道場に着いて、一年生全員で準備を始める。
先輩たちは特権かどうか分からないが、荷物を置いた場所で座り込んで「暑いー」だ「今日二限目にさー」だの、買ってきたジュースを飲みながらお喋りに興じていた。
吉高先輩はそんな先輩たちにはまざらず、私たちと一緒に準備をしてくれている。
そんな中、不意に佐藤先輩の一言が耳に飛び込んできた。
「そろそろ市内大会に向けて練習する?」
市内大会……。そんな大会があるのか。いつあるんだろう。
ミニ大会しかやったことのない私にとって、弓道の試合はとても興味深かった。どういう雰囲気で引くのか、入退場はどのようにするのか、人数はどのくらいの人に見られるのか。
「大会って、いつあるんですか?」
弓巻きから弓を出しつつ、どの先輩ともつかず辺りを見渡すように尋ねた。
すると褐色肌の高柳先輩が教えてくれた。
「今度の日曜だよ」
「え……そうなんですね……」
今度の日曜って、もうあと五日しかないじゃん……間に合うのかな?
そんな私の気持ちを代弁してくれたのが、斎藤さんだった。彼女の素っ頓狂なキャラなら、何を聞いても嫌味っぽくならずに済む。
「先輩、今度の日曜に試合なのに、わたしたちにミニ大会なんてさせててよかったんですか?」
佐藤先輩はそれを聞いて「おー痛いとこつくねー」と笑っていた。そしてこう続けた。
「まあ、間に合うか間に合わないかで言ったら……全っ然間に合わないねー」
あまりにあっけらと答えるものだから、私は「えええ! 駄目じゃないですか」と笑いながら言って見せた。すると高柳先輩が静かに口を開いた。
「市内大会は国体の予選になっていて、勝ち進んだところで県大会で終わってしまう。無理に調整するより、総体に備えた方がいいんだよ」
なるほど、文化部とは違って、体を使う部活というのはそういうところにも気を付けていないとダメなのか。確かに、今私の左手は大きな豆が割れて、弓を引くと血が出てしまう。時間の許す限り練習すればいいってわけでもないらしい。
話を聞くと、市内大会は、総体の“練習”的な位置づけということだった。総体は六月の半ばにあるので、約二週間後ということになる。
市内大会は普段私たちが使用している、この道場で開催されるらしい。
* * *
市内大会当日。
結局先輩たちは“ほどほどに”しか練習をせず、試合前だからといって特別な練習はしていない様子だった。主に私たちの指導につき、先輩たちは数回試合形式で立に入る程度だった。
そして今、私たちが普段使用している道場は、溢れんばかりの高校生たちでごった返していた。控室に入り切れず、外でレジャーシートを広げてそこで控えている人たちもいる始末。
……弓道の試合って、いつもこんな感じなのかな。
率直にそう思った。すると斎藤さんと上戸さんが偵察から帰ってきた。
「マジすげー人だな……もう帰りたい」
上戸さんは静かな表情で、サラリと言った。
相変わらず言葉遣いがすごい。見た目はほんとに色白で上品なのに。いい意味なのか悪い意味なのか、どちらにカテゴリされるのかは分からないが、彼女自身が“人は見た目じゃない”の代名詞ともいえる。
「いやーほんとにね。いつもは私たちしかいないから、なおさらだよね。ここに来てる人たちはこの光景しか知らないだろうから、こんなもんって思ってるかもだけど」
斎藤さんは、若干垂れている愛くるしい目を、丸くしながら言った。
今日の試合は十五時終了予定なので、お昼時はみんなここで食事をするのかと思うとぞっとする。とてつもない匂いで充満しそうだ。
そして開会式が終わると、早速試合が始まった。
射場には五人チームが二組ずつ入り、行う形式だった。
入口から厳かに、摺り足で一人ずつ入場する。普段矢上げの際に使用する、芝生横の通路に人だかりができている。私も、人と人の間に体を滑り込ませ、その中に入った。
