十五年前の晩夏、
天が溢れかえったかのような雨が何日も続き、千切り川から何体もの
その夜、十九歳の蓮太郎は、全身打ち身や擦り傷まみれ、さらに泥にまみれた身体で医療所の廊下を急ぎ歩いていた。もう何日も寝ておらず、目はかすみ足はふらつき、ともすれば倒れ込んでしまいそうになる。木造の建物は風雨に軋み、電灯が怯えるように明滅している。
角を曲がると、廊下の中ほどで数人の武士が深刻な表情で話し込んでいた。
「上岩から宮ノ下の辺まで全部流れたんやと……もう御家は終いか……」
「もうここも危ないで……笠形山の方まで逃げなあかんのとちゃうか」
一人の老武士が蓮太郎の接近に気付いた。家老の
「
蓮太郎は肩を上下させながら、
「『
比延は猛然と口を開いた。しかしその時、
「ああああああああっ‼ 嫌……‼ もう嫌や‼ 痛い‼ 痛いぃぃ‼ 触るな‼ 出てけ‼」
病室の中から、身の毛もよだつ悲鳴と暴れる音、それに何かが割れる音が聞こえた。
しばらくして病室の扉が開き、ななが二人の助産師に支えられながら出て来た。ななは頭から血を流し、気絶しているようだった。
一段と強い風が医療所を揺らす。蓮太郎は気力を振り絞り、
「……入れて頂きたい」
「……勝手にせい!」
比延は吐き捨て、宿老らを伴って歩き去って行った。廊下を曲がる直前、憤懣を込めて呟いた言葉が蓮太郎の耳に届いた。
「いっそ禍獣に流されてくだされば……そうでもなさってくれねば、我らの気が収まらんわ!」
蓮太郎は奥歯を噛み締め、ドアノブを握って扉を開け、暗い病室の中に入った。
部屋はひどい有様だった。点滴台や割れた薬瓶、破れたシーツ、衣類などが散乱していた。
そして寝台の上で頭を抱えて震えている女性。白い着物はあられもなく乱れ、長い黒髪が大わらわになっている。蓮太郎は倒れていた椅子を拾い上げ、寝台わきに座った。
「お前のせいや……」
蓮太郎は俯き、歯を食いしばった。
冬姫は憎悪に顔を歪めて自身の腹部を睨みつけ、
「この中に……うちの中にお前がおるんや……だからこんなに痛いねん……! こんなに苦しいねん……! お前が……! お前がうちをこんなにしたんや……‼ この……この中におる、お前が……‼ うちを殺そうとしとんのや‼」
冬姫は突然腕を振り上げ、大きく膨らんだ腹部に拳を振り下ろそうとした。蓮太郎はとっさに身を乗り出し、その手を強く掴んだ。
「っ……‼ 離せや‼ うちに触んな‼」
冬姫は手足をばたつかせ、もう片方の手を振り上げた。蓮太郎はその手も掴み、自身の両手で冬姫の両手を引き寄せた。
「離せ‼ 離せボケェ‼」
冬姫は身体をのたうち回し、足で蓮太郎の顔を蹴った。そのまま頭と顔を何度も蹴り続ける。
「お前のせいや‼ お前の‼ 死ね‼ 死ねぇ‼ お前も、誰もかれも死んでまえ‼ 死ね‼ 死ね‼ 死ねやぁ‼」
鼻から血が飛び散る。口の中に血が滲む。それ以上に、涙がとめどなく溢れ出た。それでも蓮太郎は冬姫の両手を握り続けた。顔を伏せ、痛みを受け入れ、両手にだけ力を込め、蓮太郎は顔じゅうから血を、目からは涙を流し続けた。
「死んでよ‼ お願いやから‼ お前も‼ こいつも‼ 死ね‼ 死ね‼ 死ねえええええ‼」
その時、謎の光と高熱が瞬時に膨張し、病室内の空気が弾けた。
身体が吹き飛び、後ろの壁に激突する。何が起こったか考える前に、蓮太郎は気絶していた。
雨が直接顔にかかっている。
自分は板敷きの床に座り、身体を壁に預けている――と認識するや蓮太郎は目を覚まし、弾かれたように身を起こした。後頭部が激しく痛み、腕には火傷の痕がある。闇に戻ろうとする意識を引き留め、首を振って視界を取り戻した。
