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第三話「約束のキーホルダー」後編

 “そんなんで“弓道やってます”なんて言わないでくれ。”その言葉が何度も脳内で反芻する。

 近所のおばさんに会った時、私は矢を飛ばせたことが嬉しくてあんなことを言ったが、姫木さんに言われて気が付いた。

「やっぱりだめだ、中てなきゃ」って。

 中てようとすらしていない自分に気づいて、怖くなった。惰性で三年間を過ごす、あの陸上部の頃と同じ未来が見えた気がした。

 嫌々部活に入って、嫌々練習に参加して、頑張っているふりだけして万年補欠――。どうせ部活を辞めていい条件なんて達成できっこないって、最初から諦めていた。だから“届けばいい”なんて発想になった。波風立てずに三年間を過ごすつもりだった。

 でも、本当は気づいてた。認めてしまえば、逃げられなくなる。知らない世界に足を踏み入れることが、怖かった。だから知らんぷりしてた。

 ……だけど、もう誤魔化せない。

 ……わたし、弓道で本気になりたいって、思っちゃってる。

 正直、中てたいのかって聞かれたら、まだ分からない。もちろん中てられるに越したことはないけど、それよりも――。

 姫木さんのあの言葉が、頭に焼き付いて離れない。それは「弓道やってますって言いたいなら中てろ」といっているのではなくて、もっと、“本質的に”弓道をやれ、って言われた気がした。

 今までの私は、形だけ練習に参加していた。全然“本気”で取り組んでなんていなかった。

 “みんな弓道をやりたくて来てるのよ”――その言葉の重さが、ようやく胸に刺さる。一緒にスタートしたと思っていたのに、私はまだスタート地点にすら立っていなかった。


 ……だったら、今からでも走り出せばいい。


 そう思った瞬間、自転車をUターンさせていた。「忘れ物しちゃった」と適当なことを言って道場へ引き返した。

 ひとりで何をどう練習すればいいかなんて分からなかった。ただ“とにかく何かを始めないと”って、その気持ちだけが私を突き動かしていた。


 ……とりあえず基礎だ。基礎をしっかりしないと。

 そう思い、わたしは筋トレを始めた。いつも部活の時にやっているものと同じメニュー――では足りない。今日は限界まで、やれるだけやってみよう。

 腕立て、腹筋、背筋、スクワット……定めた回数を超えて、さらに「もう一回だけ、もう一回だけ」と重ねていく。


「だぁー! もう……はぁ、はぁ……だめ」


 筋トレの方法として、それが正しいのかなんて分からない。でも、とにかく限界まで追い込みたかった。それはただ、自分を正当化したかっただけなのかもしれない。自分の意識の低さを、練習に対する熱量の低さを、そして弓道に対しての想いを……都合がいい事だとは分かっているけど、それら全てを無かったことにしたかった。そうしたら、私もやっと、スタート出来るような気がしたから。


 肘が曲がったままの体勢から、どうしても体が上がらず、私は床にドスンと崩れ落ちた。

 腕の筋肉がものすごく張っているのが分かる。腕を伸ばして二の腕の筋肉を伸ばす。明日はきっと筋肉痛だ。いままでサボってたツケが、まとめて返ってきた。

 しばらく息を整えてから、今度はゴム弓を引っ張り出した。鏡を前に、打起し~離れ、残心(矢を放った後そのまま動かず、心を落ち着け射の結果を見届ける、射の総決算とも言われる)までを何度も繰り返した。

 いつも先輩に教えてもらっている箇所を確認しつつ、その射型が体に沁みつくまで徹底した。右手の親指に違和感を覚えて見てみると、豆ができていた。ゴム弓で豆ができるなんて、思ってもいなかった。

 次は素引き。さきほどの筋トレで腕はものすごく張っていたが、とにかく練習をやりたかった。

 ロッカーからタオルを取り出し、控室は天井が低いため膝で立つ。そしてそのタオルを右手に持ち弦を引く。

「……っ」

 やはり腕がもう限界のようで、まだ一回目の素引きにもかかわらず両腕が笑っている。弓を持つ手も、手首が負けそうでこちらも小刻みに震えている。でも、ここで踏ん張らないと……。

 そう気を張った、そのときだった。


 ――ガツン!


