「ライル~っ!」
私はひとりの執事服に身を包んだ人物を見つけると、嬉しくなってその懐に勢い良く抱きついた。
「────あら、セリィナ様」
その相手は特に驚きもせず私を抱き留めてくれる。そして濃い緑色のリボンで結わえた鮮やかなワインレッドの長い髪をサラリと揺らすと、覗き込むようにして私のおでこを指先で優しくツンとつついてきた。私の大好きなアメジストのような紫色の瞳を細めてにこりと笑うその姿にさっきまでの不安が掻き消された気がする。
「そんなお転婆して、転んだらどうするのぉ?またアタシの抱っこでお屋敷中を移動したいのかしら。それともおんぶ?」
「そ、それは7歳の時のことでしょ!私はもう10歳なんだからちゃんと自分で歩けるもん」
いつまでも続くお子様扱いにほっぺを膨らませて抗議するが、ライルはクスクスと笑うばかりだ。だがその優しい眼差しにホッとしている自分がいる。
「アタシからしたら、セリィナ様はまだまだ可愛らしい子供よ」
恐怖の暴漢事件から3年。私の人嫌い(特に男性)はいまだ根深く続いているが、ライルは私が普通に接する事の出来る唯一の男性であった。
ライルはかなり美形だし、言葉遣いだけ聞けば女性かと思われがちだが正真正銘の男性である。そう、ライルは所謂“おねぇ”なのだ!あの日、誘拐された私を助けてくれたのがライルその人であった。
ライルは下町で祖母と暮らしていたそうだ。しかし高齢だった祖母が亡くなってしまい、生きていくためにと下町にあるオカマバーなるところで働いていたのだとか。あのお祭りの夜、たまたま休憩する為に外に出ていたライルはガチムチのゴロツキに拐われて泣いている私を目撃したらしく……なんと1発KOでゴロツキを倒して助けてくれたのである。ピンクのドレスを靡かせてピンヒールでゴロツキを回し蹴りして吹っ飛ばしたライルはその瞬間からまさに私のヒーローとなったのだ。
最初は完全に女の人だと思っていたし、襲われた恐怖と前世の記憶がごちゃ混ぜになったせいでパニックになっていた私はライルに抱きついて泣きじゃくったまましがみついて離れなかった。その後、ライルが本当は男性だとわかった後もライルだけは怖くないと気付いてしまったのだ。だから私はライルと離れたくない一心で「私の執事になって!」と抱きついたままスカウトしたのである。今でもあの時のライルの驚いた顔は忘れられない。私の顔を、目を見開いて見ていたっけ。そりゃ、貴族の女の子から突然執事にスカウトされたら驚くに決まってるわよね。
そして無事に執事になってもらった後も、しばらくの間はライルに抱っこされて屋敷内を移動するくらいライルからべったり離れなかった事を未だに言われるのだが……今となってはなんだか少し恥ずかしい。
あれから3年、当時15歳だったライルは18歳になったが相変わらずとんでもなく綺麗で執事としても有能だ。背は高くなったが筋肉はあるはずなのに体の線が細くて、さらに色気も増した気がする。前世の記憶にある“眼福”って言葉はライルを見る為にあるような気さえした。
そんなライルのアメジストのような紫色の瞳には、眉をハの字にした“セリィナ”がうつっていた。言い難い事がある時のいつもの顔だ。それに気付いたライルが優しく私を抱き締めてくれる。ふわっとした甘い香りが鼻をくすぐると、ちょっとだけ体の力が抜けた気がした。
突然の前世の記憶のせいで混乱はしたが“私たち”は確実に混ざり合い、確かに1人の“セリィナ”になったのだ。そのせいか性格は前世寄りだが、思考はセリィナ寄りというところだろうか?前世に比べればどうしても幼い行動をしてしまう。だからなのか、この人間不信は嘘でも演技でもなくしっかりと私の心を蝕んでいた。
そして本当なら知るはずのなかった自分の未来が“悪役令嬢”で、断罪されて殺されてしまう運命にあると知り……私は自分の未来を信じられなくなった。
「……それで、そんなに慌ててどうしたの?」
ライルの透き通るような優しい声が耳元をくすぐった。他の誰でもないライルだけの声はとても心地が良い。そして首を傾げて聞いてくるが、その瞳は全てをお見通しのようにも見える。
私がライルを探していた理由を聞かれて、さっきまではそれが全てで必死になっていたのが急に恥ずかしくなってくる。だって……。
「…………だって、ライルがどこにも見当たらなかったから」
思わず下を向いて小声でそう呟くと、私の頬にそっとライルの手のひらが触れた。温かくて大きな手に包まれて無意識に頬擦りをしてしまう。
「アタシのこと、探してくれてたのね」
「……わがまま言ってごめんなさい、お仕事の邪魔しちゃった?」
ライルは私の執事ではあるが、公爵家の仕事も担っているのだ。たまに我が家の古株である老執事からも「執事としての勉強です」と言われてどこかへ連れて行かれている事も知っている。たぶん、私が無理矢理お願いして執事になってもらったから老執事の目も厳しくなっているのかもしれない。
あんまりしつこく纏わりついていたらライルに嫌がられるかも……。そう思うのに、どうしてもライルが近くにいないと不安になってしまうのだ。
するとライルは「いいのよ」と、私の体を軽々と左手で抱き上げた。
「きゃっ!ラ、ライル?」
「ふふっ、落ちないようにしっかり捕まっててちょうだいね?」
私が思わずライルの首に腕を回してしがみつくと、私の慌てる様子を見てライルがにっこりと笑った。
「アタシはセリィナ様の執事なんだから、そんなのわがままでもなんでもないわ。それに、セリィナ様のわがままならアタシは大歓迎よ」
「……うん」
ライルのその言葉にセリィナが恥ずかしがりながらもふんわりと微笑むと、遠巻きに見守っていた公爵家の使用人たちはホッと胸を撫で下ろした。
セリィナは気付かない。
セリィナからは見えない位置にあるライルの右手が俊敏な動きを見せた事を。それに即座に反応した使用人たちが動いた事を。
ライルのポケットにあったはずのペンが窓ガラスを貫いて音もなく小さな穴を開けた。掃除をしていたメイドは表情を変えること無く窓を拭き、その穴を隠すように置いた花瓶にたくさんの花を飾る。
そして庭師は窓の外の
セリィナは気付かない。
自分が公爵家の人間として命を狙われている事に。そしてずっとみんなに守られていた事に。
セリィナは前世の記憶のせいですっかり人間不信になっているが、両親とふたりの姉……そして屋敷中の使用人たちにそれはもう溺愛されているのである。
ちなみに3年前、セリィナを拐おうとした暴漢たちがライルに倒されたあと公爵家の全勢力をもって“消された”のは言うまでもない。