午前中で終礼を終えたその足で、私はいま、ひとり緊張の靄(もや)のなか、三年生の校舎を歩いている。ただでさえこの校舎を歩くのは緊張するのに、その目的が弓道部の部活説明会だというのだから、足取りはまるで鉛でも詰めたように重い。隣を歩く浜本さんはというと、私も一緒に入部するということで、楽しそうにキャッキャと燥(はしゃ)いでいた。
姫木さんの“大事なもの”を壊してしまった一件は、浜本さんにも一応話しておいたが、彼女にその重大さは伝わっていないだろう。それはもう「私の顔も見たくない程」である。
廊下に射し込む太陽は爽やかそのものなのに、私の気持ちはどんより曇っていた。誰でもいいから助けてくれ。姫木さんに何を言われるのだろう。火に油を注ぐようなことにしかならない気がする。その場で追い返されてしまったら……。その時は、もうお母さんに正直に話すしかない。信じてもらえるかどうかは分からないけれど。
そうこう考えているうちに、目的地である、普通科・五組の教室に着いてしまった。扉に貼られた半紙には、「きゅーどー」と子どものような筆文字が踊っていた。左端の「byおーつか」という文字はさらに頼りない。中からは数人の話し声が聞こえる。きっと弓道部の先輩たちだろう。
「失礼いたします」
浜本さんが扉を開けて頭を下げる。「入部希望の浜本と申します」と、すでに完璧な挨拶だ。私はその後ろから、まずは姫木さんの姿を探す。けれど教室内にその姿はなかった。ほっとしたのも束の間、背後からあの声が聞こえる。
「こんにちは、入部希望か?」
恐る恐る振り向くと、そこに姫木さんがいた。目が合った瞬間、心臓が跳ね上がる。
高身長による威圧感。私の152cmの視線の先に、姫木さんの鋭い目があった。170cm近くはあるだろう。
「あ、ど……ども」
笑顔を作って見せたがきっと引きつっていたに決まっている。鏡を見ずとも分かるくらいに、あからさまに作った笑顔に違和感があった。そんな私の引きつり笑顔を目の当たりにした姫木さんは、静かにこう返した。
「……何であんたがいんのよ」
その震えた声から、怒っている事は明らかだった。肩に下げたショルダーバッグを持つ手が震えている。怒りに震えるというのは比喩で使われるものと思っていたが、どうやら実際に震えるらしい。
「い……いや、どうしても弓道部に入らないといけない事情ができたっていうか、私も弓道部入りたくて入るわけじゃ――」
「は、何それ……、ていうか、顔見せないでって言ったよね、私」
「えっ?」
頭の中が一瞬、真っ白になった。「二度と私の前にその顔見せないでちょうだい!」そう言われて数日経っていたので、不安はあったものの、正直、怒りのバロメーターは多少なりとも下がっているのではと勘ぐっているところもあった。しかしこれである。たったひとつのキャラグッズの事で、ここまで怒られるなんて。
私は体が硬くなってしまい、声を返そうと口が動いたけれど、もう何も言えなかった。
「どうした、早く座りなよ」
その声が救いだった。ポニーテールの先輩が、穏やかな笑顔で声を掛けてくれた。あの部活動紹介の時に、姫木さんへ「すごいな!」と声を掛けていた先輩だ。
「あ、はい、すいません」
逃げる様に席を目指すと、背中で聞こえた。
「フンッ」――わざとらしく鼻を鳴らす音。言葉より雄弁なそのひと息に、肩がぴくりと跳ねた。
教室内には八人の先輩がいた。姫木さんが「三年生は十名ほど」と言っていたが、実際にはそれより少ないようだ。どうやらざっくりした数字だったらしい。
先輩たちは窓際の前列に固まり、私と浜本さんは廊下側の中腹あたりに腰を落ち着けた。
