この国で最も信じられている宗教、その聖書にはこう書かれている。「この世で愛ほど尊いものはなく、愛は全てにおいて最も重視され育まれるべきものである」、と。
それを聞いた時ファイス伯爵家令嬢、フィオナ・ファイスは思ったものである。
なんとまあ、その神様は偽善者だったものか、と。その聖書に、赤ペンで注釈を書き加えてやりたいものだ。
なお、神様が認めた愛に限る、それ以外は全部ゴミなので排除します――と。
もちろん実際にそんなことを言ったら信者達は怒るだろう。何が善であり、何が悪であるのか決めるのは神である。神が認めたものを排除して何が悪い、それを非難されるいわれなどないと。
しかし、彼らはそもそも思い違いをしている。大体、神様本人が人間の前に現れて、あれをしろこれをしろと命じたことがあっただろうか?それを、今自分に文句をつけてきている貴方は見たのか?と。彼らが神様のように信じているのは結局「誰かが神様に会ってこう言われたらしい」と「神様のお考えをこう解釈したっぽい」を詰め合わせた聖書、それを読み解く聖職者たちである。
忘れてはいけない。どんな宗教を作ろうが、どんな神様を信仰しようが、それを形作るのは実際神本人ではなくそれを解釈する人間であるということを。ゆえに、宗教はたびたび、解釈者たちによって都合の良いように読み解かれ、それをカミサマのせいにして押し付ける道具に替わってしまうのである。本当は神様なんていなかったかもしれないのに。あるいは、神様はそんなこと一言も言っていなかったのかもしれないというのに。
人の手で作られる以上、宗教も多くの組織や理念、企業、国などの団体となんら変わることはない。神様がそう言ったのだから、という盾を使っている以上、時にどんな組織より業に満ちたものになりかねないことに多くの人は気づいていない。
自分達が嫌いなものを都合よく排除する。その行為は実際のところ、どんな悪行より神様を冒涜していることさえあるというのに、だ。
「これは、どういうことなのか説明してもらおう!」
伯爵家の次男、エメリー・セブンの大叔父であるトータス・セブンの誕生日パーティ。なごやかに行われいるように見えたその祝いの席で、今まさにトラブルが起きていた。エメリーが使用人から受け取った封筒の中身を見るや否や、激怒してそれを足元にばら撒いたからである。
それは、写真。数枚の写真を叩きつけられたのは自分、フィオナ・ファイス。写真の中身は言うまでもなく、フィオナがファイス家の使用人たちに悪質ないたずらや懲罰を化している状況を撮影したものだ。屋敷の庭で落とし穴に落とされている者、インクまみれになって並んで屋外に正座させられているもの、窓から突き落とされそうになっている者や、夜遅くまで睡眠時間を奪うほど労働させられている者。
「君の悪評は聞いていた。しかし、君が事実ではないというから……私も一度はそれを信じようとしたのだ。幼い頃から君には良くしてもらっていたし、使用人たちとも親しくしているように見えていたからな。でも、話を聴いた時の君のところのメイドは様子がおかしかった。だから、陰で調査を続けさせてもらっていたというわけだ」
「それで、隠し撮り写真ってわけ?ふん、あんたもいい趣味しているじゃない。人様のお家のあれこれを、はしたなく写真で撮って晒しものにするのが大好きだったってわけ?」
「誤魔化すな。私はこれを説明しろと言っている。君は私に嘘をついたのか?」
「嘘なんかついてないわよ。これ?この写真が何?ちょっと使用人のみんなと遊んでただけじゃない。こんなのが虐めの証拠になるの?大体、あの子たちがトロくてグズで、私を苛立たせるからいけないんじゃないの。それでちょっとお灸を据えてあげただけなのに、馬鹿なこと言わないで頂戴。こんな人前で恥ずかしいったらないわ!」
いかにも腹を立てています、という風を装って反論するフィオナ。
