前に、本でこんなことを言っていた作者がいる。
人が抱えられるものには限りがある。本当に守りたいものがあるのであれば、その限度を見誤ってはいけない。一番大切なもののため、何かを捨てることもまた勇気である――と。
きっとそれは、間違っていない。
己の名誉も、名声も、愛も、誇りも、夢も、なんて。何もかも抱えこんでいたら、きっとどれかを予期せずに落としてしまうだろう。どれほど守りたいものが多くても、時に人は選択を余儀なくされるものである。その時迷わないために、そして一番大切なものを落としてしまわないために。歩き続ける道中で、常に考えなければいけないことはあるのだ。
何が一番、捨てたくないものなのか。いざという時に、何を真っ先に捨てるのか。
そもそも、人生とは選択の連続だ。誰しも無意識のうちに優先順位をつけて生きている。最も良い未来へと進み、幸せを掴み取るために。
「フィオナ、久しぶり。……いや、久しぶりというほどではないか、一か月前には会ったのだから」
「ええ、そうね」
お見合いがセッティングされたのは、五月の頭のことだった。今回参加しているのは、エメリーとフィオナ以外に、双方の両親が一緒である。国外のお見合い事情がどうであるかはわからないが、多くの場合この国の一回目のお見合いは両親同伴で行うのが通例とされているのだった。それは恐らく貴族である場合、本人同士のお見合いというより家と家の結婚という意味が強いからなのだろう。
隣にいる両親と、双方の後ろの控える使用人たち。みんなが揃ってはらはらしているのがわかる。この場に使用人たちの緊張と親たちの緊張は、まったく意味が異なるものであろうが。
特に、フィオナ両親はさっきから胃薬を飲みたくて仕方ないといった顔をしている。またフィオナがやらかしてお見合いをめっちゃくちゃにするのではないか、と気が気ではないのだろう。
――私は、親不幸者ね。
二人が自分を心から愛して、心配してくれていることはわかっている。彼らのことを真に大切に思うのならば、どれほど心苦しくても真っ当なお見合いをして、子供を作って安心させてやるべきなのだろう。余計なトラブルなど起こさず、良妻賢母になり、伯爵家のご令嬢らしい振る舞いを心掛けて。
でも、とフィオナは思う。
自分はもう、選んでしまった。一番大切なものが何なのか、一番守りたいものが何なのか、何を最も捨てたくないのか。
両親に感謝はしているし、恩もあるけれど、でも。今の自分にとって、彼らの名誉を守ることは――最優先事項ではないのである。
エメリーもそれは同じだろう。だからこそ、フィオナと手を組むと約束してくれたのだから。
「食事の前に、フィオナにはどうしても訊いておきたいことがあってね」
初見のお見合いの席で、どのように会話を進めるかもエメリーと段取りを決めている。彼がその言葉を言った時、来たな、とフィオナは思った。
これは布石だ。彼が、エメリーの評判を疑って影で調べを進めることへの。
「最近、君に関して良くない噂があっちでもこっちでも聞こえてくる。お見合い相手の前ではしたない真似をして破談させてしまっただの、使用人たちを毎日のように虐めているだの。……それについて、君の口から真実が聞きたい」
エメリーがこう切り出してくるのは、何もおかしなことではない。彼からすれば幼い頃から知っている異性の友人に、突然自分が知っているフィオナらしからぬ噂が立ったことになるはずなのだから。
「え、エメリー、それはちょっと……」
エメリーの横に座った彼の母親が、おろおろと口を挟む。彼女にとっても、いい加減この縁談を成功させたくて仕方ないはず。またしても余計な波風を立てて、話が流れてしまっては困るのだろう。
しかし、彼女もここは黙っているべき場面のはずだ。エメリーの立場からすれば、お見合いを進めるより前に知っておきたいことに決まっているのだから。
「お母様、これは大切なことなのです」
案の定、エメリーはやんわりと母親の言葉を遮る。
「わがセブン家は、長らくファイス家と蜜月関係にあります。私も、ファイス家のご令嬢であるフィオナ様とは幼少のころから大変親しくさせていただきました。お嬢様がどのような方であるのか、自惚れるつもりはありませんが誰よりよく理解しているつもりなのです。だからこそ、昨今聞こえてくる評判の悪さが腑に落ちない。私が知っているフィオナ様は、使用人の方とも非常に仲良く接する方でいらっしゃったはず。それが、急に虐めのような真似をするなんて、一体どういう了見なのか。そして、それが嘘であるのならばきっぱりとそう仰って頂きたい」
本当に――あんたの方がよっぽど役者に向いてるんじゃないの、と思わずフィオナはつっこみたくなった。
エメリーの顔は、演技とは思えぬほど真剣そのものだったからだ。
「私にとって、フィオナ様はかけがえのない友人なのです。出来ることならば、お嬢様の言葉を信じたい。信じさせていただきたいのです」
かけがえのない友人。きっとそれは、何よりの本音だ。フィオナは胸が熱くなった。
もし。自分とエミリーが、多数派と同じ性的趣向の持ち主だったなら。普通、と言われるような恋愛ができる人間だったなら。幼い頃からひっそりと想い合い、成長してから結ばれるなんてこともあったのかもしれなかった。
きっと周りからもお似合いのカップルだと言われたことだろう。自慢じゃないがフィオナは容姿に自信があるし、エメリーも己の容姿にまったくの無自覚であるとは思えない。家柄も伯爵同士。そもそも家同士の関係が非常に仲良し。まるで、運命がそのための用意したかのような二人だったはずだ。