 顔に鈍い激痛が走った。左手首が弓の力を支えきれず内側に負け、そのまま弓が手から逃げたらしい。

 たまらず崩れ落ち、両手をついて顔を伏せた。ボトボトと何か液体が床に落ちた。暗くてよく見えない……これは……血だ。

「はぁ……はぁ……」

 顔を触ってみると……鼻血らしかった。それと、口の中に硬い物が……。吐き出してみると、「カツン、カツン」と乾いた音が床に響いた。

 ……歯が二本床に転がった。舌で触ってみると、左上の犬歯辺りの前歯がない。

 鼻血は止まらず、口内からも血が溢れ、息をするたびに床へ垂れていく。咄嗟にタオルで床を拭き、そして顔を押さえた。……感覚がない。衝撃で、神経が麻痺している。

「……もう、何なのよ……ううう……」

 涙が出てきた。やる気を出したその日に、これだ。

 痛みと情けなさで、胸が苦しい。

「ううう……ひぐっ……ああああ……っ!!」

 全身に力が入らない。暗い空間に、私の嗚咽だけが響く。

 そのとき、ふいに電気がついた。眩しさに目を細める。誰かが来た?

「おい! 大丈夫か!」

 この声は……まさか。

「素引きをしたのか。……あんなに筋トレをやった後に素引きするやつがあるか」

「あ……あああ……っ、ひっ、ひぐっ……うわあああああんっ!!」

 その顔を見た瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

「ひめぎざあああああああん!! もうわだじ……わだじ……!!」

 体を起こしてくれた姫木さんに、私は抱き着いた。

「分かった、何も言うな。タクシー呼ぶから、一緒に病院行くぞ」

 そっと頭に添えられた手が、あたたかかった。




「これで、大丈夫でしょう」

「ありがとうございました……」

 診察と処置が終わる頃には、病院に着いて一時間半が経っていた。家には姫木さんが連絡してくれたようで、私は、申し訳なさで言葉が出なかった。

 待合室に戻ると、姫木さんが座っていたベンチには誰もいなかった。私が病室に呼ばれて一時間ほど経っていたので、どこか歩きにでも行っているのかもしれない。入れ違いになるのも嫌だったので、その場で待つことにした。

「ん?」

 すると、そこに文庫本の様な物が置いてあった。表紙は青で柄は無地。表題には「記録」とだけ記されていた。誰かの忘れ物だろうか。

 そっと手に取り、ページをめくった。



 4月〇日

「今日は部活動紹介で、新入生たちの前で引いた。矢田先輩が突然「的枠に中てます」なんて言うもんだから正直焦った。

 でもまあ、的枠に中てるくらいなんてことないし、話題になれば興味を持つ人もが増えるかもしれないと切り替えた。来週、何人来るかな。

 それと最悪な事が起きた。放課後、道場に行く途中で、ふわたんのキーホルダーを壊された。あの女……絶対に許さない。名前を聞いておくべきだった……。」



 5月〇日

「今日は新入生たちがやって来た。誰も来ないんじゃないかと不安だったけど、7人も来てくれた。

 だけど、その中にあのキーホルダーを壊した女がいた。進藤弓というらしい。

 部活では、レクレーションでみんなに弓を引かせていたが、進藤だけ矢を飛ばせなかった。声をかけたが、彼女が何か言いたそうで、声にならず、肩が震えていた。キーホルダーの件で頭に血がのぼっていて、少し辛く当たり過ぎたかもしれない。

 その後は同級生と普通にやりとりをしていたが、笑顔がふと消える瞬間があった。相当落ち込んでいたらしかった。仲良さそうにしていた浜本さんに、自宅へ行ってもらうようお願いをした。明日、どうだったか聞いてみようと思う。」



 5月×日

「ずいぶん早い時間に進藤が道場へ来た。浜本さんが励ましてくれたのだろうと思っていたのだが、浜本さんからは“会えなかった”と夕方に報告を受けた。先日の事もあったので、私も謝罪の意を込めて矢を飛ばせるよう、巻き藁と的前に付き合った。

