道場の時計が十五時を指す頃、射場では表彰式が行われていた。私たち開進メンバーは誰も表彰されることなく、矢上げ道からその様子をじっと見つめていた。
そしてその優勝チームは、あの三宅さん率いる「黎誠(れいせい)工業高校」だった。
矢田先輩をちらと見ると、その表彰式をただじっと、睨みつけるように見ていた。姫木さんを見ても、やはり静かにその様子を見つめているだけだった。
それにしても、あの時の三宅さんの言葉が気になる……。
――また姫木の事庇って……また、あの時みたいに痛い目見たいの?
あの後、矢田先輩は舌打ちをしてその場を離れていった。
三宅さんと矢田先輩、そして姫木さん。三人の間には、一体どんな因縁があるのだろう。たぶん、中学生の頃の知り合いだろうけど……とても気になる。
矢田先輩が、姫木さんの事を庇っていたなんて、今の矢田先輩の態度からすると想像も出来ないことだ。しかし三宅さんは確かにそう言っていた。
そんな事を考えていると、頭を“ぽかり”と何かに叩かれた。
「行くよ」
白井さんだった。持っていたペットボトルで叩かれたようだ。
わたしは頭を撫でつつ、最後尾からついていく。
表彰を受けないほとんどの選手はすでに帰っており、控室は、午前中と比べると少し寂しくなっていた。
先輩たちは、各自の弓と矢を片付け始めた。私たち一年生も手伝う。すると佐藤先輩がこんな事を言った。
「えーと、練習したい人はしてもオッケーだよ。私は少しするけど、一年生もしといたがいいんじゃないかな」
試合が終わってそのまま練習するなんて、佐藤先輩って、意外とストイックなんだな。素直にそう思った。
その言葉に弓を射場に持って行ったのは、一年生メンバーと吉高先輩、三年生は、桜井先輩と矢田先輩、それから高柳先輩だった。主に今日の大会のメンバーだったが、大塚先輩は「あたしは疲れちゃったからいっかなぁー! あははは!」と、隣にいた武田さんに向かって言っていた。
武田さんは少し驚いた様子で、「そ、そうですよね、疲れてますよね」と引きつった笑顔で返していた。
そんな様子を見守るように眺めていると、唐突に声を掛けられた。
「進藤、スニーカーは持ってきているか」
姫木さんだ。
「う、うん、どうして?」
「走るぞ」
そう言って姫木さんは控室の扉のところへ行くと、靴を履き始めた。
「ちょ、ちょっと待って」
追いかけて外へ出る。わたしが靴を履いている頃には、姫木さんはもう門のところで準備運動をしていた。
「ね、ねえ、どこ走るの?」
「花岡山だ、登るぞ」
「え、えええ!!」
一度だけ、家族で登ったことはあるが、あの時は車だった。あの急こう配の道を走る……うそでしょ。
わたしも仕方なく準備運動を始め――たと同時に、姫木さんは突然走り出してしまった。準備運動をそのままに、わたしはわき腹を伸ばした状態で、姫木さんの背中を急いで追いかけた。
曲がりくねった急こう配に加え、この五月後半の暑さである。真夏と比べるとまだまだ涼しい方なのかもしれないが、今のわたしにとっては今日が真夏日である。めちゃくちゃ暑い。ものの数分で背中にじわりと汗が浮き出してきた。登りきるころには汗だくだろう……。
姫木さんを必死に追いかけていたが、呼吸は追い付かず、血の上った頭が熱い。中腹あたりで、ついに足が止まった。
前方を駆けていく姫木さんは、相変わらず軽やかなフォームで、まるで跳ねるように坂道を進んでいく。――すごい。体力が桁違いだ。
見る間に、その姿は遠ざかり、はるか先のカーブを曲がって消えてしまった。
