円陣を組んだ後、活気をそのままにトーナメントメンバーの四人(佐藤先輩、桜井先輩、大塚先輩、高柳先輩)は控室へ向かった。遅れるように姫木さんと、その横に矢田先輩。そして控えの付き添いという形で、私と武田さんがさらに遅れるように付いていく。
矢田先輩は、口を尖らせて姫木さんを見上げた。
「文、絶対負けないでよね」
姫木さんはまっすぐ見据えたまま答えた。
「ああ、任せてほしい。だけど、戦うのは私ひとりではないからな」
その喋り口に少々背筋が緊張した。そう言えば姫木さんが矢田先輩に直接話し掛けるところは初めて見たけど、まさかこうもずけずけ行く感じとは思わなかった。矢田先輩がどう返すか伺っていると、そんなわたしの疑問を払拭してくれた。
「あんたはやっぱそうでないとね」
矢田先輩は、歯を出してニシシと笑いながら言った。そして続けた。
「文が入学してすぐ敬語だったから、ちょっと身構えちゃったよ」
「……私は例の件からずっと敬語だった」
それを受けて矢田先輩は「ええ! そうだった?」と驚いていたけれど、またすぐに笑っていた。
控室に着くと、他校の選手たちもそこに腰を下ろしそれぞれの時間を過ごしていた。
控室といっても、遠的射場にそう貼り紙がしてあるだけの場所である。その為、特に椅子が準備されたり、各々の場所が指定されたりということはない。この後、二次控え、一次控えと場所を移動していくのだけど、二次控えからは、選手の予備矢を持った顧問しか付いていくことは出来ない。この場所で、いまのうちにしっかりと先輩方のサポートをしなければならない。
わたしは先輩方の矢と弓を集め、矢田さんと分けて持った。先輩たちは皆、目を閉じ、集中を高めているようだった。しかし姫木さんは辺りを見渡し、何かを探しているようだった。
「……どうしたの」
わたしが先輩方の邪魔にならないよう、小声で姫木さんに聞いた。
すると矢田先輩が、姫木さんの肩を揺らした。そして「……文」と言うと、顎でそちらをしゃくった。
その方向を見ると、例の三宅さんが見えた。姫木さんはすぐにすっくと立ちあがると、「矢田先輩も来るか」と言った。矢田先輩は“負けん気”に満ちた表情で頷くと、二人で黎誠高校が控える方へと歩いて行った。
わたしは急いで、持っていた矢と弓を矢田さんに預けて後を追った。一体、何を話すつもりなのだろう。怖いけど、とても気になる。
姫木さんは三宅さんのところへ行くと、背後から声を掛けた。
「お久しぶりです」
三宅さんは振り返り姫木さんを見上げる。そして隣の矢田さんを一瞥すると、ニヤリと歯を見せた。
「あらら、どうしたの矢田ちゃん。そんなんじゃ次の立は入れないじゃん」
すると、そこにいた黎誠の他のメンバーは、三宅さんと一緒になって嘲笑した。矢田先輩は「あんたねぇ!」とむきになったが、姫木さんが手で制した。
「三宅先輩、次の立、うちが勝ったら、もう開進にちょっかい出さないって、約束してくれませんか」
姫木さんが言うと、三宅さんはクスクスと笑った。
「え、あんたらがうちに勝てると思ってるの? ほんと身の程知らずっているんだねぇ」
相変わらずニヤついた顔で、上等でもなさそうに姫木さんを見ている。そして続けた。
「その条件飲んでもいいけど、その代わりうちが勝ったら、姫木……あんた弓道辞めな」
その交換条件に、体を緊張させたのは矢田先輩だった。姫木さんは眉ひとつ動かさない。
姫木さんの弓道人生を賭けた勝負を、個人戦ではなくチーム戦でするのはイーブンではない。しかも黎誠は市内大会で優勝をしていたのだ、三宅さんもそれなりの勝率を確信して言っているのだろうことは容易に伺えた。
矢田先輩は「ちょ、ちょっと文……」と少し焦った表情をしたが、姫木さんは「いいですよ」と即答した。
その返答に、微笑みを浮かべていた三宅さんの頬が一瞬ぴくりと動いた。
そして姫木さんはこう付け足した。