 矢は飛んだが、的までは届かなかった。しかし、矢が飛んだあの時の進藤の顔、なかなか良かった。私も初めての時は、あんな表情だったのだろうか。

 ……ただ、彼女の顔を見たびに、キーホルダーのことを思い出してしまう。

 キーホルダーは体だけにチェーンを付けて、“体だけのキーホルダー”を作った。」



 ……これ、姫木さんの日記だ。

 うっかり読み進めてしまったけど、これ以上はまずいかもしれない。

 そう思いつつ、最初のページへ戻ってみる。


 最初の数ページは、“お母さんと過ごした日々”が記されていた。

 ページをめくると、「ふわたん」という文字が目に飛び込んできた。そこで手が止まった。去年の年末のようだった。



 12月〇日

「一時退院中だったお母さんと東京まで足を運んだ。病気で辛そうだったけど、どうしても一緒に行きたいと言って聞かなかった。

 目的は「ふわたん」の限定キーホルダーだったが、案の定、たくさんのグッズを買ってしまった。

 お母さんと列に並んで買った。

 帰りの飛行機でお母さんが「ふわたん、文に似てるね。ほら、誰にも気づかれないように笑ってるとこ」なんて言ってた。わたしそんな風に見られてるのかな。

 このキーホルダーは矢筒につけておこうと思う。ありがとう、お母さん。」



 そこからまた数ページ移動する。

 今度は、少し重そうな場面だった。



 2月×日

「お母さん……ありがとう。

 あまりにも静かで、まるで眠っているようだった。

 あの日、ふわたんを見せたときの、お母さんの顔を、私は一生忘れない。

『弓道を続けなさい』って、言ってくれた。わたしが引く姿が好きだって。

 天国でも見ていてね。

 私の矢が、届くといいな。

 お母さん。大好きだよ。

 一緒に並んで買ったふわたん、永遠の宝物だよ。」



 そのページを読み終える頃には、わたしの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。



「進藤……診察、終わったのか」

 その低い声に肩が跳ねた。振り返ると、姫木さんが立っていた。彼女は私が開いて持っていた本を見ながら言った。

「……それ、読んだのか」

「ご、ごめんなざい……っ、ぢがっ、そんな……づもりじゃ……!」

 鼻水も涙も止まらない。

「わだじ、ふわたんのこと、ぜんぜん知らなくて、でも、壊しぢゃって、ひめぎざんが……おがあざんと……ほんとに、だから、ごめんだざい……うわあああああん!!」

 目の前がほとんどぼやけて見えなかったが、私は姫木さんに抱き着いた。

「いや、ちょっと、離れろ! ……んもう、泣きすぎ」

 私を引きはがそうとするその声は、少しだけ柔らかくて。その目を見ると……私の視界が滲んでてそう見えたのかな、ちょっとだけ、潤んでいた様に見えた。


 ベンチに腰を下ろすと、姫木さんは私の頭にぽすっとハンカチを投げてよこした。

「それ、鼻水つかなかったら返して」

「……ひっぐ、うん、……ごめんなざい」

「……もういいから」

 そう言って、姫木さんはひとつ息を吐いて、窓の外を見た。

「でも、あれは……お母さんとの最後の東京だったんだ。あの日のこと……忘れたくなかったから」

 私は目をこすりながら、小さくうなずいた。

「壊れたからって忘れるわけじゃないんだけどな。私はあのキーホルダーに、お母さんを重ねていたのかもしれない」

 姫木さんは俯いてそう言った。すごく優しい目をしている。そしてポケットからある物を取り出して私に見せた。

「ほら、これ」

 それは、ふわたんの“体”のキーホルダーだった。お尻のところにキーホルダーチェーンが埋め込まれ、姫木さんがぶら下げて見せるそれは、お尻で吊るされているように見えて少し滑稽だった。

「それ……作ったの?」

 日記にも記されてあった。“キーホルダーは体の部分だけチェーンを付けて、別で体だけのキーホルダーを作った”と。これのことなのだろう。

「ああ、あのままどこかにしまっていても、失くしてしまいそうだったからな。こうやってまた一緒に矢筒に付けておけば、ひとつのキーホルダーとして輝くだろう」

「うん……そうだね。……あの、姫木さん、その」

 私の歯切れの悪さに気づいたのか、何か身構えたのか、姫木さんは微笑んでいた頬をすっと落とすと、「なんだ、どうした?」と私の顔を覗き込んできた。

「……その、キーホルダー、本当にごめんなさい。私は、一生取り返しのつかない事を……また買って返せばいいって思ってた自分が……恥ずかしくて……うう、ううう」

 また涙が出てきた。姫木さんのハンカチで顔を覆う。

「……正直、進藤の事は許せない」

 冷たい言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。

 だけど、言い終えたあと、姫木さんは小さく息を吐いた。その瞳の奥で、何かを手放すような光がふっと揺れた。そしてこう続けた。

「――と、思っていた。でももういいんだ。キーホルダーはなくなったわけではない。ふたつに分かれてしまったが、まだここにある。これがふたつに分かれた事にはきっと何か意味があるんじゃないかって、そう思うんだ。もしかしたら、お母さんがこれをふたつにしたのかもしれない。