胸の奥が痛む。息が焼ける。頬も走る振動で打たれてじんじんする。それでも、
ふうっとひと息ついて、地面を蹴った。まだ、終わってない。
結局、登りきるまでに四十分を要した。走ったり歩いたり、立ち止まったり。
道路は舗装されているが、古い道のせいででこぼこしている。無意識に、足を着く場所に気を使っていたせいか、呼吸が整っても、異常な疲労感に襲われた。
姫木さんは「遅かったな、途中で帰ったかと思ったぞ」と、涼しい顔で言った。そして続けた。
「進藤、こっちへ」
呼ばれて姫木さんを追うと、走ってきた道路に直接繋がる大階段の方へ出た。そこから見える景色は、とても気持ちのいいものだった。
ここから見える自動車はおもちゃみたいに小さくて、どこか遠くで点滅する赤いぽちぽちも、なんだか博物館にあるジオラマの様に感じた。
走っているときは暑く感じていたけど、ここに立つと涼しい風が体を撫でていく。気持ちがいい。わたしはそこで大きく深呼吸をした。大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。体の中から浄化されていくのを感じる。
姫木さんはこちらを見て微笑んだ。
「気持ちがいいだろう。わたしはここが好きでな、たまに登るんだ」
「へえ、すごいね。だからすいすい登れてたんだね」
「ここを登ったのには理由がある。体力をつけることと、もうひとつ、弓道でとても大事なことだ。なんだと思う」
そう聞かれて、わたしは脳内をフル回転させたが、まったく浮かばなかった。姫木さんは「お前は何も考えずに引いているんだな」と、わたしの目をまっすぐに見て言った。ちょっと、ムッとしたが、そのまま姫木さんの言葉に耳を貸した。
「進藤、後ろを向いて、胴造りしてみろ」
そう言われ、体の向きを変えて、足を肩幅まで広げて見せた。
「はい、で?」
わたしがそう言うと、姫木さんは腰辺りをぐっと押してきた。私はいとも簡単に、足を一歩踏み出した。
「全然だめだ、それはただ足を広げているだけだ。胴造りは、両足で地面を掴むように、しっかりと支えるんだ。つむじから真っすぐ伸びて、心気を、ここ“丹田”におさめるんだ」
そう言っておへその下あたりをぐっと押してきた。そしてこう続けた。
「胴造りがしっかりしていると体がぶれない、だから最後の一押しも、離れも、思い切りやってもぶれないんだ。わたしを押してみろ」
そう言われて、姫木さんの腰を押してみた。
「――っ」
冗談でもなんでもなく、本当に動かない。思い切り押せば動くに決まってはいるが、普通に「このくらいで押せばバランスを崩す」というくらいの力か、それ以上に強く押しても、姫木さんの上体は少し揺れるだけで、下半身がしっかりと支えていることが押す手に伝わってくる。
姫木さんは振り返り言った。
「普段部活の筋トレでもスクワットがあるだろう、これの為だ。足腰を鍛えて、胴造りをしっかりとするんだ。走り込みも、本当は毎日やったほうがいい」
「え、毎日?」
「ああ、毎日だ……継続は力なり、だ」
「できるだけ、やってみるよ……」
わたしがそう言うと、姫木さんは無言で大階段に腰を下ろした。
その隣に、そっと並ぶように腰を下ろす。
ふたりの間に、風が抜けた。
街はまだ出たばかりの淡い夕陽を浴びていて、ジオラマの車や信号機の光は整然と瞬いている。
無言の時間が、数秒。けれど妙に長く感じられた。
