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第三話「約束のキーホルダー」前編

 全身の力を一気に抜き、そのままベッドへ倒れこむ。ベッドからは“ギシギシ”と、ポテトチップを崩したみたいな音がした。

 もう……最悪だ。まさかこんな惨めな思いをするなんて。

 いや、悲しいのか? 違う、恥ずかしい? いや、そうでもない。

 ……まさか、悔しい?

 そんなはずはない、だってまだ何も始めていないのだから。

 悔しい思いなんて中学の陸上部では、ただの一度もしなかった。私は万年補欠で、試合に出るどころか練習にすら時々顔を出す程度だった。練習で誰かに負けても、“悔しい”なんて感情、たったのこれっぽっちも湧かなかった。ただ走って、「ああ、何着だった」と結果を理解するだけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 しかし今日のあの時の気持ちは、一体何だったのだろう。感情がごちゃまぜのスープみたいになっていて、自分でも何が何だか分からない。

 恐らく、「悲しい」は、“矢を飛ばす事が出来なかった”という事実で、「恥ずかしい」は、私が矢こぼれした場面を、みんなが見ていたから。じゃあもうひとつの、この説明のつかない気持ちは何? どこから湧いてくる? 簡単に道具に触っただけの“ど素人”なのだから、ああいう失敗くらいしても仕方がないだろう。それなのに、どうしてこんなに胸が苦しいのか。

「悔しい」、私に縁のない言葉だと思っていた。でもこの胸の奥の、じんわりした痛みは――それしか、名前が思いつかない。

 あの時、私だけが“認められていない”みたいに、矢が落ちた。その事実だけはねじ曲がらない。

 ……もう、なんなのよコレ。涙が出てくる。

 仰向けになると、窓から射しこむ西日がつま先を焼く。ジリジリと焼きつつも、その熱線は時間経過と共に角度を少しずつ変え、ついには私のつま先を焼くのを諦めた。



 どこか遠くで私を呼ぶ声が聞こえた。かと思うと、目の前にお姉ちゃんの顔があった。私を覗き込むその目に驚き、思わず肩が跳ねた。「やあ、悩める弓道少女、起きろ、ごはんだぞ」いたずらに微笑みながらそう言うと、「んふー」と、猫みたいな顔でさらに笑った。

 階下に降り、晩御飯を食べ、熱いお茶をすすっている時だった。

「……矢、飛ばなかったんだって?」

 台所でお皿を拭いていた姉が、唐突に言った。

 私はソファで縮こまってスマホをいじっていたけれど、動きが止まった。

「……え、誰に聞いたの?」

「浜本さん? だったかな。えらく丁寧な子がきたよ。『進藤弓さんは、いらっしゃいますか?』って、フルネームでご指名だったよ」

 姉は浜本さんの真似をしつつ、笑いながらそう言った。

 浜本さん……来たんだ。何しに来たんだろう。数日前にLINE交換はして、住所も教えあってはいたけれど。

 姉はこう続けた。

「何だかすごく心配してたみたいよ、弓のこと。“寝てるみたい”って言っといた」

「え、どうして?」

「だってあんた泣いてたじゃん」

 こちらを見ずに、カチャカチャと食器を片付けながら、そして小ばかにする様に言った。

「……泣いてない」

 嘘だった。わかってる。でも言いたくなかった。

 姉は「そっかそっか」と少しだけ笑って、グラスを棚に戻した。それから、柔らかい声で言った。

「どうでもいいなら、泣かないよ。……飛ばしたかったんでしょ、本当は」

「……別に」

「ふーん。じゃあ明日、行くか行かないかでわかるね」

 そう言って、姉は食器を拭き終えると、そのままリビングを出て行った。

 私はソファにひとり残されて、空になった湯呑みをぼんやり見つめていた。


 “飛ばしたかったんでしょ、本当は”

 あの言葉が、頭の中で何度もリフレインする。その度に胸の奥にぽつりと何かが灯るような気がする。

 どうでもいいはずだった。やりたくて始めたわけでもないのに。なのに、あの矢が、的にどころか、空すら飛ばなかった瞬間のことを、何度も思い出してしまう。


 その夜は、なかなか寝つけなかった。

 夜更け、カーテンの隙間から月明かりが差し込んで、天井をぼんやり照らしていた。

 明日、わたしは――。


 *  *  *


 翌日。

 土曜日の今日は学校が休みなので、部活は十五時に始まる。

 お昼前、着替えながら、自分の胸にそっと問いかける。

 “どうして行くの?”

