四月後半とは思えないほどの熱気の中、この体育館に収容された人数はおよそ三五〇人。全員がその暑さに辟易(へきえき)し、毎回同じ内容を話しても絶対にばれないであろう長文を校長先生が読み上げる。
四月にこの開進(かいしん)高校に入り、今日は部活動紹介という事でこの場に集められたのだが、何故か校長先生が登壇し話を始めてしまった。
読み上げている紙も和紙の様な上品な物で、こちらから透けて見える文字は、どうやら筆ペンの様な物で書かれている事が伺える。「そんな長文をそんな上品な紙に、更には丁寧な文字で連ねる時間があるほどに、校長先生という役職は暇なのだろうか」、校長先生の話の内容より、そんな事ばかりが頭を過る。
第一、校長先生は子供の頃に同じ経験をしているはずである。私たちと同じ様に、“校長先生のよく分からない、なっがーい話”を聞かされる、という経験をだ。それなのに、今私たちに同じ仕打ちをしている。校長先生になると性格が捻じ曲がってしまうのかもしれない。
校長先生のありがたいどうでもいい話が終わり、ようやく待ちに待った部活動紹介の時間となった。
ステージ前にスペースを作る為、二列縦隊に並べられた私たちは「下がれー」という男性教師の声と共にワラワラと移動を開始した。せっかく作っていた縦隊も無視するように三五〇人が一斉にただ下がるだけだったので、移動が終わる頃にはもうただの人間の集合体が体育館後方に出来上がるだけとなった。まるでお祭りの人混みの様に。そしてその場に座るよう指示された。
部活動紹介のトップバッターは女子バスケットボール部だった。ユニホームを着た女性が八人ほど出てきて、みんなでパスをしあったりドリブルをしたりフリースローをして見せたり、正直つまらなかった。「まあ、バスケの紹介なんてこんなものだろうな」と思っていたが、最後におもむろにトランポリンを出し始め、何をするのかと思ったら、八人でダンク大会なるものをやり始めた。これはちょっと面白かったし、男子女子関係なく歓声が上がっていた。
ただ部活を紹介するのではなく、「こういう遊び心もある先輩たちがいますよー、楽しく部活が出来る環境ですよー」という、所謂(いわゆる)“ノリ”的な要素も紹介に取り入れる事が大事なのだなと妙に感心してしまった。
早速その術中にはまったのはちょうど横にいた、浜本美香、という子だった。
「ねえ進藤弓さん、バスケット部おもしろそうですね」
「あ、ああ、うん、そうだね……ハハハ」
浜本さんは家が裕福らしく、私は知らないが地元では有名なお屋敷に住んでいるらしい。同級生なのに誰にでも敬語を使うのを不審に思っていたところを、浜本さんと同じ地元であるクラスメイトの子がそう教えてくれた。
中学の頃から少し大人しく敬語ばかり使っており、更には容姿も“あの方”に似ていた為、陰では「佳子様」と呼ばれていたとか。この年でそれだけ落ち着き払っており家が裕福ならば、きっと失敗とは縁遠い人生を送るのだろう。平凡サラリーマン家庭の私とはそもそも生きている世界線が違うのではとすらも感じさせる。私と同じ“中の中”程度のこの高校に入学してきたのも不明だ。立ち居振る舞いは頭脳明晰を匂わせているが、頭の出来は“そうでもない”のか? それは“太っているのに小食”、と同類の何かを思わせる。よく分からん子だ。
それにしても、同級生で敬語はどうも疲れる。調子を崩されるだけではなく、なんだか付き合いづらいというかなんというか……。しかもクラスメイトを呼ぶ時は必ずフルネームにさん付けと来ている、きっとこういう子が身近にいなかったからそう感じるのかもしれない。
さて、佳子様はさておき部活動紹介はその後男子バスケ部に続き、卓球部、空手部、バレー部、フェンシング部、柔道部、剣道部、水泳部、バドミントン部、その他諸々の男女それぞれの紹介が終わり、最後に女子弓道部の紹介となった。