わたしはふいに、姫木さんの横顔を見た。夕焼けに照らされたその頬が、少しだけ赤く染まっている。――今なら、聞けるかもしれない。
「ねえ、姫木さん。……答えたくないなら、いいんだけど」
わたしがそう前置きをすると、姫木さんは、
「なんだ? 何でも聞いてくれて構わないぞ」
と、身構える事もなく答えた。わたしは包み隠さず、聞きたかった事をそのまま伝えた。
「今日さ、矢田先輩が、三宅さんと話しているところ見ちゃったの。て言うか、その会話が聞こえちゃっててさ……」
「そうか、あの二人が話していたのか。どんな事を話していたんだ?」
姫木さんは、街並みからわたしへと視線を移した。
「三宅さんが……“姫木のやつ一年のクセに出てるのか”みたいなこと言ってて、それを聞いた矢田先輩が“まだそんなこと言ってんの?”みたいにつっかかてたんだ。それで、三宅さんが、“また姫木の事庇って”って言ってたの。矢田先輩と姫木さんって、中学が同じとかだったの?」
今日の出来事を、一生懸命思い出しながら伝えた。すると姫木さんは、ひとつため息をついてこう答えた。
「その通りだ。矢田先輩は、私と同じ中学の弓道部だったんだ。だが……三年生の時、中体連直前で、矢田先輩と三宅先輩は――退部した」
「え……」
思わぬ返答に、言葉が出なかった。姫木さんは続けた。
「……私のせいなんだ。今日話しただろ“私が三宅先輩にいじめられてた”って。私が中一の時、入部してすぐに、私は三宅先輩の標的にされたんだ。私は見ての通りこういう性格だ。それが気に食わなかったのだろう」
姫木さんは少しだけ、その目に影を落とした。
「私に対してあからさまに嫌味を言ったり、弦を切られたり、私が掃除当番の時、掃除したばかりのトイレを泥だらけに汚された事もあった。正直辛かったよ。同級生どころか、顧問でさえも見て見ぬふりだったからな」
姫木さんのいじめは、わたしが想像するよりもずっと酷いものだった。話をきいているだけで胸が苦しくなった。
「……弓道部全員、三宅先輩に釘を刺されていたんだと思う。“姫木と仲良くするな”ってね。そんな時、矢田先輩だけは私の味方でいてくれたんだ。部活中でも私をチームに誘ってくれたり、射型を見てくれたりな。とても嬉しかったよ」
影を差していた表情から、少しだけ、姫木さんの頬が緩んだ。しかしすぐに、目を伏せた。
「そしてある日、私は直接的に三宅先輩に危害を加えられたんだ。部活が終わってみんなも帰った後で、私も帰ろうとしていた時、三宅先輩の呼ぶ声を無視していたら……」
姫木さんはそこまで言うと、手をぎゅっと握りしめた。そして喉の奥に詰まらせた言葉を、まるでこじ開けるように引き出した。
「……トロフィーで、殴りかかってきたんだ。取り巻きの二人もグルになってな。私が部室からなかなか出てこなくて、気付いた矢田先輩が止めてくれたが、体中アザだらけで、両腕はしばらく痺れて使えなかった」
「……」
姫木さんにそんな過去があったなんて、思いもよらなかった。
姫木さんは唇を噛みしめ、苦悶の表情を浮かべた。その目の向こうには、間違いなく“その日の幻影”が映っていた。そして更に続けた。
「そしてその時に、立てない私に向かって、矢田先輩はこう言ったんだ……」
――ピンチになったら、飛んできてあげる。わたしがあんたの事、ずっと守るから。
「ってな。でも、迷惑かけるのは嫌だったし、そんないい人を私のいじめに巻き込むわけにはいかないと思ったんだ。そう伝えたら――」
――じゃあ、わたしがピンチの時助けてよ。それならいいでしょ!