冬姫の姿がない。代わりに寝台の上には大量の血痕があった。それは転々と跡を残し、開け放たれた窓の外へ続いていた。蓮太郎は駆け出し、窓の桟に手を掛けて身を乗り出す。
「冬姫……‼ 冬姫‼」
人影はない。周囲の木々は暴風雨に揉みしだかれ、一つの巨大な生き物のように蠢いていた。
ふと、悲鳴のような風の音に混じって、女の唄声が聞こえてきた。
――深い川にほろか 浅い川にほろか この子わるい子どないしよ……
これまで感じたことのない怖気が全身を襲った。蓮太郎は考える前に病室を飛び出していた。
〈
医療所のある丘を下り、鎮守の森へ進んだ。足元は絶え間なく泥水が流れ、いつ足をすくわれるか分からない。進行方向から、断続的に女の唄声が風雨に運ばれてきている。
――深い川にほろか 浅い川にほろか とても深い川にどんぶりことほったろ……
恐ろしい予感に焦心が募り、さらに悲しみで胸が潰れそうに痛む。それでも涙を堪え、ペダルを踏み続け、レバーを操作した。
もう少しで鎮守の森を抜け、千切り川へ出ようかという所で、ついにそれは来た。川の方角から恐ろしい悲鳴が聞こえたかと思うと、いきなり濁流が襲い掛かって来た。
急いで木の幹に腕を回す。しかしあまりの水流に木は根元から抜かれ、〈秋水〉と共に流されてしまった。操縦室内にたちまち水が入り込む。テレビモニターが水を被り、映像が乱れる。
鉄砲水が止んだ。かと思うと、波が物凄い速さで引くように、〈秋水〉は川の方へ引き込まれていった。機体の右腕を伸ばし、わずかに残った木の幹を掴んだが、凄まじい水流に耐えきれず、右手首から先が火花を散らして千切れてしまった。
――深い川にほろか 浅い川にほろか この子よい子やつれていの……
左腕に祓御霊剣を握ったまま〈秋水〉は流された。操縦席は泥水に浸り、拷問のように前後左右に揺れる。蓮太郎は泥水を吐き出し、必死にレバーを操るが、もはや為す術はない。泥水と揺れによる責め苦が永遠と思われるほど長く続き、夢と現の境が曖昧になり始めた頃――
唐突に揺れが止んだ。あれほど激しく鳴っていた風も、雨も。
蓮太郎は泥まみれの顔を拭い、〈秋水〉を何とか立ち上がらせた。砂嵐が映るモニターを鼓舞するように数度叩く。そうして映ったのは、現実とは思えない光景だった。
そこは千切り川だった。しかし猛威を振るっていたはずの水面は嘘のように静まり返り、澄み切った水がゆっくりと流れている。
その鏡のような川面に――この世のものではない何かがいた。
顔面を覆う長い黒髪。肌に張り付く白い着物。裸足で川面の上に立ち、膨らんだ下腹部を両手で押さえている。そしてその下半身は――べったりと血に塗れていた。
――蓮太郎……ごめんなさい…………
その何かが、言った。
――もう……うちやないの…………
悲鳴が上がった。長く、苦しそうな、女の悲鳴が。
その瞬間、千切り川は怪物に戻った。風と雨が吹き荒れ、川面は濁流となってうねり、〈秋水〉に向けて一筋の鉄砲水が襲い掛かる。頭部が濁流に攫われ、モニターが真っ暗になった。機体は川に呑みこまれ、凄まじい勢いで泥水が入り込む。
(……もう、いい)
蓮太郎はレバーから手を離した。藩がどうなろうが、人がどれだけ死のうが、何もかもがどうでもよくなってしまった。全ての希は消え失せ、ただ悲しみだけがあった。その悲しみを抱いて、川の底に沈むことを望んだ。冬姫と、まだ産まれてもいない命と共に。
泥水が顎の下まで達し、蓮太郎は目を閉じた。冬姫の激情の中で死ねることに、ささやかな喜びを感じながら。
――蓮太郎……お願い……
泥水の中で、優しい声が耳を震わせた。と同時に、目の前のレバーが勝手に動いた。
(え……?)