 ……わかってる。“行かない”なんて、最初から選択肢になかった。だってわたしは、たしかに――あのとき、飛ばしたかったんだから。



 着替えが終わって家でじっとしていたのだけど、どうしても胸の奥がざわついて仕方がなかったので、早めに家を出ることにした。

 道場に着いたのは、控室の掛け時計がお昼の十二時半を回った頃だった。かなり早めに来たのに、一台だけ自転車が停まっていた。見覚えがあるような気はしたが、誰が乗っていたのかまでは思い出せなかった。

 射場の方を覗くと、だだっ広い空間のど真ん中で、袴姿で胡坐(あぐら)をかいている女性がいた。背筋はつむじにかけてしゃんと伸びており、時々吹くやさしい風が、その髪を囁くように撫でる。

 こちらからは背中しか見えないが、それが誰かはすぐに分かった。その大きな身長、それにボブカット……姫木さんだ。

 姫木さんはいつまで経ってもそのまま動かない。あまり関わりたくはなかったのだけれど、控室に戻ろうとした時に床が軋んで乾いた音を響かせてしまった。

 姫木さんは首だけをこちらに向け、私を確認すると、ゆっくりと立ち上がりこちらへ寄ってきた。その威圧感たるや大蛇を彷彿とさせる。

 “あまがえる”と化した私は一歩も動けないどころか、彼女の鋭い視線から目も逸らせずにいた。そして目の前に立つと、こう言った。

「昨日の今日でよく来たね。あんなに落ち込んでいたのに。正直、もう来ないかと思ってた。……まあ、あんたなんか来なくていいんだけど」

「え、あの……」

 わたしが落ち込んでたって、何で分かるの? 確かに、昨日矢を落としてしまった時は、恥ずかしさや惨めさが勝って、そういう表情や反応をしていたかもしれない。実際姫木さんにひどい事を言われて、胸に刺さったものもあった。それで落ち込んでいるように見えたかもしれない。でも、その後は私なりに上手くごまかせていた。普通にお喋りもしたし、他のみんなが矢を飛ばした時は一緒に喜んだ。……フリをしていた。バレてないと……思ってた。

「……はぁ」

 姫木さんは腕を組み、顔だけを横に向けてわざとらしいため息をついて見せた。そして横目でこちらを見てこう続けた。

「八キロの弓を出せ、巻き藁に来い」

「ま、まきわら?」

「そうか、いきなり的前(まとまえ)に立たされたんだったな。あれだ」

 そう言って、姫木さんは控室の奥の方を親指でさした。指された方を見ると、米俵の様な物が木枠に乗せてあるのが見えた。何の為の物かは分からなかったが、とにかく姫木さんに言われた通りに弓を出して巻き藁へと急いだ。

「お、お待たせ」

 私がそう言って姫木さんと向かい合って立つと、彼女がこちらをじっと見た。その眼差しだけで、胸の奥がギュっと縮まる。

 ……わたし(キーホルダー以外に)何かしましたっけ? 怯えつつも思い当たる節がないかを咄嗟に考える。が、何も思いつかない。こういう「知らないうちに迷惑かけてました」パターンが一番厄介だ。悪気があってやっているわけではないので、「次会ったらこちらから謝ろう」という事もできない。……一体、何だろう。

「あの事、許したわけじゃないから」

 あ、全然思い当たるやつでした。

 私の返答も聞かずに、姫木さんは羽根の付いていない竹の矢の、二本持っているうちの一本を私に差し出した。

「これ、巻き藁矢ね。巻き藁では羽根の付いた矢は使わないで。羽根が痛むから」

「は、はい」

 巻き藁矢を受け取ると、早速矢を番える。

「はい、じゃあ引いてみて」

 言われるがまま、昨日吉高先輩に教わった通りにやってみる。

 弓を高く持ち上げて、ぐぐぐっと力を込めて引く。その一連の流れで感じる“違和感”。慣れていないせいだとは思うのだが、この違和感のせいで、頭で思い描くように引けていない事がよく分かる。

 そして口まで矢が来たところで止める。そこで数秒止まっていると。


 ――ポロっ


 またしても矢が指からするりと落ちた。今度は弦から矢は離れず、“だらん”と矢はずり下がった状態で止まった。瞬間、パシっと足を何かが叩いた。咄嗟に弓を戻す。足を叩いた犯人は、姫木さんの持っていた巻き藁矢だった。

