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第34話 離別


「嘘……です。そんなの……」

 鈴姫すずひめ大名持おおなもちの目を真っすぐ捉え、声の震えを振り切るように言った。

「そんなこと……あるわけない……。そんなの、出鱈目です!」


 禍獣かも退治をしている以外のことはほぼ知らない。月に一度の対面で小言を言ってくる煩い男という印象しかなかった。でもここ数日の経験で、蓮太郎れんたろうのことが少しずつ分かってきていた。


穂積ほづみが、そんなこと……お母様を、こ、ころした、なんて……そんなこと、するはずがありません!」


「鈴姫……」

 大名持はさらに深い悲しみを顔に表した。

「お前が真実を受け入れたくないなら、こうするしかない」 


 大名持は右手を素早く伸ばしてきた。突然のことに固まる鈴姫の額に、右手の人差し指と中指を揃えて当て、左手は胸元で略礼の形に立て、早口の小声で何やら唱えた。


「掛けまくも畏き大穢神おおけがれのかみ禍津日大神まがつひのおおかみの御前に、畏み畏みももうさく――」


 瞬間、頭が真っ白になった。視界に光が明滅し、それに伴って激烈な頭痛が襲ってきた。

「ぐっ……ぁ……⁉」

 たまらず、鈴姫は頭を抱えて屈みこんだ。


 途切れ途切れになる意識の狭間に、大名持の声が入り込む。

冬姫ふゆひめの病というのは原因不明の頭痛だった。蓮太郎とななと一緒に諸国を巡っている間もそれはどんどん酷くなり、ついに冬姫は痛みのあまり人格が変わってしまうほどになった」


 言葉の意味が理解できない。誰かが、何かが頭を内側から叩いている。――痛い、痛い。


「あいつは……蓮太郎は、それに耐えられなかった。自分が慕っている女性が、どんどん変わっていってしまうことに。無理もない。その優しい心に惹かれて、冬姫のために天下を動かそうとまでしたんだ。それがあんなにも変わってしまって……。哀れな奴だよ、あいつは」


 何も考えられない。とにかくこの痛みから解放されたい。――助けて。誰か。


「あんなことになると分かっていれば、私はずっと冬姫から離れなかったのに……。十五年前、冬姫は頭痛の上に出産の痛みまで加わり、発狂同然の状態になった。蓮太郎はその姿を見て、ついに心が壊れてしまった。あいつは出産直後の冬姫のもとに向かい――刀で胸を貫いた。その日は折しも禍獣かもが大発生していて、側に誰もいられなかったんだ」


 ――穂積……蓮太郎が。


 頭の中にどす黒い何かが広がる。その代わりに、痛みが薄まっていくような気がする。


「分かるか、あいつはただ罪を償いたいんだ。自分の罪を清算したいがために、お前をずっとこの藩に閉じ込めておこうとしたんだ……。だが、それもここまでだ。私が、お前を迎えに来たのだから」


 頭の中が黒いもので埋まり、痛みが消え去った。鈴姫は立ち上がり、父の顔を見た。


「さあ行こう、鈴姫……穢れたこの地から、巣立つ時だ」


 手が差し出される。鈴姫は虚ろな顔で手を伸ばし、父の滑らかな手を握った。


 ―――― ◇ ――――


 やっとのことで〈秋水しゅうすい〉は陣屋の表門までたどり着いた。しかし中へ続く石橋は数台の軍用車両で塞がれてしまっていた。蓮太郎は舌打ちし、側面の扉を開け、太刀を引っ掴んで外に飛び出た。雨風が頬を打つ中、足を緩めず車の間を縫って石橋を渡り、陣屋の敷地内へ走り込む。


「…………!」

 鈴姫が――大名持に手を引かれている。突撃銃を持った浪士達に囲まれ、巨大で容貌魁偉な御霊機おんりょうきの足元へと二人連れだって歩いている。


 蓮太郎は刀の鯉口を切りながら突進した。それに気づいた大名持が、親し気な笑みを向ける。


「おお、蓮太郎……! あのバカ女を振り切ったか。さすがだな」


 蓮太郎は泥を撥ね上げて止まり、柄に手を掛ける。

「手を離されよ‼ さもなくばたとえ貴方とて、この場で斬り伏せる‼」


 浪士達が蓮太郎に銃口を向ける。それを手で制し、大名持は言った。

「そう怒るなよ蓮太郎。こうするのが一番なんだから。お前にとっても、鈴姫にとっても」


 鈴姫は額を押さえ、苦しげに頭を振っている。


「しゅ、主上……⁉」

 蓮太郎は跪くことも忘れ、愕然として問いかけた。

「まさか……まさか、頭痛が――⁉」


 手の奥から真っ黒な目がぎらりとこちらを向いた。思わず蓮太郎は目線を下げる。


「穂積……」

 鈴姫は前に進み出た。長い黒髪が濡れてたなびき、幾筋か頬に張り付いている。いつもの輝きが全くない黒い目で蓮太郎を見つめ、鈴姫は抑揚のない声で言った。


「……うちの、お母様を……殺したん?」


 蓮太郎の心臓が跳ね上がった。両手がわななき、太刀が地面に落ちる。脚が崩れ落ち、泥の中に膝が落ちる。


「……殺したん?」


 容赦なく問いが重なる。蓮太郎は歯を食いしばり、膝を揃えて正座し、地面の泥を睨みながら首をわずかに下げ、風雨に紛れて聞こえないほど小さな声で言った。


「…………はい」


 沈黙。

 蓮太郎の視界に映る鈴姫の木履が、無言の責めを与え続ける。しばらくの後、鈴姫は大名持の方へ歩き出した。


「主上……‼ ど、どうかお待ちを‼ 私はいかなる罰をも受けますゆえ、お待ちください‼ その男は……かつての大名持貴彦ではござりませぬ‼」


 蓮太郎は泥に顔面を埋めんばかりに懇願したが、鈴姫は足を止めない。


「もうええよ。そんなんせんでも。……嫌なこと、もうせんでええから」


「主上……‼」

 蓮太郎は意を決して立ち上がり、鈴姫に追い縋り、その手を掴もうとした。が、


「……もうええ言うとるやろが‼」

 鈴姫は振り返りざまに怒鳴った。


 瞬間、謎の爆発音が辺り一帯にこだまし、光と高熱が拡散した。


 蓮太郎は吹き飛ばされ、泥の中に転がった。身体が燃えるように熱く、意識が遠のいてゆく。右半身の感覚がない。右腕が妙な方向に曲がり、作業衣の袖が燃えて黒く燻っていた。


 気を失う寸前の蓮太郎の耳に、虚ろな声が届いた。

「……うちの為に、もうなんもせんといて」


 鈴姫は一切の顧慮なく、鴉羽からすばねのはためく御霊機へと歩き去る。


 大名持が困ったような笑みを浮かべて後を追う。その顔が横を向いた一瞬、耳の中にワイヤレスイヤホンが刺さっているのが見えた。


 その光景を最後に、蓮太郎の意識は闇の底に沈んでいった。


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