今日という日のことは、何度も何度もシミュレーションした。なんなら台本まで作ってたのだ。失敗することは許されない。
エメリーの演技は完璧だ、本当に激怒しているように見える。自分がその足を引っ張らないようにしなければ、とフィオナは背筋を伸ばした。
「なるほど……開き直るというわけか。……最近君の言動に、違和感を覚えることは少なくなかった。昔のように安らげなくなり、苛立つことも増えた。それでも……それでも昔のままの君であればと、家の為にも婚約を了承したというのに……」
「え、エメリー!落ち着いて頂戴、ここはトータスおじ様の誕生日会の席でしょう?失礼になるわ、ね?お話は、皆さんがいないところでじっくり……」
「お母様は黙っていてください!これは大切なことでしょう、息子が婚約者に騙されていたかもしれないのですよ!?」
ざわつく親戚とゲストたち。
慌ててエメリーの母親が間に入ってこようとするが、エメリーはそれを思い切りはねつける。当然だ、ここでせっかくの芝居に水を差されては我慢ならない。婚約破棄の流れは、此処にいるゲストたち全てに見て証人となってもらわなければいけないのだから。
「もう私は我慢がならないのだ!」
バン!と彼は激しくテーブルに拳を叩きつけた。それを聞いて、フィオナはびくり、と体を震わせるフリをする。
その顔には、阿修羅のごとき怒りの色。長い銀髪に青い目、白皙の美貌を持つ青年はまるで親の仇でも見るようにフィオナを睨んでいる。フィオナはそれを見て、心から感心してしまうのだった。なんて名演技。あんたやっぱり、その気になれば役者でご飯食べていけるんじゃないの、と。
「この写真が全てを物語っている。フィオナ嬢は、自分の身の回りの世話をしてくれる使用人達を虐めぬいているというのは間違いではなかったのだと。かつては心優しく、純粋で可憐な女性だと思っていた。だから、私も家のため、彼女となら婚約もやむなしと思っていたのだ。それが、実際はどうか?身分なんてくだらないものを振りかざし、年下の少女を虐げるようなその姿勢……断じて看過することはできない!」
「は!この国で有数の名家、セブン伯爵家の次男さんの言葉とは思えないわね」
自分も頑張らなければ。ふん!と鼻を鳴らしてフィオナは返す。というか、純粋可憐だと思ってたことなんか一度もないでしょ、と心の中でツッコミを入れながら。
なんせ彼は、フィオナが木に登って庭の果実をこっそり食べてたりとか、鬼ごっこをしてスカートを破るとか、そういうのを幼い頃から全部見てきている。自分でも、どこに純粋可憐な要素なんかあったっけ?てなものだ。
「エメリー。私だって全て知っているのよ?召使どもに親切に勉強を教えてやってるんですって?自分の勉学の時間さえおろそかにしてなんと無駄なことをされているのか。この国の政治を動かしていくのは、私たち貴族であって、あんな薄汚れた無産階級の連中じゃないのよ。もう少し現実を見たら?」
「現実?君と結婚するのが現実に役立つとでも?」
「ええ、そうよ。未来を背負って立つ、高貴な血筋を繋いでいくことこそ両家の願いであったはず。貴方みたいな夢想家の次男坊に、私以上に素晴らしい縁談が来るとは思えないわ。私だってムカつくけど、『あんたで妥協してやる』って言ってんのに、何が不満だってのよ」
「……なるほど、それが本心か」
ふふふふ、と悪役さながらに笑うエメリー。そういう顔もできるのかと、少しばかり新鮮だ。
「冗談じゃない。血がなんだというんだ。人を愛する気もない、自己顕示欲の塊のような女を妻にするなど願い下げだ。この婚約、なかったことにさせてもらおう。婚約破棄だ!」
彼はフィオナに怒鳴ると、一瞬ちらっとフィオナの隣に座る両親を見た。フィオナもつい、そっちに視線を投げてしまう。
お互い、心は一つだった。つまり。
――お、お願いお父様お母様!この婚約破棄、通してください!!