その後、次々と他の一年生も入ってきて、最終的に入部希望者は私たちを含めて七人になった。姫木さんまで含めると、一年生は八名となる。
定刻になると、顧問の先生が教室へ入ってきた。
「お、今年はまずまずの人数ですねぇー」
その中肉中背で少し天パ気味の男性は、人の良さそうな雰囲気が全身から滲み出ていた。
「総体終わったら私と姫だけになるとこでしたよ、ハハハ」
そう応じたのはショートカットの先輩。華奢な体つきで、少し頼りなく見えるが、声はしっかりとしていた。
「でも一年生八人と、吉高だけじゃ五人チーム二組作れないよね、あと一人いればなぁ」
今度は部活動紹介の時のちっこい先輩が口を開いた。ちっこい先輩は、お団子頭をちょこんと載せており、どこか人懐っこい笑顔を浮かべていた。けれどその目の奥には、何かずる賢さのような光がちらりと見えた。
「まあ、あと一人いればいいですが、入ってこなければそれはそれで仕方ないでしょう」
先生がそう言うと、そのまま部活の説明を始めた。
要約するとこうだ。
弓道部概要
・部活は基本毎日活動。休む際は必ずキャプテン(ポニテ先輩)に連絡を。
・顧問は弓道未経験の為、弓道に関しては先輩が教える。そのため顧問は基本的に練習は見に来ず、見に来るのは試合前に様子見程度。
・学校に弓道場が無いため、学校からおよそ5Km離れた一般の道場へ行く。行く際は自転車通学の者は自転車で、電車通学の者は電車で向かう事。
といったところ。
それから自己紹介となり、一人ずつ立って簡単な挨拶をした。
全員の名前は一応脳内にメモしてみたけれど、実際に顔と一致するかは自信がない。初めて会う人たちを一度に覚えるなんて、きっと無理だ。だから、今この瞬間に印象に残った人だけ、頭に叩き込んでおこうと思う。
まずは三年生。
佐藤理花(さとうりか)先輩は、長いポニーテールを揺らす明るい人。挨拶の声も元気で、他の先輩たちに比べて場を和ませてくれる雰囲気がある。部活動紹介のときもそうだったけれど、何というか、近づきやすい空気がある人だ。
矢田(やだ)ゆま先輩は、小柄でお団子頭の子。明るくて、おしゃべり好きな印象がある。紹介の途中、隣の席の三木先輩や真鍋先輩とちょこちょこ視線を交わしたりしていたから、この三人は仲が良いのかもしれない。何だかずる賢そうな笑みを、時折覗かせる。
大塚春(おおつかはる)先輩は、三つ編みにカラフルな髪留め、前髪にはピンまで刺さっていて、ぱっと見は小学生のような元気キャラ。落ち着きがない感じが、何だか犬っぽい雰囲気があるとも思えた。ふたつも上なので、小型というより大型犬のイメージ。
先ほども席に着くなり、隣の先輩と何かずっと喋っていて、自己紹介の順番が来てもしゃべり続けたまま立ち上がった。
「どーもー! 三年の大塚ですっ! ま、いろいろ頑張りましょー!」
あっけらかんとした声に、思わず拍手を忘れた。
他にもいろんな先輩がいたけれど、今は名前を並べられても、まだその人がどの人かまでは分からない。何度か顔を合わせていくうちに、少しずつ覚えていけたらいいと思う。
二年生は一人だけ。吉高楓(よしたかかえで)先輩。大きめの黒縁眼鏡で、細身で落ち着いた雰囲気のある人だ。背筋がしゃんとしていて、何だかクラスに一人いる「学年で一番ノートがきれいな子」みたいな印象を受けた。きっとしっかり者だと思う。
そして、一年生たち。つまり、私と同じ新入部員たちだ。ここは私の視点で印象に残った子を二人だけ。
一人目は、久留須有希(くるすゆき)さん。猫っ毛でセミロング、少し色の明るい髪をしている。口元が常ににこにこしていて、自己紹介の時も一人だけ場の空気をぱっと明るくするような不思議な雰囲気があった。声のトーンも軽やかで、なんだかムードメーカーになりそうな気がする。