 その意味が何かは分からないけど、それに気付けたとき、私はきっと、もっと強くなれる気がする」

 姫木さんは優しい表情で、キーホルダーを見つめた。

「だから進藤、キーホルダーの事はもういい。だが、練習ではいままで通り厳しくいくぞ」

 喉が詰まった私は声が出せず、咄嗟にこくりと頷いた。そして小さく、「ありがとう……」と絞り出した。


 その後、帰りのタクシーの中で、私はひとつ気になっていたことを姫木さんに聞いてみた。

 それは、あの時、私を助けてくれた時に言っていた言葉。


「……あんなに筋トレをやった後に素引きするやつがあるか」


 と言っていた事だ。筋トレを終えて素引きに入るまで、一時間近くは空いていたはずなのに……何故、わたしが筋トレをやっていたことを知っていたのだろう。

 すると、窓の外を見ていた姫木さんはこちらに顔を向け、こう言った。

「みんなが帰る中、進藤だけ戻っていったのが見えたんだ。だから、気になって後を追った」

「え……」

 まさか、見てたなんて……。

 姫木さんが、私のことを何か不審がって追ってきたんじゃないかと一瞬ヒヤッとしたけれど、次の言葉で不安は吹き飛んだ。

「今日、また落ち込んでいるように見えたからな。心配になっただけだ」

 姫木さんはそれだけ言って、つまらなそうにまた窓の外を見た。


 それがあまりにストレートで、まっすぐで。

 その言葉だけで、私の中の「辛く当たられた記憶」が、じんわりと書き換えられていくのを感じた。

 ……なんかもう、顔が熱い。

 タクシーの冷房がちょうどいいくらいで、助かった。



 * *  *



 例の件から三日が経った。

 頬に貼られた大げさなガーゼは、未だに外せていない。薄く剥がすだけでも、青紫に腫れた肌が覗いてしまう。

 真実を言うと、一時部活動禁止などという罰則があるかもしれないので、私は「自宅の階段から転げ落ちた」と嘘をついている。しかし、ミニ大会へ向けた猛練習が姫木さんのスパルタによって行われているせいか、頬の腫れは「姫木さんのスパルタで殴られた説」が地味に広がりつつあった。


 ――誤解ではあるけど、否定はしないでおこう。


 そんな頬の痛みに耐えつつ、今は姫木さんに射型を見てもらっている。

「だめだ、戻せ」

 会まで引いたところですかさずストップがかかる。

「右肩が詰まっている、もっと引き分けてくるときから上と横に伸びてこないと。それに大三が大きすぎる、そんなんじゃ引き分けてくるときに捻れが逃げるぞ」

「う……うん、もう一度、やってみる」

 “捻れ”――「捻り」ともいう。弓を引く時に、左手の親指の付け根辺りの皮や肉が弓の圧で巻き込まれ、捻れていく。その事だ。そのおかげで、弦が顔や腕に当たらずに済む。……らしい。

 わたしはまだ顔や腕を打ったことはないけれど、上戸さんはたまにやるらしい。その左手の腕の腹を見せてもらったら、綺麗な透き通った肌に、明らかに場違いな、青紫色に変色した楕円形のアザが浮かんでいた。

 上戸さん曰く、

「マジいてーから」

 そのちょっと訛ったような尻上がりのイントネーションと、上品な見た目のギャップがすごくて、思わず笑ってしまった。


 そこでみっちり射型を磨かれ、四立の計十六本を引いた。結構、的近くに集まってきている気はするけど、やっぱり中らない。

 でも、気にしないことにした。それは、姫木さんにこんなことを言われたからだ。

「中らなくていい、的中なんて、矢が飛んだ先に的があったってだけだ。射型を大事にしろ、的中はついてくる」

 それ以降わたしは、的中よりも射型に拘ることにした。

 すると不思議なもので、他の人が引く動画を見る際に、前まではバシバシ中ててる人がかっこよく見えていたのに、今では中ててなくても射型が綺麗な人の方がかっこよく見えてきた。わたしも、中らなくても「見て、分かる人には分かるかっこいい人」になりたいと、そう思った。