ちなみに、女子バスケ部の紹介に感化された浜本さんは、全ての部活動紹介が終わる度に“ああ素敵です。卓球部楽しそう、空手部かっこいい、バレーやるとスタイル良くなるかしら、フェンシングは動きが素早くなりそう、柔道覚えたら護身になりそうです、剣道部……水泳部……、と全ての部活に入るのではないかと思う程いちいち魅了されていた。いいお客さんである。
弓道部はなにやら畳を一枚(と数えるのか?)壁に立てかけ、その畳に弓道の的を備え付けた。なるほど、反対側からそれを狙うつもりらしい。
袴に身を包んだ先輩が五人出てきて、私たち一年生を前にぺこりと一礼すると、その先頭に立っていた先輩が早速立ち位置に移動し、弓に矢を番(つが)え始めた。弓は左手に持ち、右手にはなにやら専用の手袋の様な物を着けている。そして足は肩幅に開き、体の左側が的側になるよう、体の正面は私たちに向けて立っている状態だ。その状態を見て「左利きの人はこちらに背中を向けて立つ格好になるのかな?」と不意に過ったが、そう思うが早いか浜本さんは、
「これ左利きの方がやる時は少々格好がつきませんね」
と、何だか心配そうな表情を浮かべてぼそりと呟いた。しかし前に立っている五人の先輩は皆、右手に手袋を着けているようなのでその心配は不要らしい。
実演をする先輩は、左手に持った弓の下部は、ちょうど左膝辺りに当てた状態で、矢を番えたところを右手で持っているだけで左手は離していた。どうやってバランスを保っているのか分からないが、片手だけで支える事が出来るんだなと感心した。
そのまま一つ深呼吸すると、先輩は弓を持ち直し、高く持ち上げた。持ち上げたところからゆっくりと弦(つる)を引きながら弓を下ろしてくる。次第に弦に引かれた弓がじわじわとしなり、丁度矢が頬辺りに来たところで先輩の動きがピタッと止まった。
他の部活動紹介の時とは打って変わって、耳が痛くなるほどに体育館は静まり返っている。時々誰かがする咳払いが妙に響いて聞こえる。
そして約十秒ほどだろうか、静止が続いたと思ったら、先輩の右手は一気に真一文字に開かれた。今まで蓄えられたしなりの力を開放する様に弓の形状は元に戻り、そうかと思った瞬間、
――――パァァァァァン!!
体育館に高い音が響いた。矢が的を貫いたらしい。
そうすると一気に静まり返っていた体育館は、
「おぉぉぉぉぉぉ!!」
「すげえええええ!!」
という、女性の歓声も入っていたが、どちらかと言えば主に男性の歓声で埋め尽くされた。そのままザワついていたが、それも次の先輩が指定の位置に立つと、また体育館は静寂に包まれた。
「これは……プレッシャーですね」
言ったのは浜本さんだ。そちらを見ると、両手にハンカチを胸元で握りしめており、全員体育座りやあぐら、それに俗に言う女の子座りをしている中、この子は正座から若干腰を浮かせた様な格好で、体は半ば前傾姿勢になっていた。もう虜である。表情は、心配しているというより、是非中(あ)てて欲しい、という期待に満ちているように見える。
そしてこの先輩も、先の先輩と同様の高い音を体育館に響かせる事に成功した。
歓声が体育館に響く中ふと浜本さんを見ると、床に手をついて頭(こうべ)を垂れ「はぁはぁ……」と息を切らしていた。
「ちょ、ちょっと浜本さん、大丈夫?」
私が顔を覗き込んでそう尋ねると、浜本さんは
「え、ええ、この実演は、少々心臓に悪いようですね」
と、姿勢はそのままに顔だけをこちらに向けて、無理に微笑んで見せてそう答えた。
実演者の先輩よりももしかして、浜本さんの方がプレッシャー感じてる……? 感情移入が出来すぎる人なのかもしれない。
その後三人目四人目と成功は続き、いよいよ最後の五人目の先輩が位置に立った。と、浜本さんが口を開いた。