 それ、叩く用だったんだ……。

「……力み過ぎ」

 姫木さんの低い声が、さらに低くなっているように感じた。

「力が入ると矢が湾曲するからこぼれやすくなるのよ。八キロの弓なんてそんなに力いらないでしょ」

 姫木さんは怒っているというよりも、呆れているように肩を落としつつそう言った。

「そ、そんな事言ったって、弓引くのに力入れないって、意味分かんないよ……」

 私がそう言うと、姫木さんは、

「もういい」

 と言ってスタスタと射場の方へ向かって行ってしまった。

 ……やっぱりわたし、だめなんだ。誰かが来てしまわないうちに帰ろうかな。

 弓を置いて弽を外して、弓から弦を外そうとした時だった。姫木さんが控室へ戻ってきた。

 姫木さんは腰に手を当て、後ろ指で射場の方を指した。

 一拍置いて、冷たい声が落ちる。

「進藤、的前で引く」

「ええ!」

 思わず声が飛び出た。射場の方を見ると、的がひとつ、ぽつりと立っていた。

 もしかして姫木さん、あれを立てに行ってたのか……。なんであんなぶっきらぼうな言い方したんだろ。「もういい」なんて、絶対に見限られたときにしか言われないセリフだよ。……でも、もしかして、誰に対してもああなのかな。

 姫木さんを追うように射場に入って、「ここ」と指をさされた場所に立つ。

 早速そこに立って矢を番える。

 すると、また昨日の矢が落ちたときの事を思い出した。足元からみぞおち、みぞおちから背筋に、ちっちゃいたくさんの粒たちが、泡みたいに“ぶわーっ”と昇っていくのを感じる。ぞわぞわっと両腕に鳥肌が立った。

 姫木さんは、昨日の吉高先輩みたいに私の後ろに回った。そして私の両腕にそっと手を触れる。

 え――何、この安心感。

 そう感じた直後、背後から静かな声が聞こえた。

「いくぞ。打起(うちおこ)し」

 姫木さんはそう言って、私の腕にそっと力を添えた。その力に従い両腕を持ち上げる。持ち上がった所で、

「ここで一呼吸おいて、気持ちを落ち着ける」

 姫木さんの優しい声が、体から毒素を抜いていくように、恐怖心を少しずつ昇華してくれているのを感じる。

 言われるよう、空気を吸い込み、ゆっくりと、鼻の奥からそれを抜く。

「大三(だいさん)。ここでもう一度、一呼吸」

 打起ししたところから、弓と引き手を的の方へ運び、そこで一呼吸。

 鼻の奥から呼吸を抜くたびに、体の芯から“何か”が溶けて消えていくのを感じる。

「引分(ひきわ)け。腕は力まずに、二の腕で引いてくる」

 そう言うと、姫木さんのリードは、弓を持つ手は下げつつ、右手は肘を優しく掴んで、引く方向へ導いてくれた。吉高先輩の時は全てに違和感があって、何をどう引いてくればいいか分からなかったが、こうやって肘を引いてくれるととても分かり易い。引く方向も、引く量も。

 そして矢が口の端に来ると、リードはピタリと止まった。

「ここでしっかりと的を見る。これが“会(かい)”。引いてる右手の力は抜いていい」

 姫木さんは未だに肘を掴んでくれており、引く方向へ少しだけ引っ張ってくれている。これなら、右手の力を抜いても良さそうだ。

 右手の力を抜いてみた。弓を引く量が戻るかと思ったが、意外にも変わらなかった。多分、姫木さんが肘を引いてくれているお陰だろう。そしてまた姫木さんの静かな声で落ち着く。