 * *  *



 週末、時計の針が十六時半を指したころ、佐藤先輩の号令が控室に響いた。

「第二回ミニ大会、はじめるよー!」

 その声に、部員たちがぞろぞろと集まってくる。

 私は、先週の大会でひどい有様だった記憶を思い出す。でも今日は、心が違っていた。

 今の私には、明白な目標があった。ただ参加してただ引くだけの、あの時のわたしとは違う。そしてそのしっかりとした目標があるだけで、こんなにも胸を張って参加できている。

 中てなくていい……わたしは今日、この部員の中で誰よりも、綺麗な射で引ききりたい。それが、今日の目標だ。



「始め!」

 佐藤先輩の号令で一斉に射位に進む。

 一回戦目は吉高先輩と白井さんペアの『静かなる者たち』。現在一位のペアだ。

 緊張はしている。でも、それ以上に心が落ち着いている。

 早くみんなに、自分の射を見せたい――そんな気持ちが湧いてくる。姫木さんに「及第点だな」と言ってもらえた射。それを胸に、私は堂々と立てる。


 一本目。ゆっくりと息を吸い、吐く。

 教わった通りに打起こし、肩に力が入らないように気を付けて、大三、そして引分け。

 ……心がざわついていた。でも、動作だけは丁寧に、冷静に。

 ――離れ。

 矢は、的の前、安土に突き刺さった。

 よし、飛んだ……! 矢飛びもしっかりしている。

 その事実だけで、少し胸が熱くなった。


 二本目。

 今度は、少しだけ余裕があった。さっきよりも体が軽い。まったく違和感なく引けている。

 心を深く沈み、五感を研ぎ澄ます。引くのではなく、肩甲骨を寄せる――離れ。

 矢は、一本目のすぐ下あたりに刺さった。

 矢がどこに飛ぼうが、今のわたしには関係ない。今は、射型にのみ集中するだけ。

 後ろをちらと見ると、姫木さんは「それでいい」と私にしか聞こえないくらい小さな声で答えてくれた。


 三本目。

 毎日、鏡で何度も確認した動作をなぞるように――弓手を押し、馬手(右手)を返す。

 ビュン、と風を切る音。

 矢は、的の上を超え、安土のやや奥へ吸い込まれた。

 深呼吸する。心をもっと落ち着かせる。

 今この射場に、まるで自分しかいないみたいに、静かに、心を……。


 そして四本目、打起し、大三、引分け。

 体の隅々まで神経を巡らせ、矢が口割に届くと、ピタリと止める。狙いを定め、全方向へと伸びきったとき――


 ――中らなくていい。的中なんて、矢が飛んだ先に的があったってだけだ。


 姫木さんの言葉が、頭の中で静かに響く。


 そして、離れ。


 時間が、ゆっくりと流れていく。

 矢が、弓に沿って放たれていくのが見えるほど、ゆっくりと。

 やがて――現実の時間が戻った。

 矢は、鋭く空を切って一直線に――



 ――パアアアアアアン!!



「……っ!!」



「はぁ……はぁ……」

 残心の中、しっかりと見届けた。


 たしかに、その矢は――。


「おい進藤……」


 呼ばれて振り向くと、姫木さんが、優しくコクリと頷いた。


 もう一度的を見る……。

 ――間違いなく、的に刺さっていた。


 わたしは天井を仰いだ。

「うっ……やった……やっと……ひぐっ……」

 涙が込み上げてくる。仰いでいても、堪えきれずにこぼれた。

 それでも声が出た。

「やっ……たあああああ」

 泣きながらに力なくそう言うと、ミニ試合中なのにみんなが駆け寄ってきてくれた。

「進藤弓さん……やりましたね……! わたくし、胸がドキドキして心臓が二回跳ねました……!」

 浜本さんが目を潤ませて言ってくれた。

 前の射位で引いていた対戦相手の吉高先輩と白井さんも、こちらを振り向いて、胸元で握り拳を作って見せてくれた。


 なんとその試合、二立目も中てることができた。それも「×〇×〇」(左から順に一本目→四本目)の二中だ。



 最終的に私は、三十二射九中という成績を残した。数字だけを見れば大したことはない。けれど、私にとっては、間違いなく、奇跡だった。



 * *  *



 三週目も全力で駆け抜けたが、結果はわたしたち片翼チームが総合三位だった。わたしが足を引っ張る形となってしまったけど、姫木さんは「まあ、進藤だからしかたない」と、ちょっと冷たかった。けれど、これは彼女なりのフォローなのだと受けとった。

