あの春の日のことを、フィオナは忘れることが出来ないだろう。
なぜならばあの日。自分たちは本当の意味での親友になり、そして同じ願いを掲げる同志にもなったのだから。
『僕、おかしいみたいなんだ』
彼は怯えた声で、フィオナに告白してきたのだった。
『お母様が、素敵な劇場に連れて行ってくれてね。たくさん、綺麗な劇を見せてくれて、可愛いお姫様とかもいっぱい出てくるんだけどね。僕、可愛いと思うけど、奥さんにしたいって思えないんだ』
『どういうこと?』
『お見合い、十二歳になったら考えようねって言われてるけど。社交界で、いろんな女の子と出会ったけど……全然ドキドキしないんだ。それよりも……』
白い頬に、長い睫毛が影を落としている。彼は膝の上でぎゅうう、と強く拳を握りしめたのだった。
『それよりも、舞台の……かっこいい騎士のお兄さんとか。社交界で出会った、子爵令嬢の弟くんとか。そっちの方が素敵だなって思っちゃう。僕、僕……女の子のこと、全然そういう風に見られないみたいなんだ。男の子や男の人ばっかり気になっちゃうんだ。ねえ、これ、おかしいんだよね?だってカミサマが、男と女で恋愛しないと地獄に落ちるって言ってるんだもんね……!?』
『…………!』
フィオナは言葉を失った。
エメリーが言うカミサマとは、この国で最も信仰されている宗教、“クリシアナ教”のことだろう。この国の国教とも定められており、国中にたくさんの教会が建てられている。フィオナやエメリーは特に信者というつもりはないが、両親が信仰していることもあって日曜日に教会に行くのが恒例となっているのだった。
その時神父が、聖書を自分達に読み聞かせてくれる。まだ幼く、己で聖書を読むことが少ない自分達であっても、教えの大枠は理解しているのだった。
特に、この宗教で何を禁忌としているのかということは、何度も何度も叩き込まれてきている。
『良いこと、フィオナ?神様は、この世界の人類の反映のため、人類に男性と女性を作ったの。男女で結ばれ、子供を作り、次の世代に血を繋いでいくことこそ最も素晴らしいことであり、私達を作り給うた神様への報恩なのよ。だから、貴女もいつか素敵な方を旦那様に迎えて、たくさん子供を作って、わがフィフス家の血を繋いていってちょうだいね』
極々最近、母に言われた言葉がそれだった。
『子供を作らない恋を、神様はけしてお認めにならないわ。悪魔にそそのかれて男性同士、女性同士で恋をする人達がいるけれど騙されては駄目よ。あれは、人類を滅ぼそうとする悪魔のまじないにかかってしまった人達の末路なんですからね……』
クリシアナ教で最も悪だとされるものの一つ――同性愛。
エメリーは幼い身でそれを自覚し、一人で苦しんできたというのか。
『僕、どうすればいいの?このままじゃ、将来結婚しろって言われる。女の人と、恋なんてできないよう……』
敬虔な信者である両親には、けして明かすことができなかったのだろう。バレたら最後、悪魔が憑いていると見なされて教会に連れて行かれ、拷問まがいの儀式に参加させられることが目に見えている。
前に一度、見せしめとして見せられた儀式はあまりにも悲惨なものだった。二人の女性が、両手両足を切り落とされた上、性器に焼けた鉄棒をねじ込まれて焼かれていたのだから。
悪魔を追い出すためという名目なら、どんな残酷な所業も許されてしまう。
儀式によって再起不能になる者、死ぬ者は後を絶たない。それでも教会に運び込まれる『背徳者』が減らないのは、悪魔にたぶらさかれた人間を出した家もまた不名誉を受けるからだった。家族が家の名誉を守るため、お清めして貰おうと教会に子供を差し出すことが少なくないのである。フィオナが見た娘二人も、元は二人のセックスを目撃してしまった両親の密告によるものだったと聞いている。