「つむじから上に伸びる事を意識して、左手は肩から腕にかけて的にぐーっと押していく、右手側は肩から伸びていく、体全体で、上、左右に伸びていくイメージ」

 そう言って、姫木さんの左手は私の左手首を軽く持ち、的の方へ伸ばすように促してくれた。

 まるで、体に十字線が引いてあり、その全ての方向へ伸びていく感じがした。

「最後は、弓を的に“トン”と押してやると同時に、親指を弾いて、右手は思い切り伸ばす。思い切ってやれ、私がいる」

 そこまでくると、恐怖心や緊張感、そういったものは一切感じられなかった。静かな射場。聞こえてくるのは、私の心音のみ。

 そして、「――今!」と感じた瞬間に、弓を押すと同時に親指を弾き、右手を思いっきり伸ばした。

 弓を持つ手に伝わる振動……いや、違う、衝撃? ……もっと違う何か。これは――衝動。弓自体がしなりを戻し、“矢を飛ばす”という意思から生まれた、衝動。そう感じた。

 矢は緩やかな弧を描いて、的まで届かずに芝に刺さった。

 姫木さんの声が聞こえた。

「届かなかったが、まあ最初はこんなもん――」

「飛んだ! 飛んだよ!! ねえ見たっ?」

 私が振り向いて姫木さんにそう言うと、姫木さんは目を丸くして私を見ていた。

「飛んだくらいでそんなに喜ぶな。飛ばすのが目的の競技じゃないんだぞ」

「あー飛んだー! 飛ばせたよ私も! 私にもできた!」

 もう何もかも、両手放しにして世界を放り投げたいくらい嬉しい。確かに的には届かなかった。でもそんなこと、わたしにとってはどうでもいい事だった。それよりも、“矢を飛ばせた”という事が、とっても大きな前進だった。

 陸上部では、たったの一度も感じた事のない喜びが、体中駆け回っているのが分かる。本当に本当に嬉しい。嬉しい、嬉しい!

 姫木さんが言っていたが、これは矢を飛ばす競技ではない。そんな事分かってる。でも“矢を飛ばしただけ”で、こんなに嬉しいなんて。他のスポーツでは絶対にない。競技は、勝利を得て喜ぶものだけど、スタート地点に立てただけでこんなに喜べる競技、あるだろうか。もしあったとしてもわたしは知らない。

 両手が震えている。すごい、全身の細胞が興奮しているのが分かる。

「……せっかく飛ばせたところ申し訳ないが、しばらく的前には立たないと思う。昨日はオリエンテーション的な目的で、的前で引かせただけだろうからな。皆今日からは基礎練だ」

「え、そうなの?」

 すました姫木さんに、急に冷や水を差されたようだった。けど、そう言いつつ控室に戻る彼女の顔は、ちょっとだけ、頬が緩んでいた。



 * *  *



 ある朝、ゴミを出しに玄関を出ると、向かいの家のおばさんが声をかけてきた。

「ユミちゃん、おはよう。あら、日曜なのに制服?」

「あ、はい。部活があるので……」

「へえ、何部?」

「弓道……」

 そう答えた瞬間、矢を飛ばせた事がちょっとだけ誇らしいような気持ちになって、さらにこう付け加えた。

「弓道やってるんです、わたし」

 そう答えた時、“ひゅん”と、真横を自転車が通った……後ろ姿に、艶のある黒髪が揺れる。

 ……姫木さん。

 いつもここ通ってたんだ。

 今の会話……聞こえてた、かな。



 入部して三週間が経った土曜日。

 姫木さんが言った通り、的前で引いたのは結局初日のあの日だけで、私が初めて矢を飛ばした日からは基礎練の毎日が待っていた。

 基礎練は主に「素引き(矢を番えず弽も着けずに弓を引いてそれをキープする筋トレの様なもの)」「ゴム弓(簡単に言うと屋台なんかで売られているパチンコの様な物、主に射型を確認する為の道具)」「腕立て、腹筋、背筋、スクワット」だ。素引きや筋トレをやっている時は限界がくる度に「入る部活間違えたー!」と思わされるが、巻き藁を引くのは楽しかった。

 矢を飛ばしたあの日から、弓を引くのが楽しくなった。相変わらず初的中はまだだが、矢は遠くまで飛ぶようになり、最近では安土(的を立てる土盛り)まで届くようになった。

 私はそんなことで喜んでいるが、もう殆どの子は初的中を経験しており、残すは私と武田さんだけとなった。

 武田さんは、賞味期限の何かを食べたのではないだろうかと思えるほどいつも元気がなく、目も虚ろだ。そして口数も少ない。しかし彼女も毎日欠かさず部活に来ている。弓道部に入ったきっかけを聞いてみると、「落ち着いた部活かなと思って……」と言っていた。まさかこんなに筋トレに明け暮れる日々だとは、想像もしていなかっただろう。

 そして姫木さんは例外として、一年生で一番中てているのは、白井さんだ。自己紹介の時に「……よろしく」という一言を絞り出していたあの子だ。彼女も無口ではあるが、喋り掛けると、「へえ、それで」だとか「私もこの前――」みたいにお喋りを続けてくれようとする。視線は鋭いが悪意はないらしい。