「そう言って、小指を出してきたんだ。私は嬉しくて、胸が熱くなって、“この人についていこう”って決めたんだ。そして、そこで指切りをした。窓から射す夕日が眩しくてな、矢田先輩がヒーローみたいに見えたんだ……最高にかっこよかったよ」
姫木さんは俯きつつも、優しく微笑んでいた。そんな姫木さんの顔を見ながら、私は率直な疑問を口にしていた。
「それなのに、どうして矢田先輩はあんな風に……」
私のその言葉に、姫木さんはまた、表情に影を落とした。そしてゆっくりと口を開いた。
「……六月のはじめだった。梅雨入り前の、蒸し暑い日だったと思う。あの日もまた、三宅先輩に絡まれていた私を、矢田先輩が助けてくれたんだ」
少しだけ、姫木さんの指が震えているように見えた。
「もみ合いになって、矢田先輩と三宅先輩は倒れたんだが、そのままコンクリートに腕を打ちつけて、矢田先輩の……腕が折れた。すぐに、病院に運ばれて入院したよ」
そこで言葉を切り、姫木さんは目線を落とした。
「“問題を起こした”って事で、先輩はふたりとも……退部になった。三宅先輩は、それ以降何もしてこなかったけれど」
ぽつり、ぽつりと降るような語り口だった。
「……矢田先輩は、退院してから、私と話さなくなったんだ。教室に行っても、廊下で会っても……何度も声をかけたけど、全部無視された」
姫木さんは、声に出さずに息を吐いた。
「しかし、一度だけ、立ち止まってくれたことがある。夕方、昇降口の前で。でも顔は見せてくれなかった。背を向けたまま、こう言ったんだ」
少しの沈黙のあと、姫木さんは呟くように言った。
「“あんたのせいで、私の人生、むちゃくちゃよ”――って。肩が、震えてた」
わたしは何も言えなかった。
その場にいたわけじゃないのに、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「中体連にも、出られなかった。夢も、仲間も失って。……嫌われて、当然だよな」
姫木さんの声は、どこか遠くで鳴っているようだった。
「……」
「でも、私は、嫌われたまま終わりたくなかった……だから開進に入学したんだ」
矢田先輩と姫木さんって、そんなに深い仲だったんだ。もっと、今のような境遇に近い間柄なのかと思ってた。
「矢田先輩は、きっと覚えてるよ。指切りのこと」
私のその言葉に、姫木さんは俯き首を振った。
「いや、もう覚えていない。実は一度聞いたことがあるんだ。開進に来てすぐな、“あの時の指切り、覚えてますか?”って。そうしたら、“何のこと? ってかもう私に関わらないで。”ってさ。私のヒーローだった矢田先輩は、もういなかったよ」
静かにそう言うと、今度は調子をつけたように、
「よしっ」
と言い、ずいと顔を寄せて私の顔をまじまじと見つめた。
一体……何なんだろう。わたしは堪らず体を半身引いた。
「笑ってみろ」
「え?」
突飛な注文を受け、ためらったが、まあ、笑うくらいならと思い、ニコっと笑って見せた。すると、
「……前歯はまだ生えてこないのか」
「――っ」
わたしは咄嗟に両手で口を塞ぎ、「ま、まだ歯医者行けてないの! ってかあれ赤ちゃんの歯じゃないからっ!」と返したが、姫木さんは「おとなの歯でちゅか、ふふっ」と笑い、直後「帰るぞ」と淡泊に言って目の前の大階段を降り始めた。
「ちょ、ちょっと待ってよぉ!」
わたしは急いで姫木さんを追いかけた。
……姫木さんは、そうやって無理に雰囲気が暗くならないようにしたんだと、そう感じた。
そして姫木さんが開進に来た理由が気になっていたけど、その理由が分かって少しだけスッキリした。でも新たに、もっと大きな黒い塊が、胸につっかえてしまったように感じた。
* * *
一か月後、総体県予選当日。