「ただし、どの様な試合内容であっても、勝ち負けに関して一切言い争わない。そう約束してくれますか?」
三宅さんは、肩で笑いながら言った。
「ふふ、なにそれ。もう勝ったつもり? いいわよ、面白くなってきたじゃない。それじゃあ、次の立、よろしくね」
何だか意味を含んだような笑みが憎たらしい。三宅さんはそれだけ言うと、姫木さんに背を向け体を元に戻した。
帰り際に、矢田先輩が姫木さんに尋ねた。
「ねえ、さっきの勝ち負けに関して、って、なんであんな約束取り付けたの?」
姫木さんは、少しばかり口角を持ち上げた。
「チーム戦で私の弓道人生を無理やり賭けさせられたんだ、この取引は平等ではない。だからせめて、黎誠の一人くらいには、死んでもらう」
「……どういう事よ」
「まあ、見ていれば分かる」
そう言うと、姫木さんはわざとらしく肩をすくめてみせて、ぽつぽつと歩みを進めた。
姫木さんが一体なにを企んでいるのか、とても気になる。
姫木さんが開進の控えに戻るより先に、わたしも戻り、何食わぬ顔で姫木さんたちを迎えた。
「あ、あれ、どこ行ってたの?」
そう聞くと、姫木さんはニヤっとほくそ笑んだ。
「ふふ、進藤は嘘が付けないタイプなんだな」
……え、まさか尾行してたのバレてた?
* * *
射場の芝生横に設けられた応援席に腰を下ろすと、先ほどまで感じていなかった緊張感や不安な気持ちが、徐々に増幅していくのを感じた。
三宅さんが開進(主に矢田先輩)にちょっかいを出さないことと、姫木さんが弓道を辞めてしまうこと。この二つを賭けた戦いが、人知れずいま、起ころうとしている。
ここでこうして冷静に考えていると、三宅さんの賭けに関しては一切のデメリットがないことに気付く。姫木さんもそれは気づいていただろうに、どうしてこんな条件をあっさりと飲んでしまったのだろう。姫木さんから吹っ掛けた勝負だったから、引っ込みがつかなくなってしまったのだろうか。いくら姫木さんが外さないと言っても、これは五人のチーム戦だ。そこを見越して、三宅さんも条件を出してきたに違いない。本当に汚い人だと改めて感じる。
そしていよいよ、その時はやって来た。
黎誠高校の御前が射場に入ってきた。それに続いてひとりひとりと順番に入り、黎誠の落、三宅さんの後ろに佐藤先輩の顔が見えた。続いて桜井先輩、高柳先輩、大塚先輩、そして、その身長の高さでひと際目立つ、姫木さん。彼女が落に立つだけで、全体として締りのあるチームに見える。
全員がパイプ椅子に腰を下ろすと、間もなくして、「起立、始め!」という声が響いた。
その合図に合わせ、全員が射位に並ぶ。黎誠の御前から順に名前がアナウンスされ、そのひとりずつに黎誠高校から応援の拍手が鳴った。落の三宅さんの名前が呼ばれると、ひと際大きな拍手がその場に響く。その大きな拍手に、三宅さんにどれだけの期待が掛けられているかが伺い知れる。市内大会優勝チームの落を務めるだけあって、それなりに腕はあるのだろう。
わたしたち開進も、負けじと佐藤先輩から順番に応援の拍手を送る。
三宅さんと、姫木さん。二人の真剣な表情が交差する。射場の緊張感が、そのまま観客席の人たちにも流れ込んできているのかもしれない。これまでの予選とは違い、観客席は一切ざわつくことなく静まり返っている。
黎誠の御前と佐藤先輩が打起しから、ほぼ同じタイミングで会に入った。
間もなくして放したのは黎誠。
――パァン
快音が響くと同時に、黎誠の応援が空気を震わせた。
「よぉしっ!!」
すぐ隣に座っていた人たちが黎誠の弓道部だったらしい。真横から発声される応援に胸の奥が響く。すごい迫力だ。こちらも負けていられない。
祈るように佐藤先輩を見る。
しっかりと会を持って――離れ。
――パァン
「よぉぉしっ!!」
やった! 中った! 応援の大きさで言っても、こちらも負けていない。