「あら、あの方わたくし達と同級生の子です。確か三組の姫木文(ひめぎあや)さんだったかしら。少々遠くて気付きませんでした。ほら、入学式の日に新入生代表で登壇していらっしゃったの記憶に無いですか?」
「ああ、あの子か!」
そう言われて入学式の記憶から、姫木さんが挨拶をしていた場面が引っ張り出された。
要は「これから私たちは私生活と学業の両立を頑張って、いい子ちゃんにして卒業を目指し、立派な大人になります」みたいな内容を、初めて聞くような言い回しで難しい挨拶をしていた。本当に同級生なのかと疑うほどに、しっかりした文章だなと感心させられた記憶はある。
そして私は続けた。
「同級生なのに部活動紹介に出てるんだね」
「不思議ですね、もしかしたら弓道経験者の方なのかもしれません。そういう場合は入学してすぐに練習に参加していてもおかしくないかと」
まあ、確かにそれは言えている。経験者であれば“優遇”と言うわけではないが、少しでも早く練習させていた方が上達も早いだろう。いやむしろ、練習に参加させない手は一つも無い。
そんな姫木さんは、肩に触れる程度のボブカットで、的を狙いやすいようにか左側だけ耳にかけていた。身長は、他の四人の先輩たちより大きく、スラっとしている。正直、袴姿がかっこよく見えた。
姫木さんが指定の位置で矢を番えて、弓を握った左手の感触を確かめる様な仕草をしていると、一番背の低い先輩がマイクでこんな事を言い出した。
「ちょっとここで姫木さんには何も言っていなかったのですが、これからやるこの一本は、的の上枠に中てて見せます! 的枠は木で出来ているので、見事に中たれば矢は畳ではなく、的枠に刺さります! 成功しましたら拍手をお願いします! ちなみに、弓道はある程度の狙いはつけることが出来ますが、ピンポイントで狙う事は出来ないので、非常に高度な挑戦となります! それでは、張り切ってどうぞ!」
姫木さんはそれを聞いても無表情のままで、左手の感触を確かめる仕草を続けているばかりだった。
そして、弓をゆっくりと持ち上げ、そこでピタっと止まり、肩で一つ呼吸をすると、ぐぐぐっと弦を引き始めた。さらに高度な挑戦ともあり、今までの実演の時とは雰囲気が違い、さらに全員が緊張している事が私自身、肌で感じる事が出来た。他の子たちの呼吸の音が聞こえるほどに静かだ。
あのちっこい先輩があんな事を言ってしまった手前、もう今まで通り的に中てただけでは会場は盛り上がらないだろう。ただでさえ四人連続で成功しているのだ、“これを中てれば五人連続成功”というだけでも相当なプレッシャーだろうに、姫木さんの立場になるとこちらの胸が苦しくなるほどだ。
姫木さんの矢が今までの先輩と同様、頬辺りまでくるとやはりピタっと静止した。
身長が大きいせいか、足は肩幅しか開いていないが大きく開いているように見える。それに手も長いので、全体のこの静止している構えがとても映えている。姫木さんは的を見ているので、正面のこちらからは表情は伺えないが、きっと無表情のままなのだろう。そしてボブと肩の隙間から見える首が太い。純粋にこう思った。
――この子めちゃくちゃかっこいい!!――
微動だにしない姫木さん。横を見ると浜本さんは、またしても両手にハンカチを握りしめていた。まあ、その気持ちは分かる。
そして再び姫木さんに目を戻した。それから数秒し、姫木さんの右手から弦が解放され、その弓から一気に矢が飛ぶ。
私はその瞬間驚いた。過剰な表現でも何でもなく、その矢の飛ぶスピードが今までの先輩たちの倍ほどの速さで私たちの目の前を、空気を切る音と共に飛んで行ったのだ。そしてその矢を追いかける様に風が吹き、その風は私の髪を撫でていった。
「速っ!!」と思った瞬間矢は既に的を捉えていたようで、体育館にものすごい音を響かせた。
――カァァァァァァン!!!――
誰もその矢を目で追う事は出来なかっただろうが、その音を聞くや全員が急いで的に注目する。