人の会話は若干聞こえるものの、会場全体は静かな雰囲気だ。私の経験してきた、陸上部の会場とは正反対だ。改めて、“集中”が大切な競技なのだなと思わされる。
誰かが中てる度に、同じ高校だろう人たちが「よしっ!」と声を発して、三度「パンパンパン!」と手を叩いていた。私も教わっていた“応援”だ。学校によっては、発生しかしないところもあるようだった。
しばらく見ていると、姫木さんが隣に来た。そして矢上げ道のへりに頬杖をついて、引いてる人を眺めている。やはり、つまらなそうに。
そしてある人が矢を放った直後、矢が飛んだ先も見ずに、
「……前」
と呟いた。
的の方を見ると、たしかに的をかすめた矢は、前に刺さっていた。
「え、どうして分かるの」
私が聞くと、姫木さんは射場を見たまま答えた。
「その人の射型と、離す瞬間を見ていれば大体分かる。逆に、それを見たうえで、予想したところとは違う場所に飛んだら、そこにその人の問題があると言える」
そう言って姫木さんは、私をちらと見て続けた。
「人の射型を見て学ぶ……見取り稽古って言うんだ。進藤もやってみるといい。人がどんな射型で引いているのか、その人がどこに飛ぶのか、何故そこに飛んだのか、しっかり考える事で“知識”として身に着く」
……見取り稽古、か。わたしもやってみよう。
そうして人が引くのをしっかりと、考えながら見てみた。……が、ただ単に、“引いて、離している”としか脳が認識してくれず、どこがどうなってそこに飛んだかなんて分からなかった。
しかしそれじゃあ駄目だと思い、まずは人の射型で気になるところをひとつずつ挙げてみる事にした。
……あの人は、左肩が詰まってる、のかな? という事は、どうなんだろう?
そう思って見ていると、その人の矢は上に抜けた。
「今の人は、左肩が詰まってたから、上にいったの?」
そう聞くと、姫木さんはこちらを横目で見ると、ニヤッと口の端を持ち上げた。
「しっかり観察してるな。でも、肩が詰まってるから上に飛んだんじゃない。どこに飛ぶかの判断は、離す瞬間が特に重要だ。今の人は“突き上げ”だな」
「……突き上げ?」
「ああ、離す瞬間に弓手が真っすぐ押せず、上に上がるんだ。離れのタイミングで矢の先端が押されれば上、尻が押されれば下に飛ぶ。射型や離れ方によっても一概には言えないけど」
――なるほど、実際に左手を上に突き上げる仕草をしつつ想像する。いつの間にか姫木さんの隣にいた浜本さんも、同じ様なジェスチャーをしながら一生懸命メモをとっていた。
離す瞬間が特に重要……か。よく見ておこう。
その後もしばらく見ていたが、なかなか自分の予想通りにはいかなかった。
しばらく見ていると、姫木さんがまた呟いた。
「三宅先輩……」
「え?」
姫木さんの視線を追うも、射場には十人の選手がいるため誰のことを指しているのか分からなかった。
改めて聞いてみる。
「三宅先輩って?」
すると姫木さんが教えてくれた。
「あの後ろのチームの、落に入っている人だ。三宅美玲(みやけみれい)って言って、私が中一の時、私をいじめていた人だ……」
え……姫木さんって、いじめられてたの? そう思い、詳しい話を聞きたかったが、姫木さんがあまりに険しい表情をしていたものだから聞けなかった。
「わあ、来ました!」
浜本さんの声で射場の方を見ると、佐藤先輩が摺り足で入口から入ってくるところだった。続いて、矢田先輩、高柳先輩、大塚先輩、そして、桜井先輩。普段は見ないような真面目な面持ちで、ゆっくりと入場してくる。
それぞれ、射位の手前に準備されていたパイプ椅子に腰を下ろすと、アナウンスが流れた。
「起立! 始め!」
その号令がかかると、そこに並んでいた十名が一斉に射位へと進む。