そしてもう一人は、白井礼子(しらいれいこ)さん、黒髪ロングで、自己紹介の時もほとんど喋らなかった。ただ、名前を呼ばれた瞬間、誰よりも素早く立ち上がり、無言で一礼して、小さな声で「……よろしく」とだけ言った。
その声は誰に届いたか分からないほど小さくて、けれど、ちゃんと伝えようとする意志はあった。
目つきが鋭いために怖く見えるけれど、何度か周囲をちらっと見ていた。……たぶん、誰かと目が合うのを、ほんの少しだけ期待していたんじゃないだろうか。
ほかにもいろんな子がいたけれど、きっとこれから少しずつ分かっていくはず。私の名前も、みんなの中にちゃんと残っていくといいけれど……今のところ、それはまだ少し自信がない。
そして浜本さんの番になった。浜本さんは立ち上がろうとお尻を浮かせて椅子を引きかけたが、少しよろめいてしまい慌てて座り直した。緊張しているらしい。
私はすでに自己紹介を終えて、どこか客席の気分になっていたから、小さな花が風に揺れるのを眺めるみたいに、微笑みつつ彼女を静かに見つめていた。
浜本さんは一呼吸おいてもう一度立ち上がる。
「は、浜本美香と申します……。えっと、あの……運動はあまり得意ではないのですが、部活動紹介での皆様方の実演が素晴らしく、とても感動いたしました。わ、わたくしも、あの様に、格好よくなれるのかと……半ば憧れを抱いてここにやって参りました。一生懸命頑張りますので……よ、よろしくお願いいたしますっ」
パッと頭を下げると、三年生側から「うんうん、いい子だねぇ~!」と囁くように声が上がった。そちらを見ると、大塚先輩が、浜本さんの挨拶を噛みしめるように目を瞑って「うんうん、うんうん」と何度も頷いていた。
そして最後に姫木さんの挨拶となった。
姫木さんは制服のネクタイを少し緩めつつゆっくりと立ち上がると、小さな咳払いをし、低く落ち着いた声で挨拶を始めた。
「姫木、文です。下の名前は文章の文と書いてあやと読みます。小学生の頃はバスケ部に入っていましたが、中学生から弓道を始めました。それで、ここの弓道部には入学してすぐから練習に参加させてもらっていました。趣味は読書と、あとは“ふわたん”が好きなので、よくグッズを買いに行ったりもします。弓道に関しては経験者ではありますが、私も一年生なので、みなさんと一緒に頑張って実力をつけていきたいと思っています。よろしくお願いします」
……ふわたん、って、もしかしてあの雲のキャラの事だろうか。と思っていたら、矢田先輩が「ふわたんって、あの矢筒に付けてて壊れたやつ? フフフ」と声を潜めて、でもわざとらしく言った。
「あれ死んだ母親とわざわざ東京まで買いに行ったんでしょ、ウケる。そんな大事なもん矢筒につけてんなって話よ、クククク」
「えっ?」
思わず声が漏れた。
あのキーホルダーが、そんなに大切な物だったなんて……知らなかった。
三木先輩と真鍋先輩が、それに答えるように肩を震わせながら笑った。
その場の空気だけが、すっと冷えた。
部活動紹介でもそうだったが、やはりこのちっこい矢田先輩は、姫木さんに対してあまりよろしくない感情を抱いているらしい。あの的枠に中てさせるサプライズも、きっと嫌がらせだったのかもしれない。そして今三人でクスクス笑いあっていたところを見ると、矢田先輩を筆頭にこの三人がグループとなっているのだろう。他の先輩たちはこの三人については放置しているのだろうか。ちょっと気まずいと言うかなんと言うか……。面倒な事に巻き込まれないか不安だ。
挨拶を終えた姫木さんだったが、彼女は依然として立ったまま、無表情で矢田先輩を見つめていた。目元すら動かさずに。