 弓道は一立(たち)に矢を四本引くのがルールなのだが、その四本全てを中てると「皆中(かいちゅう)」と言って、試合では敵味方関係なしに客席から拍手がもらえるらしい。もちろんまだ試合には出ていないので練習ではあるが、白井さんはその皆中を経験している。他の子たちは全員、最高二中(ちゅう)といったところだ。


「ねえ、ミニ大会しない? 三年生抜きでさ、ミニ新人戦しようよ」

 そんな事を言ったのは桜井先輩だった。普段は無口で怒っているようだけど、そうでもないらしい。笑う頻度は姫木さんより断然多い。頼れるお姉さんキャラという感じだ。

 そしてそれに同調する矢田先輩と真鍋先輩。真鍋先輩は、ツインテールで、一見すると可愛らしい妹系――けれど、瞳の奥にある妙な計算高さが、どうにも気になる。矢田先輩とはまた違う種類の“食えなさ”があった。

 そんなふうに眺めていた視線の先、ミニ大会の話題に、控室の空気は次第に華やいでいく。その空気に混ざりきれず、わたしは少し離れたところで様子をうかがっていた。正直、「え、大会!?」と一歩引いたが、その気持ちは「試合にも慣れないとだしねー」という、大塚先輩の陽気な声に溶けていった。この人の無邪気さは、負のオーラを浄化する作用があるらしい。


 ミニ大会は、二人チームの総当たり戦。十人参加で五チームを作る。一人足りない分は三年生が入る。

 一人八射、全三週の勝ち点制。ルールは簡単。中てれば勝ちに近づく、それだけだ。


 チーム決めはくじ引きでやることになった。全員で紙を引いて、同じマークの人同士がペアとなる。

 ちょっとしたイベントにみんなの顔が明るくなっている中、わたしの心は、ひとりで勝手にざわついていた。なんでだろう。別に、まだチームも決まっていないのに。

 ただ、もしあの人と一緒になったらと思うと、胃の奥がきゅっとなる。視線の先には、凛とした横顔。……一緒に立つなんて、想像するだけで呼吸が浅くなる――。

 私の心臓が加速するなか、箱から一人ずつ紙を引いていく。そして私の番――マークは、

「……うっ」

 一体だれがこのくじを作ったのだろう。このマークを見るに、恐らく大塚先輩だろう事が伺える。私の紙に描かれたマークは、「どくろ」だった。こんなくじを引かされては、例え浜本さんと組めたとしても気が晴れない。

 私はため息をついてその紙を佐藤先輩へ渡した。

「おお、出たね、どくろ!」

 佐藤先輩は笑いながらに言った。

そりゃ出るでしょうよ。十枚全部引くんだから。

 佐藤先輩は「どくろ、進藤……っと」と言いながらチーム表に私の名前を足した。

 一歩下がった所で、全員が佐藤先輩へ申告しているのを眺める。“彼女”が「どくろ」を引かない事を願いつつ。

 そして全員がくじを引き終わり、佐藤先輩がチームを発表する。

「それじゃあ、発表するよー」



 まずは吉高先輩と白井さん。

 次、斎藤さんと上戸さん。

 それから、矢田先輩と浜本さん。

 久留須さんと武田さんで――


 ……残ったのは、私と“あの人”。


「最後、進藤さんと……姫木さん」

 息が詰まるような沈黙のあと、佐藤先輩の声が落ちてきた。

「それじゃあ、チーム名はそれぞれ考えとくとして、早速大会始めちゃおっか」

 周りのみんなは楽しそうにしているが、佐藤先輩のそんな言葉が、とても重く感じた。笑うことも燥ぐことも、今のわたしにはちょっと遠い。どうしてわたしはいつもこうやって外れくじを引かされるのだろう。わたしだって、このイベントを楽しみたかった。それなのに……。

 受付を務める佐藤先輩の周りにみんな集まっているのだが、別次元に放り出されたみたいに、姫木さんはひとりぽつんと壁にもたれかかっていた。腕組みをして、難しい顔をしてどこか宙を眺めていた。……何を考えているのだろう。

 と、姫木さんはこちらの視線に気が付いたのか、不意に目が合った。すると、腕組みをしたまま、「こっちに来い」と言うように、移動式の黒板がある方へあごでしゃくって見せた。