御前の佐藤先輩が矢を番えて、ゆっくりと打起す。引き分けて会に入ると、佐藤先輩だけ時間が止まっているように感じる。
佐藤先輩は会が長い。離すタイミングがつかめず、会を長く保ってしまうタイプで、こうした状態は“もたれ”と呼ばれる。一方で、会に入るとすぐに離してしまう人は“早気(はやけ)”と呼ばれ、調子がいい時に中り癖がつくと、会を持つ前に離す癖が定着してしまうという。以前その話を聞いた時は、「だったら、ずっと会を持っていればいいのに」と簡単に思ったが、どうやらこの早気、直すのは相当難しいのだそうだ。
しばらく会を持ち、後ろの矢田先輩が会に入る頃、佐藤先輩の矢が放たれた。
ビュン、という乾いた音が空を切る。
パアン! という快音が聞こえると、矢上げ道に集まっていた開進のメンバーで“応援”の発声をし手を叩く。続いて二番の矢田先輩も快音を響かせる。
「……矢田先輩、最近調子がいいな」
姫木さんがぽつりと呟いた。
矢田先輩はこのところ、練習でも皆中を連発したりと絶好調だった。「弓道人生で一番の仕上がりかもー」と、豪語していただけはある。
続いて“中(なか)(五人チームの真ん中)”を務める高柳先輩、それから落ち前を務める大塚先輩も、的中させた。
そして最後の桜井先輩。御前から落までの人が全員中てた場合、“通し矢”と言って、皆中と同様に会場から拍手を貰える。それだけ重要な一本となる。
桜井先輩が会に入ると、会場がひときわ静かになった。全員が桜井先輩に注目しているのだろう。緊張のはりつめる中、私だったらとてもじゃないけどプレッシャーに押しつぶされてしまうなと、勝手に妄想していた。
桜井先輩は練習中も、波のない結果を出し続けていた。どんなに調子が悪くても四射二中止まりで、それ以下の結果は見たことがなかった。ここも当然、中ててくれるはず。そして離れ。
――パアン!
的を射る音が会場に響き、そこにいる皆から拍手が送られた。通し矢成功である。私たちも喜んで拍手を送った。
あまり練習していなかったのに、先輩たちって、結構すごい人たちなのかも? と密かに感じていた事は秘密だ。
その立は五人で二十射十四中と、まずまずの結果となった。
そして二立目は姫木さんが入ることになった。立ち位置は“中”だ。私の勝手な想像ではあるが、この立に姫木さんを入れたのは、少しでも早く、高校の試合の雰囲気に慣れさせようということなのかなと、そう思った。
姫木さんが入場してくる姿を見ていると、改めて彼女が“かっこいい”と思わされる。五人の中で一番身長の高い彼女は、多分“落”に立った方がバランス的に落ち着くのではないかとも思ったが、立ち位置での仕事もあるから、見栄えは二の次三の次なのだろう。
――姫木さん、頑張って。とそう思った時少し離れたところから声が聞こえた。
「へぇ、姫木出してもらえたんだ……一年のクセに」
そちらを見ると、先ほど姫木さんが言っていた、三宅さんとかいう人がそこにいた。何やらいけ好かない取り巻きと一緒に、ほくそ笑んで射場を見ていた。私はちょっとムッとしたが、当然何も言えずに聞き耳だけ立てていた。
すると聞きなれた、少し高い声が聞こえた。矢田先輩だ。
「三宅……まだそんなこと言ってんの」
「あらあら、矢田ちゃん、そんな怖い顔して、フフフ」
三宅さんは、あからさまに矢田先輩を挑発するような口調で笑った。どうしても気になり、ちらとそちらを見ると、声は笑っていたのに、三宅さんの目はまったく笑っていなかった。背筋に冷たいものが走る。
そして次の三宅さんの一言で、矢田先輩の視線が一瞬怯えた。
その声は今までよりもずっと低く、その微笑む唇の奥に、鋭い何かを隠している様に感じた。
「また姫木の事庇って……また、あの時みたいに痛い目見たいの?」
第四話「交わした指の先で」前編 終わり