振り返っていた矢田先輩はその視線に気付き、ふと姫木さんを見上げた。その瞬間、目が泳ぎ、唇の端がピクリと引きつる。けれど、すぐに顔を背けると「チッ」と舌打ちをして体を戻した。まるで「ビビったわけじゃない」と、誰にともなく言い訳しているかのようだった。
「はい、みなさんありがとうございました。みなさんはこのまま入部でよろしいですか? 仮入部でも結構ですし、とりあえず見学だけという形でももちろん構いませんが」
先生の言葉に、新入生たちは顔を見合わせつつも、口を揃えて「入部で大丈夫です」と答えた。先生は満足そうに頷き、続けた。
「それではこの後、さっそく弓道場へ移動して、実際の活動を体験してもらいましょう。道場までは……」
そう言いながら、先生は佐藤先輩に目を向ける。すると佐藤先輩は明るく笑って、
「大丈夫です、先生。私たちが責任を持って案内します」
と頼もしく言った。
こうして、私たちは佐藤先輩の先導で弓道場へ向かうことになった。
電車通りを横切ったり住宅街を通ったり街のすぐ脇を通ったり、自転車を漕ぐ事約三十分、ようやく弓道場に着いた。一人で今の道を帰れと言われたら絶対に迷ってしまうだろう。
花岡山と呼ばれる山の麓にひっそりと隠れるように佇むその弓道場は、かなり年季が入っていた。門構えは削り出しの荒い石造りで、歴史の重みを感じさせる。門をくぐると、ざらついた砂利の広場が足元に広がる。
砂利の奥行きは思ったよりも浅くて、車を縦に二台も並べたらいっぱいになるくらい。けれど、横幅はその何倍もありそうで、弓道場ってこんなに広いものなんだ、と少し驚いた。
敷地の奥には左右に二つの建物が並ぶ。右手が控室、左手が射場――つまり弓を引く場所のようだ。木造の建物は雨風にさらされて色褪せていたが、どこか静謐(せいひつ)な空気が漂っている。
先輩たちは自転車を停めるなりその右側の建物に入っていき、先輩の中でも最後尾にいた佐藤先輩が、ドアを開けながら「はーいおチビちゃんたちこっちだよー」と笑顔で手招きしてくれた。ちなみに、姫木さんは先輩たちに混ざって先に入ってしまっている。
新入生一同は、招かれるがままにその控室へと入る。そこへ入ると、入ってすぐ左側の所に適当に先輩たちの荷物が置かれている。「そこ、いいよ」という佐藤先輩の言葉に甘えて、一年生もそこに荷物を下ろした。床にべた置きだ。
そのとき、ガラス戸がガラリと開いた。
「よいしょ、よいしょ……」
重そうな筒状のケースを抱えてやって来たのは、二年生の吉高先輩だった。その小柄で華奢な体には明らかに荷が重そうで、黒縁メガネがずれていた。すぐにまた控室を出て行き、今度は薙刀のような長物を数本抱えて戻ってきた。一目でそれが弓だと分かった。コンビニで姫木さんが持っていたものと同じだったからだ。しかし同じ色、柄の物は一つとなく、どれも異なる布に巻かれていた。
吉高先輩は「はぁはぁ」と息を切らしつつ「みんなー」と、一年生を集めた。
「この大きな筒の中に沢山の矢が入ってるんだけど、この矢はボロ矢と言って、ほとんど壊れかけてたり、もう誰も使ってない矢なんかが入っているの。万が一折ったりしてもいいように、慣れるまではこの矢で練習するの。……ほら、この矢なんて羽根がボロボロでしょ」
そう言って吉高先輩が取り出した矢は、本当に羽根が擦れてバサバサになっていた。筒の中を覗くと、同じような矢がごっそりと詰まっていた。
「ちなみにこっちがちゃんとした羽根のついた矢ね」
横からにゅっと綺麗な矢が差し出された。差し出したのは、部活説明の時もずっと喋っていた大塚先輩だ。相変わらず満面の笑みだった。
「で、この羽根の状態が悪かったり無くなってたりすると、……ふふ、矢が……ククク……真っすぐ……ぶふっ……飛ばないのよー! あははははは!」