 この三週間、私は本気で食らい付いた。弓手の豆は潰れ、親指の付け根は割れて血が出ている。でもこれは、わたしが「本気でぶつかった証」だ。


 射場に座って、その手を見ていたとき――。

「進藤、待たせた」

 姫木さんが来て、隣に腰を下ろした。

「この三週間、進藤はよくやった。射型だってかなり良くなってきたからな。これから、もっと良くなる」

「それなら嬉しいんだけどね、どうかな、良くなるかな」

 わたしは照れつつ、そして頭をかきながらそう答えた。

「ところで進藤、これ……受け取ってくれ」

 そう言って姫木さんの差し出してきた手のひらには、例の“ふわたんの体”のキーホルダーが、転がっていた。

「え、そんな大事な物受け取れないよ!」

 これは姫木さんと、姫木さんのお母さんの大切なキーホルダーだ。わたしなんかが持っていていい物ではない。しかし姫木さんは、まっすぐにわたしの目を見つめて、静かに口を開いた。

「進藤に見てもらいたい景色がある」

「え……景色?」

 姫木さんは手のひらのキーホルダーを見つめ、静かに続けた。

「ああ。わたしもまだ、見たことのない景色だ」

 姫木さんが呟くように言ったそのセリフの意味は、直接的には分からないけど、ただその景色が「ものすごい場所」だということは容易に想像ができた。中体連で全国優勝の経験がある彼女ですら、見たことのない景色……。

「その景色って……具体的に言うと……?」

 わたしがわざと訝し気な表情で聞くと、こう答えた。

「それはまだ言えない。身構えられても困るからな。ただ、そこから見える景色は、きっと想像も出来ないくらいに美しいはずだ。わたしもその景色を目指すが、進藤にもぜひその場所に立って、その景色を見てもらいたいんだ。この三週間、君の努力を見せてもらった。そのくじけない心があれば、行けると思ったんだ」

 そう言って、キーホルダーを月に透かしながら、さらに続けた。

「このキーホルダーは、その場所へ一緒に行くという、約束のキーホルダーだ。無理にとは言わない……非常に大変な道のりになるだろうからな……」

 姫木さんは柄にもなく、半ば口ごもりながら言った。

 わたしはひとつ深呼吸して、その手のひらのキーホルダーを奪った。

「わたしね、姫木さんに言われたことで、すっごく嫌なことがあったの。でもそれを撤回してくれとかじゃないの。わたしは、そのお陰でここまで来られた。これからも、その言葉があるからこそ走り続けられる。そしていつかその言葉を、わたしは胸を張って言えるようになりたい!」

 それはきっと、三年生のときに言えるようになっている言葉なのかもしれないし、その時にもまだ言えるほど成長していないかもしれない。けれど、このキーホルダーを持っているだけで、途中で“降りる”理由をなくせるんじゃないかと思った。

 そして私からもこう提案した。

「……ねえ、このキーホルダー受け取る代わりに、逆に約束してもらってもいい?」

「……一体、何を約束するんだ?」

 姫木さんは少し驚いた様子でこちらを見ていたが、お構いなしに続けた。

「その景色を見るまで、絶対に、途中で諦めませんって、約束してくれる?」

 わたしがそう言うと、姫木さんは「ふふ」っと含んで「当然だ」と微笑んで見せた。

 そして立ち上がって腕組みをすると、月を見上げてこう言った。

「わたしが何かを諦めるということはない。目標を立てたら、実現するまで続けるからな」

 それから、少しだけ表情を緩めて、わたしの方を見た。

「そのキーホルダーは、矢筒に付けておくといい……下手でも中るようになるからな」

 私は頷き、そっと矢筒に取り付ける。

「それ、付けたら最後だぞ。“本気で指導してもらいます”っていう契約でもあるからな」

「うっ……もう遅いんですけどぉ!」

「おい進藤、前歯がないぞ!」

「それは今度歯医者いくのぉ!」


 夜風が、私たちの笑い声をそっと運んでいった気がした。


 ――これから、きっと何度もつまずくだろう。迷って、泣いて、諦めたくなることもあると思う。

 でもそのたびに、このキーホルダーがここで揺れてくれていたら、わたしはちゃんと、前を向ける気がするんだ。


 矢筒に付けたキーホルダーを見て、嬉しくなってつい頬が緩む。


 ……それはまるで、わたしの矢に乗り移った“おまじない”みたいだった。




第三話「約束のキーホルダー」後編  終わり


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