あの日、同じ光景はエメリーも見ていたはずだ。我が身にも同じことが降りかかるかもしれないと思ったら、どれほど恐ろしかったことだろうか。
『……おかしくなんか、ないわ』
だから、フィオナは。
『だって、私も同じだもの』
『え!?』
己の秘密を、打ち明けることを選んだ。
そう、フィオナもとっくに自覚していたのである。己がけして、異性を愛せない体だということを。
『私もね、男の人に興味がないの。テレビを見ても、雑誌を見ても、お芝居を見ても……惚れ惚れするのはいつだって女の人ばかり。男の人もかっこいいと思わなくはないけれど、彼らと恋をするなんて考えることもできないわ。……将来、男の人と結婚して子供を産むなんて、考えただけでぞっとする。絶対ありえないって思って生きてきたの』
将来、国外で仕事をしたいと思っているのはそのためもある。ようは、異性との結婚という柵から抜け出したいのだ。海外ならば、クリシアナ教が浸透していない国もある。同性同士で結婚できる国もあるという話だ。
それが許されずとも、『結婚しない』『一生子供を産まない』という選択が、仕事に打ち込んでいれば現実味を帯びてくるはずなのである。幸い、自分には優秀な姉がいる。血ならば彼女が繋いでくれるはずなのだから。
『フィオナも、同じ?』
『ええ、同じ。……だから、貴方だけじゃないのよ。何もおかしいことなんてない。私達は生まれつき、そういう個性を持って生まれただけ。悪魔にたぶらさかれたわけじゃないわ、けして』
そもそも、悪魔なんて一体誰が決めたのだろう。何故同性を愛しただけで、たぶらさかれたとわかるのだろう。
本物の悪魔も神も、見たことがある者などいないはずだというのに。
『……そっか』
エメリーはくしゃりと顔を歪めて呟いたのだった。
『そっか、そうなんだ。僕だけじゃ、なかったんだ。……僕が、おかしくなったわけじゃ……』
『ええ、その通りよ。同性を好きになるのはおかしいことって、異性を好きになれる人達が決めつけているだけ。貴方が自分を責める必要なんかどこにもないの』
『フィオナ……ありがとう。ありがとうね、フィオナ……!』
わんわん泣くエメリーの頭を撫でて、フィオナは思ったのだった。
いつか、この唯一無二の友達を連れて海外に行こう。そして、二人で誰にも邪魔されない自由な恋を、自由な生活をするのがいいと。
誰かにとって都合の悪い存在を悪魔と決めつけて排除するような者達に、無理に迎合する必要なんてない。
大人になればきっと、今は非力な自分達にも己の望んだ人生を切り拓けるようになるはず。この時のフィオナは、心の底からそう信じていたのだった。
***
時は流れ。
フィオナとエメリーは、共に十六歳になっていた。
この年のことを、何かに呪われたようだと称する者は多い。というのも、一年の間に何度も大きな災害が国を襲ったからである。
春には台風が。
夏には水害が。
そして、秋には地震が。
特に秋の地震の被害は大きなものだった。一際頑丈に作られていたはずのファイス家とセブン家の屋敷もあちこちが損壊し、庭の一部には大穴が空くことになったのだから。
その結果家族や召使いたちにも怪我人が続出。新しい人員の補充を余儀なくされることになったのである。
「こういう災害があると、クリシアナ教の信者の方々が大騒ぎしていて嫌になるわ」
この年になっても、フィオナとエメリーの交流は続いている。流石のフィオナも十六歳ともなれば、スカートをまくりあげて木登りをするような行為は控えていたが。
今日は、エメリーに学校の勉強を教えてもらっているのだった。ちょっとした愚痴に付き合って貰いながら。
「災害が起きるメカニズムは解明されているのに、信者の方々はやれ信心が足らないだの、異教徒が悪魔と契約しただのと平気で宣うんですもの。そりゃ、理不尽に家族や友人が死んだのだから、誰かが悪いってことにしなきゃやってられないってのもあるんでしょうけど」
