もうすっかり陽は落ち、木々の黒影が恐ろし気にさんざめく中、
不意に鈴姫が足を止めた。見ると、裏手門の前で何やら不審な動きをしている人影があった。華凛が目を凝らすうちに、その人影もこちらに気付いたらしく、忙しない動きで近づいてきた。
「あ、あ、あのすみません……お、お、お取次ぎをお願いしたいのですが……はっ‼」
男性は鈴姫の顔を見て驚愕に目を見開き、
「つ、つ、
「……通訳の人」
鈴姫が抑揚のない声で言った。
「通訳? ……あ!」
華凛は思い至った。以前鈴姫に見せてもらった
「てことは、あなたは大名持の関係者でしょ⁉ どうしてここに……まさか、大名持も……⁉」
安禄肖高は音が鳴りそうなほど素早く身体を起こし、慌ただしく両手を振った。
「い、いえいえいえ‼ あ、あの方はいません! わた、私はもうずっと前に、あの方の下を離れたんです! こちらへは警告というか、お願いをしに参ったのですが、その……連れとはぐれてしまい……」
「主上……!」
他方からの声に振り向くと、蓮太郎が神社の方から早足で向かって来ていた。後ろにななの姿も見える。
「あ、あなたは、穂積さん! ああ、よかった……」
安禄が心底ほっととしたように手を揉む。
蓮太郎はその姿を見て眉をひそめ、すぐさま鈴姫の足元へ屈みこんだ。
「主上、御陣屋にお戻りを。今は領内でさえ安全とは言えませぬ」
鈴姫は感情の無い顔で見下ろすのみだった。
蓮太郎はその顔が見えないにもかかわらず、
「主上……よもや、お身体の調子でもお悪いのでは……」
と不安げに言った。
鈴姫は何も答えず歩き出し、裏手門をくぐって陣屋内に入っていった。
「えっと……」
華凛は追いかけるべきか、ここに残るべきか迷った。しかし、
「ここは、二人だけで」
とななに促されたため、共に陣屋へ向かった。
門をくぐる直前、華凛は振り返った。向かい合う二人の姿は、まるで影絵のように夕闇の中に縁どられていた。
―――― ◇ ――――
「……ああ、確かに変わられた」
闇の中でも真っすぐ屹立する蓮太郎の影が言った。対して背中の曲がった安禄の影は、
「あ、あの方はもはや十五年前とは別人です! はっきり申しまして、正気とは思えません! 唐土と密約を交わして
「……安禄殿。あなたはいつ、彼の人の下を去られた」
無関係とも思える問いに、安禄の影は一瞬たじろぐ。
「は、え……。き、帰国した直後です……私には、あんな恐ろしい計画に加担するなど、耐えられなかった……。それにあの、松江藩老中達の処断……。ほ、穂積さん! 私は、あの方に……大名持
「責任?」
蓮太郎は聞き咎め、足を大きく踏み出して安禄に詰め寄った。
「責任は、ない」
「ぇ……」
おののく安禄に、影を覆いかぶせるようにして蓮太郎は言った。
「神々の末孫であらせられる
二つの人影は沈黙した。湿度を含んだ風が激しく吹き荒れる中、大きな影は小さな影を飲み込まんばかりに見下ろしている。
やがて安禄は肩を上下させて激しく呼吸し、その合間から声を吐き出した。
「ほ、穂積さんは、あの方の……! 大名持の本当の怖さを知らないんです……! わ、私なんかじゃ、とても止められない……! 私にできることは、ただの、通訳ぐらいしか……!」
蓮太郎は無言でただ見下ろす。
安禄は一通りすすり泣いた後、
「……私は、に、逃げます……。い、犬神人なんかに、生まれたのが、間違いだった……! あんなのとは、もう、関わりたくない! もういい加減、自分の為に生きたいんです……!」
安禄は一礼し、もつれる脚を回して森の方へ去って行った。
その背が闇の中に消え去るまで、蓮太郎は長い間、そこに立っていた。