半ば笑いを堪えきれずに何とか喋り切ると、さらに「ふっしぎだよねー!」と体を反らせて「あーはっはっは!」と笑った。私たちはそれを目の当たりにして、「あ、あははは……」と愛想笑いしかできなかった。大塚先輩、笑いのツボが謎だ……。
吉高先輩はズレた眼鏡を直しつつ続けた。
「大塚先輩が今言ったように、羽根は重要な役割があって、矢を上下逆に番えるだけで、失速して的まで届かずに滑射(かっしゃ)してしまうの。あ、滑射というのは、矢が届かずに途中で地面に擦る事よ」
そう言いつつ「ほら、こっちが上向きで、こっちが下向き」と言って矢を後ろから見せてくれた。羽根が三か所に付いているのだが、その向きで上下を見分けるらしい。
説明を聞きながら、私はふと隣を見た。浜本さんが、矢を一本床に置いて、手持ちのメモ帳に一生懸命スケッチをしていた。そのメモ帳の中がちらと見えたが、開かれた二ページは既に文字でぎっしりと埋まっていた。真面目すぎる……。
それからお尻の白い部分は“筈(はず)”で、ここに弦を掛けるらしい。先端の金属が“矢じり”で、的に刺さる役目を果たす。
ひとしきり矢の事を教わると、次に弓の説明に移った。「みんなで弓出してー、弓巻(ゆま)きはこうやって取るんだよー」と、吉高先輩が弓の出し方を教えてくれ、それに倣(なら)って一年生みんなで弓を出す。
弓を出し終わると全員で一本ずつ弓を持つ。弓は私が知っている形状はしておらず、上からだらんと弦が垂れているだけ。弓はまったく弧を描いておらず、若干くにゃくにゃっと曲がっているだけでほとんど真っすぐだ。
「進藤弓さん」
呼ばれてそちらを見ると、ニコニコしている浜本さんがいた。
「ん? なに?」
「弓はいつ引けるんでしょうかね」
実際にやってみるのが相当楽しみらしい。私はやはりちょっと怖いという感情があるので、出来れば明日とか明後日とか、もうちょっと先がいいのだが。
「さ、さあ、どうだろうね。浜本さんは怖くないの?」
「ええ、全然。先週から弓道の雑誌を買ってしまいまして、それからこの日が待ち遠しくて待ち遠しくて、早くやってみたいんです!」
そう言いながら、メモ帳と鉛筆を握ったまま、胸元でガッツポーズのような仕草をして見せた。力が入りすぎたのか、メモ帳はくしゃっと折れ曲がり、鉛筆の芯先もどこか儚げに削れていた。ボールペンでもシャーペンでもなく、鉛筆。きちんと毎朝削って持ち歩いているのだろうか。どこか時代に取り残されたような、でもそれが妙に似合っていて、思わず「浜本さんらしいな」と思ってしまった。
その愛嬌にちょっと和みつつも、「はーい、進藤さんも弦張ってねー」という吉高先輩の声で私はすぐに現実に引き戻された。
弦を張ってみると、私の知っている弓の形状になった。けれど、自分の手にあるそれは、どこか現実味が薄くて、まるで夢の中で模造品を握っているような不思議な感覚があった。たしかに重さも温度もあるのに、心だけがまだそこに追いついていなかった。
ふと隣を見ると、浜本さんが目を爛々とさせて、手に持った弓をうっとりと見つめていた。口は半開きで、頬がゆるみきっている。まるで猫がまたたびでも与えられたかのように、とろけそうな表情だ。あと数秒そのままにしていたら、本当に涎が垂れていたかもしれない。
次に右手に着ける手袋の事を教わった。手袋の事を「弽(かけ)」と言うらしく、親指、人差し指、中指だけを覆う手袋だ。着けてみると思ったより硬い。革製らしく、指の動きが少し制限される。親指の根元には厚みのある台がついていて、それが手の中にずしりと収まった。
そうして手を握ってみたり開いてみたりしていると、大塚先輩がニコニコして喋り掛けてきた。