「言いたいことはわかるけど、滅多なことは言うものじゃない、フィオナ。どこで誰が聞いているかわからないんだから。それに、常識のある信者の方々もいる、いっしょくたは良くない」
「ぶー」
お互い、家の徹底的な教育もあり、表向きの言葉遣いはそれぞれ男性らしさ、女性らしさを保っている。が、上品な佇まいや言動は、自分よりエメリーの方がよほど貴族のご令嬢に相応しいものだとフィオナは思っていた。
というか、線が欲しくて華奢なエメリーは、女装してドレスを着ても普通に似合いそうではある。長いウェーブした銀髪に青い宝石のような瞳が眩しい。金髪に赤目の自分とはまさに対象的である。
尤も、同性が好きだからといって、トランスジェンダーとは限らない。エメリーは上品で落ち着いた性格ではあったが、女性になりたい願望があるわけではないと知っている。フィオナが、別に男性になりたいわけではないのと同じように。
「新しい召使いを迎えるために、今度面接をするんだけれど」
フィオナはノートを睨みつけながら言った。エメリーが作ってくれた問題の問三がどうしてもわからない。
「お父様ったら、面接予定のメイドたちみんなに、神父様を呼んでお祈りして貰うって言ってるのよ?こんなご時世だから、人間に化けた悪魔が家に入ってきては一大事だからですって。やり過ぎだわ。そもそも、クリシアナ教は国教とはいえど、この国は宗教の自由を保証しているはず。信じるも信じないのも自由であるはずなのに、採用したメイドの子には毎日聖書を読ませるとか言ってるし……ってあああもう!思い出せないんだけどこの問題!」
「
「暗記物は苦手なのよ、特に世界史!タテとヨコの両方を覚えるのが苦痛ったら!あーもう、どっちが正解だったかしら。マヒャマド?マジョリカ?あれ、マジェスタだったかしら……ぐぬぬぬぬぬ」
テチェランコ公国のあたりは、似たような名前の重要人物が多くて困る。フィオナは頭を抱えるしかない。
「私の家でも、似たような状況さ。新しい召使を雇うから面接をすると言っていた」
紅茶を一口飲んで、エメリーは苦笑いをした。
「仲良くなれるような、若い執事が来てくれるといいんだがなぁ。ほら、私は人見知りだから」
「好みのイケメンが着てくれたら嬉しいなーとか思ってんでしょ?」
「勿論。目の保養は大切だからね。そして君も君で、可愛いメイドさんを期待してるんだろう?」
「当たり前じゃない、美少女は世界の宝よ?」
ふふふふ、とお互いに怪しく笑い合って見せる。好みの同性について語り合う、なんてことができるのも自分たちの間柄であればこそ。
本当は、心の何処かでわかっていることだった。いくら上手に言い訳したところで、子供を作ることこそ神への報恩と思っている人達が勧める結婚から、延々と逃げ続けるのは難しい。いつか、自分達は互いに望まぬ異性との婚姻を強いられ、好きにもなれぬ相手を抱いたり抱かれたりしなければならない日が来るのかもしれないと。
本当は、そんな現実からは逃れたい。しかし、逃れられる保証がないならせめて、一人で自由に生きられる今を大切にしていたいのだ。こうして、ただ一人己の苦しみをわかってくれる友人とともに。
――時間が、止まってしまえばいいのに。
母からお見合いを勧められることが増えたフィオナは、窓の外を見つめて思ったのだった。
どんな麗しい男の写真を見せられても、自分は一切ときめかない。それが生まれついての己だと割り切ってきたつもりではあるけれど。
それでも時々思わずにはいられないのだ。
己がみんなように、多数派である異性愛者であったなら。人生はどれほど明るく、気楽に生きることができたであろうか、と。