矢は見事に的の上部、的枠に命中しており、命中した矢に上部を押された事により的自体が上を向く様な格好で傾いていた。
一瞬体育館は静寂に包まれていたが、瞬間、
「うぉぉぉぉぉ! すげぇぇぇぇぇ!!!」
「狙えねえのに狙ったのかよ! マジかよ!!」
「きゃーーー! かっこいいーー!!」
という先ほどの野太い声と共に、今度は女性の声もあからさまに多く聞こえてきた。正直、四人目までの先輩たちとは比にならない程の歓声と拍手だ。
姫木さんはその歓声を浴びつつ冷静に一礼すると、四人並んでいる先輩方の前を会釈して通り過ぎ、最後尾に交じって並んだ。
先頭に並んでいた先輩は笑顔で姫木さんの肩を軽く叩いて何か語り掛けていた。口の動きと表情から察するに、「すごいな!」と言っていた様に思える。しかし他の先輩方は、あのサプライズをぶち込んだちっこい先輩を筆頭に、姫木さんが成功したにも関わらずなんとも面白くなさそうな表情を浮かべている様に見えた。何故だろうか。
そんな事を気にしていると、浜本さんが興奮気味で話掛けてきた。
「し、進藤弓さん! わたくし、弓道部に入ろうと思います! こんなに胸を熱くされた事はございません! わたくしもこんな風に誰かを感動させたい! そう思いました! 進藤弓さんもご一緒にいかがですか!?」
「え! 何で私を誘うのよ! 確かに凄いとは思ったけど、自分でやると思うと正直ちょっと怖いし……」
「そう……ですか。残念ですが無理強いは出来ませんね。わたくしは、来年の部活動紹介ではあの場に立って、新一年生に感動を与える側に回りたい。純粋にそう思いました。進藤弓さん、来週の金曜日の入部説明会まで検討して下さいませんか? お名前に“弓”と付いているくらいですから、きっとこれも何かの縁ですよ」
それを聞いて正直、「何の縁だ、弓道部なんて大体どこの高校にでもあるだろうに」とそう思った。が、そう言うわけにもいかないので、「う、うん、ちょっと考えてみるよ」と答えておいた。
その後教室に戻る間も浜本さんの興奮は治まらず、「弓道の本でも買って帰ろうかしら」だの、「弓道部に入った時の道具は一式買わなければならないのかしら」だの、永遠と弓道の話は終わらなかった。
帰る道すがら、自転車を漕ぎながら部活の事を考えていた。
浜本さんの弓道に対する想いは凄まじかった。私もあのくらいの熱量であれば即入部を決められたのかもしれないが、今日の部活動紹介では特に心躍らされるモノはなかった。
中学では三年間陸上部だった。と言っても中学の頃の陸上部はほとんど身を入れずにやっていた。私が凄い選手になって大きな大会で優勝争いが出来るようになると言うのであれば練習も頑張ったはずだ。しかしそうではない。どうせ私が頑張ったところでどうにもならない。個人で有名になるどころか、大会にすら出してもらえない事は目に見えていた。私の実力なんてたかが知れているのだ。どうにもならないのに頑張ったって時間の無駄だ。きっかけだって、小学生の頃から仲の良かったグループで入ろうと決めたから、私だけ入らないとグループからハブられやしないかと一緒に入っただけだった。元々そこにかける情熱なんてなかった。
部活に必ず入らなければいけないのであれば、勝手知ったるスポーツという事もあり陸上部でもよかったが、いかんせん部活動紹介が酷かった。人数はおよそ三十人、男女混合で前に出てきて横一列に並んだと思うと、一斉にその場で走るように足踏みをし始めたのだ。そうしたかと思うと一人前に出ていた女性の先輩が陸上部は毎日楽しく練習をしています、的な事を言っておしまいだった。こっちが恥ずかしくなるくらい内容の薄い物で、陸上部に入ると、来年はあそこに自分がいるのかと思うとそれだけで鳥肌が立った。