「どう? かっこいいでしょ」
「え、ええ。かっこいいですけど、指が動かしにくいんですね」
「最初はみんなそう言うよ。でもそれが普通なんだよ」
これが普通なのか。まるで自分の手じゃないみたいだ。親指の厚みのある台には段差が作ってあり、それを見ていると、「そこに弦を引っ掛けるんだよ」と教えてくれた。
「これで弓を引くんだ……」
重たい手袋。でも、不思議と悪くない。武道っぽいというか、「これから何かを始める」感じがした。
「それじゃあ早速、一回弓引いてみようか」
「――!?」
後ろからそんな声が聞こえたので振り向くと、佐藤先輩がこちらへ歩いて来ている。優しく微笑んではいるが、いきなり弓を引かせようとするその思考の持ち主が、私にとっては鬼の様に見えた。
すると、横でぼそっと声が聞こえた。
「いよいよですね」
浜本さんだ。弓を引きたがっていた彼女の夢が、今成就しようとしている。彼女には冒険家の血でも流れているのか? いったい何が、彼女の心をそこまで掻き立てているのだろうか――私には理解できなかった。そして、彼女はこう続けた。
「わたくし、いざ参りますわ! これより、弓道道中の旅のはじまりです!」
「……はい?」
「進藤弓さん! わたくしの弓道伝説、ここに幕開けでございます!」
「ああ……はい」
一体、この自信はどこから湧いてきているんだ? 彼女の発言は謎だが、その表情は真剣そのものだ。そんな決意に満ちた浜本さんを見ていると、甲高い声が横から差してきた。
「なにそのテンション! まさか経験者!?」
いつの間にかすぐ横にいた久留須さんが、つるりと顔を出してきた。笑顔は常に百点満点、ぴょんと跳ねたつむじの毛が、彼女の自由さを物語っている。
「い、いえ、経験は無いですが、弓道に非常に興味を持っておりましたので、楽しみ過ぎてつい奇妙な発言をしてしまいました」
真剣な眼差しから一変し、久留須さんに声を掛けられた瞬間からその鋭い目は丸くなり、更に頬を紅潮させた。
「にゃるほどねー、私も楽しみだったから、仲間だね」
久留須さんはそう言うと、浜本さんへ手を差し伸べた。浜本さんは「あ、どうも」と戸惑いつつもその手を取る。
「久留須が来るっスよぉ~」
冗談交じりにウィンクして、久留須さんはくるりと踵を返して他の子のもとへ。
「久留須有希さんが……来るみたい、ですね……」
浜本さんは目を丸くしてぼそっと呟いた。この子にそういうジョークは通じないらしい。
「はーい、じゃあみんなついてきてー」
吉高先輩の一声で、全員が別の部屋へ誘導される。先ほど先輩が、矢筒やら弓やらを持って来る際に行っていた部屋だ。
入ってみると、しかしそちらは部屋ではなかった。そこは射場と呼ばれる場所で、実際に弓を引く場所らしい事はすぐに分かった。木の床が射場一面に広がり、正面には芝生と的が見える。テレビで見た、弓道の世界そのもの――の、はずだった。
しかしどうだろう、テレビで見たあの綺麗な射場とは明らかに雰囲気が違う。正直、思っていたよりもかなり地味だった。床はところどころたわみ、歩くたびに小さく軋む。壁板は太陽の光や雨の湿った空気を長年吸い込んできたせいで黒く色褪せ、高い天井を見上げると太陽の光が射す度に埃がふわりと舞う。そして正面に広がる芝生はどこか色褪せており、ところどころ土がむき出しになっている。緑の絨毯とは程遠い。その両脇に伸びる通路の屋根もまるで廃板の寄せ集めで、私は本当にこんな場所で弓道をやっていけるのかと不安になった。
「……ちょっと……ボロすぎ」
そのときだった。
視線を感じて振り返ると、姫木さんがまっすぐ私に向かって歩いてきていた。