一切手を振れていないにもかかわらず、レバーやペダルが忙しく動く。〈秋水〉の脚部が川底を蹴り、手首の無い右腕が水をかき分け、機体が水面に浮上した。
頭部が逸失したため外の様子は分からない。しかしレバーの動きによって、左腕が祓御霊剣を構えたことは分かった。
「冬姫……⁉ 冬姫‼ 止せ‼」
嫌な予感に背筋が凍り、レバーを押さえて動きを止めようとする。
――ごめんなさい……けど、お願い……最後の、お願いやから…………
どれだけ力を込めてもレバーは止まらない。〈秋水〉は前へ前へと進み続ける。
「やめてくれ、頼む……‼ 冬姫……ふゆ、ひめ……‼」
渾身の力を込めてレバーを引く。しかしそれに逆らい、レバーは急激に奥へ倒れた。〈秋水〉の左腕が前に突き出され、レバーを通して感覚が伝わる――確かな、手応えが。
女の悲鳴が耳朶を貫く。
――この子の、為に……
誰かが優しい声で何かを言った。
あるいは、そう思いたかっただけなのかもしれない。
雲の切れ間から星が見える。
雨は止み、風は勢いを落としたが、千切り川の濁った水は未だ轟轟と流れている。
河原に仰向けに転がる〈秋水〉は右手と頭部が無くなり、祓御霊剣は真っ二つに折れていた。
蓮太郎はその傍らに正座し、激しく流れる濁流を見つめていた。
もはや何の感情も湧かない。あらかじめ予定していたことを事務的に行うかのように、蓮太郎はその準備を始めた。筒袖の前を開いて腹を出し、膝に置いていた白鞘の短刀を手に取った。
今一度、顔を上げて星を見た。六年前に見た満天の星空と同じ景色は、もうどこにも見出せなかった。
顔を戻し、短刀の鞘を抜き払う。両手で逆手に持ち、左脇腹へ切っ先を当てる。何の記憶も、誰の顔も思い浮かばないまま、全てを終わらせるべく力を込め――
手を止めた。何かが聞こえた。聞こえるはずのない何かが。
まさか――さらに耳を澄ませる。濁流の流れる音に混じって、悲鳴――いや、泣き声が、確かに聞こえる。
蓮太郎は短刀を捨て、立ち上がった。何を探しているのかも分からないまま、声に引きずり込まれるように走り、あちこち見回した。
そして、ついに見つけた――川辺の濁流にさらわれないぎりぎりの所にぽつんと、赤い布にくるまれた何かが、高々と泣き声を上げていた。
転がるように走り寄り、水しぶきを上げて膝をつき、血に塗れた布を抱き上げた。
千切れた臍の緒が付いた血塗れの赤ん坊――その子は、真っ赤な顔をくしゃくしゃにして泣いていた。この世に存在する悲しみ、怖れ、怒りを全力で表現するかのように、渾身で泣いていた。
「あ…………」
赤ん坊から発せられる熱が両腕に伝わり、身体全体へと広がってゆく。
失っていた感情が一気に戻り、たちまち心からあふれ出た。
蓮太郎は、泣いた。
赤ん坊を強く抱きしめ、赤ん坊と一緒に泣いた。力いっぱい、渾身で悲しんだ。
やがて雲が晴れ、空が白み始めた。
太陽の光が差し込み、川辺を明るく照らすまで、二人は泣き続けた。