続いて、二番。桜井先輩は、佐藤先輩が快音を響かせている時にはすでに会に入るところだった。黎誠の二番も同じくして会に入る。
桜井先輩の真剣な目が的を見据える。黎誠の二番も綺麗な射型をし、姫木さんの理論で言うと、これは中って然るべき射型だ。
そしてほぼ同時に離れた。
――パァン
――パァン
「よぉぉしっ!!」
「よぉぉしっ!!」
ふたつの的中音と、開進と黎誠の応援が会場に響いた。
その後、中の高柳先輩は中てたが、続く大塚先輩が外してしまった。
そこまで続いた通し矢ではあったが、大塚先輩は外した時、「えっ?」という表情で口をあんぐりと開け、その後、ぽかんと口を開けたまま、どこか宙を眺めてしばらくフリーズしていた。「あ~、何で外れたんだろうなぁ?」という吹き出しが、今にも出てきそうでならなかった。緊迫する射場でただひとり、“練習”している人がそこにいた。
黎誠は四人目まで通し矢で、三宅さんが中てると通し矢成功となる。三宅さんは冷静な面持ちのまま、弓を引き絞っていく。姫木さんも同じく、弓をじりじりと引く。
二人が会に入り、先に放したのは三宅さんだった。会はほんの二、三秒といったところで放していた。
思った以上に会が短かったので、隣にいた吉高先輩に尋ねてみた。
「黎誠の落の人、会が短いですね」
吉高先輩は、眼鏡をくいっと上げて答えた。
「ああ、あれはね、“早気(はやけ)”って言うんだよ。会に入ると放したくてうずうずしちゃうんだ。悪い癖だから、ならないように気を付けてね」
早気か……。うずうずするって言っても、放さずに持っておけばいいだけなのに、我慢できないものなのかな。「へえ、そうなんですね」なんて言いながら、そんなことを考えていた。
吉高先輩は続けた。
「早気は、調子が良くて中り癖がつく時期になりやすいんだよ。会に入って放せば中るもんだから、すぐ放しちゃうんだ。一度なっちゃうと、治らないとまで言われているから、進藤さんも気を付けてね」
「え、そんなに重病なんですね。……気を付けます」
この場で聞いておいてよかった。放したくなるなんて、どんな感じなんだろうな。と思っていたが、治らない癖とあっては絶対にならないようにしなければ。
そんな会話をしている中でも、姫木さんは未だに会を保っていた。既に黎誠の御前が会に入っている。姫木さんがこんなに会を持つ人ではないことは、わたしはもちろん、開進のメンバーは全員知っている。案の定浜本さんが指摘した。
「姫木文さん、どうしたんでしょうか。とても会が長いようですが……」
「ちょっと、持ちすぎだよね」
斎藤さんが心配そうに答える。
とその時、ようやく姫木さんの離れが出た。
――ビュン
と風を切り、一直線に伸びる矢飛びの速さに、一瞬会場がざわつく。直後――
――カァン!!
そちらを見ると、的枠に矢が刺さり、的は若干上を向いていた。直すほどではなかったらしく、的修正の指示はなかった。
そしてそのすぐ後、
――ドスッ
という鈍い音が聞こえた。黎誠の御前の矢が、安土に刺さった音だった。御前の冷静な仮面に、わずかに“ひび”が入った気がした。
すると、後ろに座っていた矢田先輩の呟く声が聞こえた。
「もしかして……いや、まさかね」
誰に言うでもなく独り言の様だったので、何が“もしかして”なのかは気になったが、振り向いて聞くほどでもないと思い、留めた。
二立目は、佐藤先輩から高柳先輩まで三人連続で中て、大塚先輩はまたしても外してしまった。その際、外した瞬間こそ「しまった!」みたいな顔をしていたが、直後、「もぉ~!」と聞こえんばかりのふくれっ面をしていた。観客席からでも、その顔が紅潮しているのが分かる。
大塚先輩が外したとほぼ同時に、三宅さんの二本目が的中する音が響いた。一本目で姫木さんが会を長く持ったこともあり、開進のペースが遅れているようだった。
二本目、姫木さんはいつも通り会を持つと、今度はあっさりと放した。するとまたしても――
――カァン!