しかし、天は自分達にそのような未来など与えなかった。自分達はどちらも、互いに恋をすることが叶わない体であり、心の持ち主だった。
まるでそれは、何かのねじが一本外れてそうなってしまったかのよう。ほんの少しレールを外れて、何もかも狂ってしまったかのようにも見えるのかもしれない。でも。
たとえ、恋人になれなくても。自分達が魂の相棒であることに変わりはない。お互いだけが、お互いの本当の苦しみを理解できる。だから。
――ありがとう。愛しているわ、エメリー。
自分は、間違いなく彼を愛しているのだ。恋人ではなくとも、最高の親友として。
「……私も、困っておりますの」
フィオナはわざとらしく肩をすくめて、エメリーに告げる。
「別に、使用人の方々にイジワルなんてした覚えもありませんのに、何故だか、よくわからない噂ばかりたてられて。そりゃあ、私だって人間ですから、イライラして少しばかり人に厳しく当たってしまうことがあるのは否定しませんけどね。いじめ、だなんて本当に不名誉なことだわ。一体誰が、そのような噂を流したのかしら。ねえ、キャンディ?」
「は、はい、お、お嬢様……」
後ろに控えているキャンディに声をかければ、彼女は怯えたように肩を跳ねさせて言った。キャンディのポジションは、『本当は毎日のように悪役令嬢にいびられてストレスをため込んでいるのに、それを誰にも打ち明けることができない可哀そうなメイド』だ。今この現場でも、本当のことが言えずに怯えてフィオナに従っているという設定である。青ざめた顔、小刻みの震え、まさに名演技ではないか。
また、ここでフィオナが「自分の悪評は出鱈目だ」と伝えるのは、お見合い前に両親からも口が酸っぱくなるほど言われたことである。ここでお見合いが不成立になるのは本意ではない、だから都合の悪いことは隠しておけというわけだ。両親は、フィオナの悪評は事実だと信じているはずなのだから。
「……そうか。それならいいのだが」
そしてエメリーは、このやり取りを見てとりあえずはフィオナの言葉を信じることにした、という話になっているはずである。キャンディの様子に一抹の不安を抱きながらも、この場はそれでひとまず退くことにした、というわけだ。
エメリーが引き下がった途端、向こうの両親が露骨に安堵した顔を見せた。彼らも大変である。いや本当に、あっちもあっちで長男がちゃんと結婚してくれるわけなのだから、次男坊の婚姻にそこまでマジにならなくてもいいのにと思うのだが。
「では、お見合いを破談にしたというのは?……まあ、こっちは多少なりに予想もついているわけだがな」
「予想ついてるってどういう意味よ。私なら、お見合いに失敗するのも当然ってわけ?」
「子供の頃から君はそうだろう。女性らしからぬ振る舞いが実に目立つ。粗方、ドレス姿で木登りでもして、相手にドン引きされて破談になったとかそういうのじゃないのか?」
「何よー!木登り楽しいじゃない。家の中で引きこもって読書をしているよりずっと健康的だわ」
「だろうと思った」
今までのフィオナのお見合いが失敗に終わった件については、エメリーも深く突っ込んでこない。フィオナの元気が良すぎる素行を知っていれば粗方予想がつくことだからだ。
「手紙でいろいろ聞いていたけれど、君は本当に妻になるのに向いていない女性だな。私と結婚して、ちゃんと名家のご令嬢らしい振る舞いが身に着くんだろうか?心配だな、それはもう徹底的に、家庭教師でもつけて教育してやらねばなるまいな」
「ちょっと!私は小さな子供じゃないのよ?失礼ね、まったく!」
ぷんぷん、とフィオナは子供のように頬を膨らませて怒ったフリをする。これは、フィオナの自由なふるまいと、お見合いが破談になってきた件についてはエメリーも許容していると見せるため。幼馴染の友人同士なのだから、これくらいのテンションで話す方が自然と言えば自然だろう。お見合いのマナーとしてはだいぶ微妙だが、そもそも両親ともども初めて会うような間柄でもない。
「も、もう……二人ったら、随分楽しそうに話すじゃないの。私達も混ぜて頂戴、寂しいわ」
そして、そんなフィオナとエメリーのやり取りを見て、心の底から安心したように母が入ってくるのも想定内。彼女の心配事の一つは、フリーダムすぎる娘の性格を相手がちゃんと受け入れてくれるかどうか?というところでもあったはずだ。エメリーがそれを気にしていないというところを見せれば、安堵するのも当然だろう。
そして、二人の会話に明らかにほっとした会話をしているのは、父とエメリーの両親も同じである。
彼らも交えて、いつものお見合いとは違った和気あいあいとした空気が流れた。彼らもきっと思ったはずだ。このカップルならきっとうまくいく。自分達のセッティングは間違っていなかった、と。
――ごめんなさいね、お父様、お母様。本当は、騙すような真似がしたかったわけじゃないのだけれど。
前菜をメイドたちが運んでくるのを見ながら、フィオナは心の中で謝罪を口にした。
――でも、もう。私達は決めたから。愛のために二人で手を組んで……互いの未来を守るってことを。
初回のお見合いは、なんとか乗り切れそうである。この国の貴族のお見合いマナーでは、婚約を決めるのは最低三回の顔合わせを挟んでからということになっている。あと二回会ったなら、正式に婚約しましょうと言う話になるだろう。
その間に、すべての準備を終わらせなければ。
来るべき、婚約破棄イベントに向けて。