フィオナの両親たちはといえば、どちらも足元に散らばった写真を慌てて拾いに行っている様子。フィオナの視線になどまったく気が付いていないようだった。それでも声は聞こえているはずだ、とフィオナも受ける。
「ええ、ええ。上等だわ、あんたみたいな恥知らずな男と誰が一緒にするもんですか。私の方からむしろこんな婚約願い下げよ。とっとと何処にでも行ってしまいなさいな、このグズ!馬鹿!あほ!」
エメリーの顔に、ちょっとだけ憐憫の情のようなものが浮かんだ。いや、自分でも少しばかりボキャブラリーが貧困すぎるなと思ったが、何もそんな切ない顔しなくたっていいではないか。
写真は両親が全て回収するだろうが、問題はない。なんせ、その内容はこの場にいたゲストたちに全部見えてしまっている。人の目に焼き付いた映像まで消すのは無理というものだろう。
もっと言えば、人ごみの後ろの方にいる人達であっても、エメリーのよく通る声は聞こえているはずだ。現に、こうしている間にもざわざわと話す声が聞こえてくるではないか。
「婚約破棄ですって?エメリー様と、フィオナ様が?」
「お互いなかなかお見合い相手が決まらなかったそうだからな。両家が半ば強引に縁談を進めたという話だったが」
「幼馴染ですものね、あの二人」
「見た目だけならば似合いかとも思ったが……」
「冗談!わたくしは前から反対でしたわ。エメリー様のような紳士に、フィオナ様のような野蛮な女性は似合いません」
「フィオナ様、使用人たちを奴隷のようにこき使っているとか、見合い相手を見下して酷い目に遭わせて追い返しているとか……最近悪い噂が絶えなかったが、本当だったというのか」
「うわあ、ドン引き」
「え、何これ?何でパーティの途中でこんなことになってるの?次のお料理マダ?」
「あんたね、空気読みなさいよ、それどころじゃないでしょ、今」
「なんと恥ずかしい……やはり、この縁談は無理があったのだ」
「まるで晒上げね、これからどうするのかしら」
「決まっているさ。こんな騒ぎまで起こして、このまま婚約を続けることなどできるものか。婚約届を取り下げるしかあるまい。婚約解消だよ、解消」
「本当に恥ずかしい人だわ。使用人を見下すまでは理解できなくはないけど、こんなことになるなんて。フィオナ様こそ、小説で読んだ悪役令嬢そのものね……!」
悪役令嬢。そう、自分は悪役令嬢になる。自分の悪行が原因で婚約破棄を言い渡され、断罪される惨めな悪役。
それでいい。そうなるのだと決めて、エメリーにこんな真似までさせたのは自分なのだから。これだけが唯一、愛する人を――キャンディを守ることができる方法であったのだから。
このまま自分が恥ずかしさに打ちひしがれ、捨て台詞を吐いて会場を飛び出してしまえばあとは完璧であるはず。フィオナは両拳を強く握り、大袈裟なほどわなわなと体を震わせた。そして。
「な、な、なんで私が……私だけがこんな辱めを受けなければいけないわけ?婚約破棄宣言なんて、こんな場所で騒ぎ起こしたのはあっちでしょ。私は被害者よ、被害者。悪役令嬢なんかじゃないわ!ふざけたこと言わないで!」
フィオナはくるりと踵を返し、走り出そうとして。
「待て、フィオナ!」
ギリギリのところで、腕を掴まれて呼び止められてしまった。父だ。さらには母が、写真を持ったまま何やら会場を飛び出していく。
お父様止めないで!と叫ぼうとしたその時だった。
「フィオナ、お前にどうしても尋ねたいことがある。この写真に写っていることは本当なのか?」
「はあ?本当だったらなんだっていうんですの、お父様?」
「嘘だな」
え――と。一瞬時が止まったような気がした。
――嘘?嘘って、何が?
父の顔は、真剣そのもの。さっきの慌てた様子とはうってかわって、静かに怒りを称えた顔をしている。
それは子供のころによく見た、フィオナが隠していた悪戯がバレた時の顔によく似ていた。
「私達も馬鹿ではない。よくよく見ればわかる」
父の手には、さっき拾った写真のうちの一枚が。
「この写真は決定的におかしなところがある。そうだろう?」