 黒板まで行くと、姫木さんは黒板に文字を書いた。

 ――片翼

「なにこれ?」

 私が聞くと、姫木さんはチョークを置いて腕を組み直した。

「我々のチーム名だ」

「かた……よく? あは、何だかかっこいいね」

「うちのチームは、すでに翼を一つもがれているからな」

「……」

 皮肉を言われていい気持ちはしなかったが、実際、的中はおろか、的まで届かない事はしょっちゅうだ。しかし、それは私だけではない。的中を経験している浜本さんや久留須さんですら、届かずに芝に刺さったり滑射する事は未だにある。

 ……絶対に見返してやるんだから。

 みぞおち辺りに灯る、何か熱いものを感じた。



 初戦は、久留須さんと武田さんのチーム、【ねこまほう】との対戦だ。久留須さんは、チーム名にぴったりな笑顔を振り撒いているが、一方の武田さんは、「さっきまで熱で寝込んでいました」というような顔をしている。

 私のチームは、私が御前(おんまえ)(チームの一番目に引く人)で、姫木さんが落(おち)(チームの最後に引く人)を務める事になった。【ねこまほう】は、御前が武田さんで、落が久留須さんだ。

 私たちは的に向かって一列に並び、佐藤先輩の「始め!」という号令と共に、一斉に足並みを揃え射位(しゃい)(弓を引く際に射手が立つ位置のこと)まで進んだ。

 射位に立って、持っている四本の矢を床に置き、そこから二本だけを取る。そして矢を番える。まだ的には中てたことはないけれど、この動作なら何十回もやってきた。よどみなくスムーズに出来る。

 一呼吸おいて弓を打起こす。背中から姫木さんの視線を感じるが、とにかくひとつひとつの所作に気を付けながら弓を引く。そうしないと、姫木さんに怒られてしまいそうでならない。

 大三、引分け、とゆっくりと弦を引く。筋トレのお陰もあってか、“右手は力を入れずに引いてくる”という感覚も分かってきたように感じる。

 会に入って、籐(とう)(弓を握る上部に巻かれた物)の中に的を入れる。私の場合、籐の一番下辺りに的を合わせると割と届く事が多いので、そこに合わせる。的をじっと見つめ、そして放つ――

 すると、矢は濡れた紙飛行機みたいに、途中で失速して芝に落ちた。背後からは「はぁ……」という、あからさまなため息が聞こえた。

 ……なんだよ、私だって一生懸命やってるのに。少しだけ頬を膨らませた。

 次の矢を番えている時に、背後から「ヒュンッ」っと、鋭い矢音が聞こえた、瞬間、


 ――パァァァァァァン!


 道場いっぱいに響く快音に、反射的に背中が強張った。ちらと姫木さんを振り返ると、目が合った。しかし、無視するように次の矢を番え始めた。

 ああもう、何か怒ってるじゃん……。大体、わたしに中てろってのが無理な話なのよ。武田さんだってまだ中ってないんだから、そんな厳しい目で見なくたって……。

 と、そう思った時だった。私の目の前で引いていた武田さんの放った矢は、心許なげに空を泳いでいたが、たちまち、


 ――パァァン


 ……その音は、小さくても、しっかり的に届いた音だった。

 たった一つの音が、道場にいる全員を「仲間」に変えていく――そんな風に感じた。

 ……私だけを置いて。周りのみんなは「おー、やったねー!」と拍手をして喜んでいた。私も「おめでとう」と笑顔で声を掛けたが、なんだかその声が、自分の耳にも震えて聞こえた。

 これで、一年生で的中経験がないのはわたしだけとなってしまった。中てないといけないのは分かっていても、中てようと思って中てられるほどの腕はない。

 今はただ、せめて届かせる……のみ!


