はその姿を見て眉をひそめ、すぐさま鈴姫の足元へ屈みこんだ。

「主上、御陣屋にお戻りを。今は領内でさえ安全とは言えませぬ」


 鈴姫は感情の無い顔で見下ろすのみだった。


 蓮太郎はその顔が見えないにもかかわらず、

「主上……よもや、お身体の調子でもお悪いのでは……」

 と不安げに言った。


 鈴姫は何も答えず歩き出し、裏手門をくぐって陣屋内に入っていった。


「えっと……」

 華凛は追いかけるべきか、ここに残るべきか迷った。しかし、


「ここは、二人だけで」

 とななに促されたため、共に陣屋へ向かった。


 門をくぐる直前、華凛は振り返った。向かい合う二人の姿は、まるで影絵のように夕闇の中に縁どられていた。


 ―――― ◇ ――――


「……ああ、確かに変わられた」

 闇の中でも真っすぐ屹立する蓮太郎の影が言った。対して背中の曲がった安禄の影は、


「あ、あの方はもはや十五年前とは別人です! はっきり申しまして、正気とは思えません! 唐土と密約を交わして御霊機おんりょうきを借り入れるなど……! 献金や動画収入なんかでは到底支払いきれないはず……一体見返りに何を渡す気なのか……!」


「……安禄殿。あなたはいつ、彼の人の下を去られた」


 無関係とも思える問いに、安禄の影は一瞬たじろぐ。

「は、え……。き、帰国した直後です……私には、あんな恐ろしい計画に加担するなど、耐えられなかった……。それにあの、松江藩老中達の処断……。ほ、穂積さん! 私は、あの方に……大名持貴彦たかひこに、罪を償ってほしい! 自分がしたことの責任を取って、」


「責任?」

 蓮太郎は聞き咎め、足を大きく踏み出して安禄に詰め寄った。


「責任は、ない」


「ぇ……」

 おののく安禄に、影を覆いかぶせるようにして蓮太郎は言った。


「神々の末孫であらせられる今人神いまひとがみ――その行動に、一切の責任は伴わない。御身が何を言おうが何を為そうが、全ての責任は臣にある。御身をたすけ、御身の行く所の穢れを祓う臣に……安禄殿、貴方も分かっているはずだ――犬神人いぬじにんであれば」


 二つの人影は沈黙した。湿度を含んだ風が激しく吹き荒れる中、大きな影は小さな影を飲み込まんばかりに見下ろしている。


 やがて安禄は肩を上下させて激しく呼吸し、その合間から声を吐き出した。

「ほ、穂積さんは、あの方の……! 大名持の本当の怖さを知らないんです……! わ、私なんかじゃ、とても止められない……! 私にできることは、ただの、通訳ぐらいしか……!」


 蓮太郎は無言でただ見下ろす。


 安禄は一通りすすり泣いた後、

「……私は、に、逃げます……。い、犬神人なんかに、生まれたのが、間違いだった……! あんなのとは、もう、関わりたくない! もういい加減、自分の為に生きたいんです……!」


 安禄は一礼し、もつれる脚を回して森の方へ去って行った。


 その背が闇の中に消え去るまで、蓮太郎は長い間、そこに立っていた。


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