浜本さんは「来週の金曜日の入部説明会まで検討して下さいませんか?」と言っていたが、正直私の答えは「ノー」だと決まっている。浜本さんが毎日プリンを奢ってくれると言うのであれば考えてもいい。そして考えて答えは「ノー」だ。そう、浜本さんには悪いが、もう私の答えは何がどうなって空がひっくり返ったって答えは「ノー」から揺るがない。中学時代を結局無駄に過ごしたのだから、部活はもうこりごりだ。
そこまで考えていたところで、寄ろうとしていたコンビニに着いたので自転車を停める。
――と
――ガシャン
隣に停めてあった自転車のハンドルとこちらのハンドルがぶつかって嵌(はま)ってしまった。その自転車にはなにやら長い物が立て掛けてあった。朱色の、何かの柄の布でぐるぐる巻きにしてあったので中身が何かは分からないが、恐らく薙刀か何かだろう。そして私がぶつかったハンドルにも何かが掛けてある。こちらは筒状の何かの入れ物の様で、長さからするとおおよそ1m程。一体何が入れてあるのだろう? と、そんな事を考えていると、先ほど嵌ってしまったハンドルのせいでバランスを崩し、停めてあった自転車もろとも倒れてしまった。私の右足は自転車二台に挟まれて、上手く脱出できないでいた。
「大丈夫?」
私が一人でもがいていると、女性の声がした。落ち着いた低い声だ。「ああ、ごめんなさい」とそちらを見て驚いた。
「あ、あなた! ひ、ひ……ひめ……ひめぎさん!!」
そこで私に手を差し伸べてくれていた女性は、あの姫木さんだった。無表情の、姫木さん。その目の前に立つ姫木さんは、中腰だったにもかかわらず、すごく大きく見えた。目は二重だけれども目尻はキリっと切れており、髪はサラサラで一本一本が命を吹き込まれている様に風に踊っている。前世でどのくらい徳を積むとこんな風に生まれてこられるのだろうと本当に思った。
「私の事知ってるの?」
姫木さんがそう言って首を少し傾げると、髪の艶がその動きに合わせて波を作る。
「あ、う、うん。私、同じ学校の同級生なの。今日の部活動紹介であなたを見たから」
私は姫木さんに体を引き上げられながらにそう言うと、姫木さんは、
「ああ、あれか」
と、何だか興味が無さそうに返した。そしてこう続けた。
「まあ、興味があったら弓道部に入ってほしいな。今は三年生が十名ほどだけど、もうしばらくもしないうちに総体で引退しちゃうし、その後の二年生も一人しかいないから、今年誰も入ってこなかったら私とその二年生の先輩二人だけになっちゃうし」
二年生が一人だけとはこれまた悲しい。弓道部はそんなに人気がない部活なのだろうか。見た目は純和風でかっこいいイメージがあるし、今日実際見てみても迫力があって、やるやらないは別として、興味が湧かなかったと言ったら嘘になる。
「興味があったら来週の金曜日の部活説明会に……ん?」
姫木さんは自分の自転車を起こしつつ言うと、何かに気づいたらしく視線を地面のアスファルトに向けている。
「あ、ああああああ!!」
これまで落ち着き払っていた態度とは一変し、姫木さんは自転車を支えていた両手を離し、叫びつつ地面に落ちていた何かを拾い上げた。自転車は再度「ガシャン」と音を立てて倒れた。
「こ、これぇ!!」
姫木さんの声が若干震えている。一体何だろうと姫木さんが拾い上げた物を見ると、何かの人形の体があった。首はなく、体だけである。水色で小さくてかわいい体だ。そしてその後、バッとハンドルに掛けてあった筒状の入れ物の上部を確認する姫木さん。
「あああああああ……なんて事……」
今度は静かに漏らした。
筒の上部には、恐らくその体の持ち主であろう人形の顔がぶら下がっていた。キーホルダー状になっており、自転車が倒れた際に壊れたのだろう。
その人形は何かのマスコットキャラの様な物で、雲をモチーフにした顔はニコっと笑っており、そこに顔とほとんど同じ大きさの体がくっついて……いたのだろう。