鋭い目が、私をまっすぐ射抜く。彼女は無言のまま私の目の前に立ち止まり、その背の高さを活かすように顔をすっと近づけた。……は、鼻が当たりそうです。
「いきなり、失礼じゃないの。ここは神様がいる神聖な場所なんだから」
――え、神様? 思わず心の中で反芻する。姫木さん、そんなふうに思ってるんだ、この場所のこと。
たしかに弓道は昔から伝わるものだとは思う。しかし神様というのは、少しオーバーなような気がする。
姫木さんは続ける。
「あんたなんか、いつ辞めても誰も困らないんだからね。それに、みんな弓道をやりたくて来てるのよ。弓道やりたくないって気持ちで来てるの、あんただけなんだから」
低い声で言うと、ゆっくり背を向けて去っていった。その言葉が、突き刺さるように残った。私は呆然としながら、自分がここにいていいのか分からなくなっていた。
「進藤弓さん! いま、姫木さんと何をしてらしたのですかっ!? すっごく、近かったですけれどっ!」
浜本さんが小走りで駆け寄ってきた。声は控えめだが、興奮が滲んでいる。
「いや……別に何も。ちょっと、古いって言ったら怒られちゃって……」
「そ、そうでしたか。それは、嘆かわしいですね……」
浜本さんはメモ帳を取り出し、何かを素早く書き込んだ。「怒られた」などと書かれていない事を願うばかりだ。
「えーっと、じゃあ進藤さん、あなたからやってみようか」
そんなやり取りをしていると吉高先輩の呼ぶ声が聞こえた。
「……!!」
え、私が一番にやるの!? そう思ったが、とりあえず返事をしなければいけない。
「は、はいっ!」
そちらを見ると、吉高先輩は実際に弓を引くであろう場所で待っており、こちらを見てニコっと微笑んでくれた。
弓と矢を持っている先輩と向かい合って立つ。そこで胸当てを貰い、着け方を教わる。制服のワイシャツの上から滑らせるように着けると、どこか身体が引き締まったような気がした。何だか少し冷たく、左胸を包むその重みが、これから弓を引くという実感を静かに伝えてくる。急に緊張してきた。
「最初に教えておくけど、引く時の弓を持つ手は、終始ここだけで弓を支えるようにしてね」
先輩は親指と人差し指のあいだ、特に親指の付け根あたりをゆっくりとさすりながら説明してくれた。手のひら全体で弓を握らないように――そうしないと、矢を放った際に顔や左手を弦で打つことがあるという。想像しただけで、背筋がぞわりとした。
それから弽を渡された。白い布の下地を右手に着け、その上から弽を着ける。弽の長い紐(途中から帯のようになっている)はだらんと床についている。どうするのかなと思っていたら、すぐに吉高先輩が、長い紐をくるくると手首辺りで回して締めてくれた。
そして弓を貰い、矢を手に取る。たった一本の細いそれが、想像していたよりもずっと重たく感じられた。弓にそっと添わせ、筈の割れ目の部分に弦を押して入れ込もうとする。が、なかなか入らない。弽の親指部分は木が入っているので感覚がなく、上手に出来ない。するとまた、吉高先輩が手伝ってくれた。
「すぐに慣れるよ」
そう言ってニコっと微笑んでくれた。
ああ、優しい先輩だ。……どこかの厳しい同級生とは雲泥の差だ。
弓道部なんて入りたくて入ったわけじゃない。なのに今、私はこの古びた道場の真ん中に立って、弓なんか引こうとしている。なんだか罰当たりな気がする……あ、今罰が当たっている最中だった。
そして改めて的をじっと見る。あんなに遠くに的がある。いや、近いのか? 芝生を通して見る的は、なんだか遠近感がおかしい。