総体は市内大会とは違う会場で行われる。北部総合スポーツセンター「黒藤(くろふじ)」という、とても綺麗な施設だ。弓道場も、かつてテレビで見たそれと同じくらい眩い。いつも練習をしている道場とは、見栄えもスケールも桁違いだ。
試合は五人チームで、まずは二立引き、上位十六チームが決勝トーナメントへと進出できる。開進も練習ではかなり仕上がっており、この試合、もしかしたら九州大会への切符を手にすることが出来るかもしれない。……と、佐藤先輩が言っていた。
この一か月、特に気合が入っていたのが矢田先輩だ。弓の重さも一キロ増やし、小柄な体で無理をしているのではないかと佐藤先輩に止められたが、押し通していた。筋トレも基礎練も、人一倍やっていたように見えた。
もしかしたら、中体連に出られなかった分、総体で頑張ろうとしているのかもしれない……。
そして姫木さんへの嫌がらせに関しては、練習に集中したいからだろうか、ちょっかいを出す事は一度もなかった。が、姫木さんが立ち位置的に矢田先輩の物を取ってあげたりする場面では、こちらが目を背けたくなるような、あからさまな無視を決め込んでいた。
……けれどその時、矢田先輩は一瞬、姫木さんの手元を見たのだ。けれど、目線がぶつかる寸前に、すっと逸らした。
無視、というにはわざとらしくて。
本当に嫌っているなら、最初から目なんて向けないはずだ――わたしはそう思った。
そしてそんな矢田先輩の“気迫”は、今朝も変わらなかった。
早朝の最終調整では、四立引いてすべて皆中していた。スタメンに入っていない真鍋先輩は「当日の朝に調子がいいと、試合では中らないってのが、あるあるなんだよねぇー」と、わざと一年生メンバーに聞こえる様に呟いていた。実現しないといいが……。
わたしと真鍋先輩の不安は的中することなく、矢田先輩は本番でも絶好調だった。
予選の一立目は皆中で、二立目は「×〇〇〇」の三中だった。チームとしても予選通過を果たし、次はいよいよ決勝トーナメントとなる。これは本当に、九州大会に進出できるかもしれない。
わたしは、「黒藤」のひとり探検を終え、開進が場所を取っているブルーシートへ戻った。すると、座り込んだ矢田先輩をみんなが取り囲んで騒然としていた。
「ねえ、どうしたの?」
すぐに駆け寄り、近くにいた白井さんに聞いてみた。白井さんは私を一瞥(いちべつ)すると、再び矢田先輩へ視線を戻して言った。
「矢田先輩が転んで怪我をしたらしいよ。今、次の立に入れるか先輩たちが診ているところなの」
白井さんの視線の先にいる矢田先輩は、右肩を抑えていて、その腕はだらんと垂れていた。表情から察するに、相当の痛みらしい。
矢田先輩の目からはボロボロと涙がこぼれ落ちている。
「こ、こんなつもりじゃ……ううっ、くそ」
痛みに耐えつつも、その目はどこか憎しみを帯びているようにも見えた。
そして、矢田先輩を診ていた佐藤先輩が首を振った。
「脱臼しているらしい。早く医務室へ。上手くいけば一回戦目に間に合うかもしれない」
その言葉を受け、矢田先輩は痛みに顔を歪ませ、項垂れつつ立ち上がった。その苦悶の表情に、胸がぎゅっと掴まれた。何かに訴えかけるような、それでいて屈辱に満ちた顔。「私は負けてない」と言いたげな目。その涙の理由は、一体何なのだろう。痛みで泣いているようには見えないし、そもそもそんなにやわな人間ではない。
矢田先輩はそのまま、佐藤先輩と桜井先輩に介抱され連れていかれた。
いつも憎まれ口を叩いている人の弱いところを見ると、何だか複雑な気持ちになる。
みんなで矢田先輩の背中を見つめていると、不意に、浜本さんが、
「あの、わたし……見てしまいました」
と胸に両手を握りしめて、絞り出すように言った。みんなが浜本さんに注目する。
「矢田ゆま先輩は、転んだわけではありません」
言い切った浜本さんは、その時に注目を浴びていることに気づいたらしく、「あ、あの、えと」と急にたどたどしくなった。姫木さんは、浜本さんの肩にそっと触れて言った。