姫木さんの震える、それぞれの両の手の平の上で、その生首と体がカタカタと小刻みに揺れている。右手に生首、左手に体……。
「あ、あの、ごめんなさい。弁償するから……」
私がそう言うと、姫木さんは何かをぼそりと呟いた。
「……ていひんなのよ」
「え? 何?」
「限定品なのよ! もう二度と手に入らない物なのよ!」
そう言いつつ両手で握り拳を作ってぶんぶんと上下に振り回す。本当に、部活動紹介の時とは打って変わって感情が表に出まくっている。こんな子だったのか……。
「限定品なのね、本当にごめんなさい。あの、どうしたらいいかな?」
限定品とあっては弁償しようにもできない。もうどうしたら許してもらえるか、本人に直接聞く他ない。そう思って聞いてみたが、姫木さんは目を真っ赤にして、今にも涙がこぼれ落ちそうにこう言った。
「どうしようもできないわよ! 二度と私の前にその顔見せないでちょうだい! あんただけは、絶対に許せないわ!」
そうして自転車を起こして、去って行ってしまった。
「え……そんなに?」
呆然としている私と倒れている自転車だけが、虚しく取り残された。
「ただいまぁー」
憔悴しきって玄関を開けると、晩御飯を作っているいい香りに包まれた。少しはそれで気が紛れそうにもなったが、一瞬で先ほどのコンビニでの一件が思い出された。
部活動紹介でかっこいいなと思っていた女の子に、徹底的に嫌われてしまった。別にお近づきになりたかったとかそういった事ではないが、あんな美人な人と友達になれたら、一緒に歩くだけで箔がつくと言うか、ちょっと鼻を高くして歩けると言うか。まあ、それはお近づきになりたかったと言うのかもしれないが。どちらにしてもクラスも違うし弓道部に入る気も無かったから、彼女と接点はゼロのままで卒業していくのだろうと思っていたのだが、それがまさかの接点ゼロよりも最悪の状態になってしまうとは……。顔を見せるな、なんて初めて言われた。顔を見たくもない状況って、相当嫌いな人にしか湧かない感情だよな……多分。
「はぁ~」っと深いため息をつきながらリビングに入ると、大学三年生のお姉ちゃんが面白そうに話し掛けてきた。
「お、どうした高校生。早速問題発生か?」
ニヤニヤとしている顔がムカつく。人の不幸がそんなに面白いか……。
「問題も問題よ、大問題よ。でもいいの、ほっとくしかない状況だから、このまま三年間過ごせば問題ないし」
私がそう言うと、お姉ちゃんは「大問題なのに何もしない方がいいってのも、何だか謎めいていて面白いわね」と、これまた興味ありげにし「なんなら相談に乗るわよ」と続けた。私は茶化されるのも嫌だったし、姫木さんと仲直りをする為にまた顔を合わせる勇気も無かったので、お姉ちゃんの相談はパスし、自室へと戻った。
姫木さんの事は悩んでいても仕方がないので、部屋着に着替えるとベッドに寝転がり、コンビニで買った求人誌を開いた。もう決めた、部活には入らず、高校生活三年間をバイトに捧げ、好きな時に好きな物を買える生活を送ろう。今思うと小学生、中学生と、お小遣いの生活を送ってきたのだ。バイトをすればお金も自由に使える。貯めるもよし使うもよし、コンビニの募金箱に入れるもよし。私は今、両手両足を繋いでいた鎖の呪縛から解放されたのよ。
これからは、自由気ままな人生を送らせてもらうわ!!
……そう考えていてもいちいち姫木さんの泣き顔が浮かんでくる。もう私の高校生活の一番の課題は「いかにして姫木さんと遭遇しないか」というところに重点を置くべきなのかもしれない。部活なんかしていたら帰る時間が被る事もあるだろう。そうすると遭遇する可能性も上がってしまう。やはりバイトをするしかない。
「弓ー! ご飯よー!」
一階からお母さんの呼ぶ声がする。私は急いで階段をおり、走ってリビングの方へ向かう。とその時、階段脇に置いてあった物に右手が触れた。
――あ!