後ろに回った吉高先輩に両腕を実際に触って貰いながら弓を持ち上げて、そこから左右均等に引いてくる。何もかもの全ての動作、全ての体の感覚に違和感があり、上手に動かす事が出来ない。軽い弓を使っているのか、引く力は思ったほど必要なかった。ゆっくり引きながら手を降ろしてくる。途中先輩に「右手引きすぎー、もう少し力抜いていいよー」と言われて少し力を抜く。が、これも違和感。力を抜いてどうやって引くのだ?(ち、力抜けませんせんぱぁい!!)もう言われるがままに引くしかない。なるようになれ、だ。
矢がちょうど口の端に到達したところで、「はいストップ」と止められた。そのままの状態で、「あとは左手の弓を支えてる親指の付け根から的にぐーっと押して行くイメージねー、そして最後にこうやって右手を弾くのよ」
そう言うと、今度は私の前に回った先輩は、右手で指パッチンをして見せた。その要領で弦を外すらしい。もうここまで来てしまったら、怖いけど、なるようになれだ。思い切って指パッチンを……しようとしたその時。
弓を持つ手の親指に乗せていた矢はポロっと落ちてしまい、そのまま筈から弦も外れてしまい、「カラン」と乾いた音が床に響いた。矢は、的どころか、空さえ切れずに、ただ、そこに落ちた。
「おっと、弓戻してー」
吉高先輩のその声で、弓をゆっくりと戻した。
「右手に力入りすぎてたみたいねー、ちょっと緊張してたかな?」
そう言いつつ先輩は私の肩をモミモミとしてくれた。
「……あんた、やる気あるの?」
唐突に背後からそんな声がして、びくっと体が跳ねた。振り向くと、やっぱり姫木さんだった。ゆっくりと近づきながら、こんな事を言った。
「中るとか中らないとはどうでもいい、届かなくてもいい。でもね、矢一本も飛ばせないような子が入ってきても、正直迷惑なの」
正面まで来たその目は私を見下ろし、声はひどく静かだったけれど、冷たさがじんじんと肌に刺さってくるのを感じた。
私はうつむき、何も返せなかった。喉が詰まり何か言おうとした言葉は声にならず、ただかすれた空気が喉を通っただけだった。そのかすれた音が姫木さんに聞かれたかもしれないので、もう一度声に出して言おうと思ったけれど、——もういっか。と言葉を飲んだ。
すると姫木さんは「まったく……」とぼそりと呟くと、私に背を向け、去ろうと一歩だけ歩みを進めたがすぐに立ち止まった。
「……勝手にすれば」
そう言い捨てる彼女の声は、まるで私を見捨てたような脱力感があった。そしてそのまま射場を出て行った。
その背中を目で追っていた私の隣で、吉高先輩がぽつりと呟いた。
「最初は誰でもそんなもんだよ、大丈夫」
その声は小さかったけれど、私の耳にははっきりと届いた。
結局私はそれっきりで、次の子に回されてしまった。
私以外の子たちは、的まで届かない子もいたが、それでも全員矢を飛ばす事に成功しており、中でも浜本さんと白井さんの二人は的中させていた。見ていた先輩たちも「おおー」と声を上げていた。
矢を飛ばす事も出来なかった私は、とてつもなく恥ずかしく、そして惨めでならなかった。どうして好きで入ったわけでもない部活で、こんな気持ちにならなければいけないのか。
あの時誰かが拍手をしていた。誰かが「すごいね!」と笑っていた。でも、それは私には関係ない世界の音だった。指から矢が滑り落ちた瞬間の感触が、まだ残っている。冷たくて、情けなくて、自分の中の「なにか」が崩れた音がした。
……矢は飛ばなかった。ただそこに落ちた。みんなが「よーいどん」で走り出したのに、私だけが、スタートラインにすら立てなかった。
悔しいわけじゃない。悔しくなるほど、私はまだ、何も始めていない。
ただ、情けなかった。ひとりだけ、何もできなかった。そんな私はやっぱり、「エヘヘ」と笑ってごまかした。
やっぱり部活なんて、頑張ったって何にもなりやしないんだ。
第二話「飛べない羽根」 終わり