その矢は的枠に刺さった。今度は、下だ。
観客席は二本目も的枠に中ったということもあり、若干ざわついた。
的は、先ほど上に刺さって若干上向きになっていたが、下に刺さったことで的の傾きが元に戻った。と――
――ドスッ
乾いた音が聞こえた。三本目を引いていた黎誠の御前だ。二本目に続き、この矢も外したようだ。今度は明らかに、眉間にしわを寄せている様だった。三宅さんをちらと見ると、首を傾げて呆れているような表情を浮かべていた。
そしてまた背後から矢田先輩の声。
「文……狙ってるんじゃ」
ああ、もう辛抱できない。わたしは堪らず振り返って小声で聞いた。
「矢田先輩、さっきから何言ってるんですか? まさかね、とか、狙ってるんじゃ、とか。狙ってるってのは、的枠狙ってるってのは分かりますけど」
わたしがそう言うと、矢田先輩は隣の黎誠の人たちに聞こえないよう耳打ちをする様に、「違う違う」と前置きをして話し始めた。
「狙ってるってのは、黎誠の御前を狙ってるんじゃってことよ。一本目の会、異常に長く持ってたでしょ。あれは多分、黎誠の御前が会に入って、放すタイミングまで待っていたのよ。で、的枠に中ててわざと大きな音を立てて、集中を乱した。思惑通り御前は、二本目も三本目も外した」
矢田先輩は頭のお団子を揺らして、さらに続けた。
「わたしが思うに、本当は三宅を狙いたかったんだろうけど、ペース的に間に合わず、ターゲットを御前に変更したんだと思う。文なら、やれる」
なるほど。たしかに御前の人は、外した時に“そういう”表情をしていたように思える。
わたしは姿勢を戻しつつ、姫木さんを見た。それはいつも通りの落ち着き払った表情で「こんなチーム、私ひとりでじゅうぶんよ」と、言いたげな涼しい顔をしていた。
現在、黎誠は御前の三本目まで、合計十一本を引き終えて「九中」。開進は、姫木さんの二本目まで、合計十本を引き終えて「九中」となっている。
的中数では同点ではあるが、引いている数が一本少ない分、リードしているとも言える。
黎誠は二番から三宅さんまでが、全員的中させ、開進は佐藤先輩から大塚先輩まで的中させた。
そしてまたしても姫木さん、今度は一体、どこに中てるつもりなのだろう……。矢田先輩の言った通り、黎誠の御前が会に入って数秒して放した。
――カァン!
またしても的枠。今度は後ろだ。的は少し左に傾いたが、今回も手直しはなかった。
会場は先ほどまで“若干”だったざわめきが、今度は明らかに大きなどよめきが起こった。
「おいおい、あの子マジかよ」
どこかの男子の声が聞こえる。他の声も似たようなことを言っているが、その声は数えきれないほど上がっていた。隣の黎誠の女子からは「中体連で優勝してた姫木さんって人よ、かっこいいよね」、とひそひそと話している声も聞こえた。
(ふふふ、わたしはそんな中体連優勝者のかっこいい人に、手取り足取り教わった事があるのだ! いいだろう!!)
そんな風に考えているとニヤニヤが止まらなくなってしまう。この優越感、たまらなく気持ちがいい。ああ誰か、このわたしのニヤニヤを止めてくれ。
そうすると、またしても隣の子からひそひそ声が聞こえた。
「ねえ、隣の子見て、なんか笑ってる、気持ち悪いんですけど」
「ほんとだ、ウケる」
すぅっと真顔に戻る。わたしのニヤニヤは止まった。
みんな、姫木さんの弓道人生と矢田先輩のため……絶っ対黎誠“なんか”に負けないでっ!
第五話「姫に策在り」 終わり