「何があったか、教えてくれるか」
浜本さんはこくりと頷くと、詳細を教えてくれた。
「わたくし、進藤弓さんがどこにいったのかと探して回っていましたら、矢田ゆま先輩の大きな声が聞こえたんです。そちらを伺うと、他校の生徒の方と何やら揉めているご様子でした」
「それって……」
わたしが言うと、姫木さんは、
「ああ、黎誠工業の三宅先輩だろう」
と続けた。
浜本さんは、わたしと姫木さんに目を泳がせると、「それで……これは、言っていいのか分かりませんが、あの、」と何かを躊躇っている様子だった。
大塚先輩が優しく、
「はまもっちゃん、大丈夫だよ、教えてくれる?」
と諭すように促した。
浜本さんは、コクリと小さく頷くと、堅結びしていた口を開いた。
「何やら、姫木さんのことを仰っているご様子でした」
姫木さんは小さくため息を漏らした。浜本さんは続けた。
「わたくしが聞こえた限りでは“文はもう、お前なんかよりずっと上手くなってんだ! 努力し続けた文を馬鹿にするやつはゆるさない!”と、そう仰っていました。いつもは姫木さんに対して辛辣な態度を取っていらっしゃったので、正直驚きました。その時に、お相手の方……黎誠工業の三宅さん、でしたか、あの方が矢田先輩を突き飛ばした拍子に、側溝に足を取られて転んだご様子でした。かなり強めに押されたように見えました」
浜本さんが俯き言い終えると、今度は真鍋先輩が「……そっか」と呟き、姫木さんを見て「姫木さん、ついでだから言っちゃうけど――」と前置きをして言った。
「実は、姫木さんが開進に来るって分かってから、ゆまめっちゃ喜んでたんだ。“わたしを追いかけてくれてたんだ”って……肩震えてたの覚えてる。“今度来る姫木って子、めちゃくちゃ上手いんだ! その子は、わたしの憧れなんだ。”ってね」
一年メンバーは、皆が皆、顔を見合った。「まさか、そんな」と言いたげだった。
真鍋先輩は続けた。
「でもそれと同時に、中学の頃に起きた事件のことも聞いたんだ。三宅って子とのいざこざと、その後のことをね。
それでゆまはこう言ってた。“文は逆境に強くて、嫌なことがあればあるほど頑張る子なんだ。退院してから会った文は、明らかに強くなってた。わたしが甘やかすと、また泣き虫に戻っちゃうから。”って。
……それで、私と三木さんの三人で、姫木さんに対して“敵対関係”になるよう協力してくれって頼まれたんだ」
そうか、だからみんな、矢田先輩の“嫌がらせ”を放置していたのか。
「その代わり、わたしたち三人グループ以外のみんなは、しっかり姫木さんをフォローするようにって言っていたんだ。わたしと三木さんは嫌われ者になるから、それは本当にごめんね。って、何度も頭を下げられたよ」
真鍋先輩は両腕を抱えながら、静かに口を結んだ。
それを聞いた姫木さんは目を瞑り、歯を食いしばっていた。そして言葉を絞り出した。
「違う、そうじゃない」
やっと出た言葉は、しっかりとわたしの耳に届いた。たぶん、みんなにも。
「私は……とても、寂しかった。矢田先輩がいない間、必死で練習したんだ。強くなったんじゃない。ただ、我慢していただけなんだ」
姫木さんは俯いて、唇を噛みしめ続けた。
「中てても、中てても……誰も何も言ってくれなくて。それでも私は、矢田先輩に褒めてもらいたくて……」
薄く開かれた姫木さんの目は、“あの時”の辛さを宿したように、とても切なく潤んでいた。すると大塚先輩が優しく微笑んで、
「それは、ゆまちんに直接伝えてあげなよ。きっと喜ぶからさっ」
と、いつものおふざけモードは一切出さずに、でも少しだけ陽気に言って見せた。
姫木さんが小さく頷くと、ほぼ同時に、「待たせてごめんね」と佐藤先輩たちが戻ってきた。矢田先輩の右肩は、道着の上からでもはっきりと分かるくらいの包帯が巻かれており、さらに三角巾をしていた。その表情は、相変わらず険しい様子を浮かべていた。