 ――ドスッ


 私の放った二本目の矢は的の後ろ(的の左側)に刺さった。それも、結構後ろ……どちらかと言えば、もう姫木さんの的の方が近いくらい後ろ……。

「はぁーーーー」

 またしても聞こえる大きく長いため息。わかる、今のため息。翻訳するとこうだ。「まったくあんたどこ狙ったらそんなとこ飛ぶのよ。目瞑ってもそんなとこ飛ばないわよ」である。

 わたしだって、何であんなとこに飛んだのか分からない。放した瞬間は“いける”と思ったのに気づいたら真横……魔法かよ。一本目は割と的の方向へ飛んでいて、二本目もまったく同じ狙いを付けていた。でもあんなところに……。わたしの方が理由を知りたい。

 三本目、今度こそしっかり狙って……。

 そう思って放ったが、離れが一瞬引っかかってしまい、矢は的の下に滑射した。今度は、背後から何も聞こえなかった。姫木さんの方をゆっくりと見てみたが、こちらを見る素振りすらなかった。多分、もうやめたのだろう。わたしに期待する事を。

 そして四本目、これも的の後ろに刺さった。今度は二本目よりも近く、さらに届いたということで「やった!」と心の中で胸を撫でおろした。

 届く。それだけで今日は、十分だと思っていた。――この時までは。

 引き終わった私は習った所作で、厳かに退場した。

 二立目も姫木さんは四本とも中て、八射八中。私はやはり、一本も中てることが出来ないまま終わった。



 その後の試合も散々な結果で終わり、あのみぞおちの奥で燃えていた「何か」は、名前を持たないまま、静かに灰になった。

 もう、どこにも残っていないような気がした――自分の中にも。



「はーい、お疲れ様でしたー」

 佐藤先輩の一声でみんながわらわらと集まりだす。

「これで一週目終了です。現在のトップは、三勝一敗で、吉高・白井チームの『静かなるものたち』!」

 パチパチパチ、とまばらに聞こえる拍手は、人数の少なさも相まって、この広い道場ではやけに虚しく感じた。

 そして二位の発表で、私たちのチームが呼ばれた。私は一本も中てられなかったので、その順位に、かえって恥ずかしくなって顔を伏せた。矢を飛ばせなかった“あの日”のことを思い出した。惨めで情けなくて……今すぐにでもここから逃げたい。そういう感覚。

 矢を飛ばせたあの時、私は嬉しくて嬉しくて堪らなかった。そして今は、安土に届くだけで「やった、届いた」と、的中したような気持ちで喜んでいた。しかし、今日のこのミニ大会で、そんな私の“意識の低さ”が浮き彫りになった。

 周りのみんなは“中てよう”としている中、私は“届かせよう”としかしていなかった。私にとって的(まと)は、ただの目安でしかなく、それに中てようという気持ちは微塵も無かった。

 実際引いている時も、「姫木さんを見返してやる」と言う気持ちの中身は、「安土に届くところを見せないと」というものだった。

 ……戦っている土俵がそもそも違った。

 どこか遠くで「それじゃあ、時間まで少ししかないから、あとは自主練ねー」という佐藤先輩の声が聞こえた。みんなが散り散りになる中、その場を動けずにいる私の背中に、突然姫木さんの声がした。思わず足がすくむ。

「ちょっと、あんたやる気あるの」

「……あの、ごめん」

 その言葉を出すのがやっとだった。姫木さんは続けた。

「いままで中った事がないのは知ってるけど、それにしても酷すぎ。今日何本引いた? 四試合で三十二本引いたんだぞ。まぐれでも中るようなもんだけど、そもそも届いてない矢が多すぎ」

 姫木さんがどんな顔をしているのか見ることが出来ない、見るのが怖い。なんだか、“届けばいい”と考えていた事が見透かされているみたいで、私の心臓はぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなった。

「矢を飛ばしたくらいであんなに喜んで、馬鹿みたい。三週間なにしてた? ここに来て練習するふりだけしてたのか? 遊びに来ているなら邪魔だから来ないでほしい」

「え、そんなつもりは……」

「そんなんで、“弓道やってます”なんて言わないでくれ。真剣にやってるこっちが馬鹿らしくなる。まだ中ってないなら死に物狂いで練習しろ」

 姫木さんは吐き捨てるようにそう言うと、そのまま騒がしい控室へ行ってしまった。

 静まり返った射場に落とされた長い影すらも、私を笑っているように肩を小刻みに震わせていた。

 射場の奥に夕日が沈みかけていた。


 ……ほんと、飛ばせただけで浮かれて馬鹿みたい。

 全然できてないのに、「弓道やってます」なんて……恥ずかしい。


 見慣れたはずの道場の輪郭が、やけにぼやけて見える。

 水の中にオレンジの絵の具を垂らしたみたいに、じんわりと滲んで。

 歯を食いしばる……ああ……だめだ……。

 夕日色のオレンジは、私の頬に一筋の線を引いた。



 第三話「約束のキーホルダー」前編  終わり


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