瞬間的にそちらを見ると、お母さんが大事にしている骨董品の壺が台から落ちそうになっているのがスローモーションで映った。「やばい!」と思ったのも束の間、壺はゆっくりと落下し、私が動く事が出来ないまま床に達した。そして「グワシャン」と、焼き物特有の音を立てて割れた。
一日に二度も、人が大事にしている物を壊してしまった。こんな事ってあるだろうか。私は恐らく今日、世界一不幸に違いない。
その音を聞くやすぐにお母さんが廊下に出てきた。
「あー! あんた何やってんの! いつも階段はゆっくり降りなさいって言ってるでしょ! もうここはいいから早くご飯食べちゃいなさい!」
そう捲し立てられて、私は「ごめんなさい」と小さく言ってリビングへと入った。
晩御飯を済ませ、自室で改めて求人誌を眺める。あの後、晩御飯中ずっと気まずい雰囲気の中、お姉ちゃんだけ私を馬鹿にする様にニヤニヤと見ており、お父さんからも「高校生なんだから、もう少し落ち着いて行動しなさい」と注意をされてしまった。
もうバイトしまくってお金稼いで好きな物買ってストレスフリーに生活を送るしかない。
と、そんな決意を固めたと同時に、またしても一階から私を呼ぶ声が聞こえる。
「弓ー! ちょっと降りてきなさーい」
お母さんの声だ。きっとさっきの壺の件で説教が始まるのだ。嫌だけどここは仕方がない。ただ説教を聞いて申し訳ない気持ちを全面にアピールしていればいいのだ。いや、申し訳ないと感じているのは事実なのよ。
一階へ降りるとお父さんはおらず、お母さんとお姉ちゃんがソファに座ってテレビのニュースを見ていた。
「ほら、これ見なさい」
促されるままニュースを見ると、どこぞのおっちゃんが弓道をやっているシーンが流れていた。何かの催し物の一環として、弓道の一連の流れを見せていたらしく、天皇皇后両陛下も映し出されていた。おっちゃんが座った状態から厳かに立ち上がり弓を構えて矢を放つ。部活動紹介の動作とはちょっと違っていたが、ほとんど同じものだった。おっちゃんが二本中てたところで、次はなんと姫木さんが映し出された。「え! こんなに凄い子だったの!?」と思い目を丸くして見ていると、彼女もおっちゃんと同じ動作をしつつ、二本とも的中させていた。
ニュースで紹介された姫木さんは、「第〇〇回中体連弓道大会で優勝」と紹介されていた。そんな子が何故うちの高校に来たのだろう。私が知らないだけでうちの高校は弓道が強いのだろうか? いや、そんな高校の三年生が十名ほどで、二年生が一名、なんて事はないだろう。あの子ちょっと変わってたし、正直何を考えているか分からない。
「弓、あんた弓道しなさい」
――っ!?
不意に言われ、「え!!」という言葉が喉でつっかえた。目だけを大きく見開いている私に向かってお母さんは続ける。
「あんた昔から落ち着きないでしょ。何度言っても階段は駆け下りてくるし。今日だってゆっくり降りてきてればあんな事にならなかったのよ。これから先、そのまま大人になったら、社会で絶対大変な目に遭うんだから」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 弓道入っても治らないかもしれないじゃん! それに弓道じゃなくていいじゃん! もっと、剣道とかでも! ほら、競技かるたとかめちゃ落ち着いてるくない? そっちがいいって、ね?」
もうアルバイトをしたいなんて言える状況ではなかった。と言うよりも、「弓道部への入部だけは避けなければ」という事に舵は切られ、もう私自身、弓道部以外ならなんでもよかった。とにかく姫木さんに会わない選択をしなければならない。
しかしお母さんの言葉は冷たいものだった。
「だめよ、弓道よ、弓道。剣道なんて全然落ち着いてないじゃない。攻撃する時も叫んでるし、動きも機敏じゃないといけないし。競技かるたも一緒よ、一見落ち着いているように見えて、かるた取る時はすごい動きしてるじゃない。それに比べて弓道は最初から最後まで冷静沈着で、これは落ち着きのある心じゃなきゃ出来ない競技よ。絶対弓道よ」
これは……めちゃくちゃまずい事になってきた。お母さんがこう言ったらもう無理だ。昔からそうなのだ。これ以上こちらから反論しているとブチ切れてしまい、今は思いつかないが、「弓道部へ入る」事よりもさらに悪い状況を押し付けられてしまう。私は半ば諦めて、
「……いつまで、続けるの? 卒業まで?」
と聞くと、
「そうねえ……。それじゃあ、何でもいいから、その試合であんたが一番中てたらそこで終わりでいいわよ。何の試合でもいいから、開進で一番ね」
「……」
……一生無理じゃん。
拝啓
姫木さん 来週末には また会うね
敬具
第一話「佳子さまと、弓と私」 終わり