「だめだった。肩ははめてもらったけど、どうやら腱も傷めているらしくて、医務室では応急しか出来なかったよ。大きな病院へ行く必要があるみたい」
佐藤先輩は言いながら、ため息をついた。そしてこう続けた。
「そろそろ一回戦が始まる。初戦は黎誠工業だ。市内大会の優勝チームだから、かなり強敵だけど。……ゆまの代わり、どうする?」
三年生たちは顔を見合わせる。補欠メンバーは、真鍋先輩と三木先輩だ。どちらも実力的にも現在の調子にしても、矢田先輩ほどの的中数を出すことは難しいだろう。それは誰もが分かっていることではあった。しかしもう一人の補欠、姫木さんを矢田先輩の代わりに入れることは、躊躇われる様子だった。それはいままで、矢田先輩は姫木さんに対して嫌悪感を抱いていた……ふりをしていたから。
そこで真鍋先輩が、小さく言った。
「ゆま……もう、全部話したよ」
矢田先輩は俯き「ちっ」と舌打ちをする。しかし何も言わない。そして真鍋先輩の「ここは、姫木さんに代わりを――」という言葉を割るように、矢田先輩は口を開いた。
「何を“全部話した”のか知らないけど、そんなやつにわたしの代わりさせたくない……」
顔は上げず、アスファルトに視線を落としたままそう言った。
すると姫木さんが一歩前に出た。そして小さく、
「今度は……私が」
そう言って、小指を出した。――指切りだ。
矢田先輩は俯きながらその小指を見て、「……なに、それ」と鼻で笑った。しかしゆっくりと顔を上げ、姫木さんを見た。真っすぐに。
そして姫木さんは言った。
「今度は、私が守る。……今が、ピンチなんでしょ?」
矢田先輩は唇を嚙みしめた。左手に握りしめた拳は震えていた。そして発した。
「私の代わりは、桜井! あんたよ!」
一同は騒然とした。桜井先輩は既に落としてメンバーに入っている。それなのに……どういう事だろう。すると佐藤先輩が代弁してくれた。
「南央は、もう落で入ってるけど?」
そう、言い終わるが早いか、矢田先輩は被せた。
「分かってるわよっ! 今の私は超絶的に絶好調なのよ、本当は落に入ってもおかしくない! でも今までもずっと二番と落前が多かったから……だから名残で今回も二番ってだけで――」
再び俯きながら声を張り上げ、さらに続けた。
「落は今の私みたいに、絶対に外さない人間じゃなきゃだめなのよ! 初戦は黎誠工業。三宅がいる。
……。」
一度、喉の奥で言葉が詰まった。それでも矢田先輩は、声を絞り出すように叫んだ。
「……、絶っ対に、負けられないのよ……」
その言葉の糸は、半ば切れてしまうんじゃないかと思うほどにかすれていた。そして矢田先輩の次の言葉は、もう泣いていることを隠そうとすらしていなかった。無意識に声だけが出てきているような、風が通るよりも小さな声だった。
「……あや」
ふるふると震える小指を出す。そして――
「……たすけて」
――その頬には、堪えきれなかったしずくが、ぼろぼろとこぼれ落ちていた。
姫木さんは優しく微笑むと、
「……任せて。わたしのヒーロー」
そう言って、指切りを交わした。
姫木さんの頬にも、矢田先輩と同じ、熱いものが流れていた。
そして、初戦のメンバーだけでなく、開進弓道部全員で円陣を組んだ。もちろん矢田先輩も入って。
「姫木さん、掛け声、お願い」
本来佐藤先輩の仕事である掛け声を、姫木さんにウインクで託した。
すると姫木さんは力強く頷くと、すぅ、と息を吸った。そして、いままで聞いたことのないくらい大きな声で覇気を高めた。
「次の立、勝ちに行くっ!!」
「おおーーー!!」
あまりの声の大きさに、周りの人たちの注目を浴びていたが、一切恥ずかしくはなかった。それどころか、こういう仲間たちに出会えた事を、誇らしく思えた。
第四話「交わした指の先で」後編 終わり