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第4話 :夫の密かな想いと決意

4-1. ずっと、君を見ていた


 リチャード・カーヴィス侯爵は、書斎で静かに紅茶を飲んでいた。

 窓の外には、庭園でティータイムを楽しむセーラの姿が見える。

 彼女はメイドたちと談笑しながら、優雅にカップを傾けていた。


 その光景を眺めながら、リチャードは小さく息を吐いた。


 「こんなふうに微笑む人だったのか……。」


 彼女と結婚してから、まだ日が浅い。

 だが、彼の人生の中でこれほど予想外の出来事はなかった。


 彼は今までの人生、常に計算し、最善の選択をし続けてきた。

 それが彼の生き方であり、冷徹と呼ばれようと構わなかった。


 だが――彼女だけは違った。

 彼女だけは、彼の思惑を軽やかに飛び越えていく。


 「……まさか、こんなに振り回されることになるとはな。」


 紅茶を一口飲みながら、彼は記憶の奥を辿った。



---


 彼が初めて セーラ・エヴァレット を見たのは、まだ彼が少年だった頃のこと。

 貴族の社交界に顔を出し始めたばかりの彼は、格式ばった空気に緊張していた。


 そこで、彼は見つけたのだ。


 ――庭園の片隅で、静かに紅茶を飲んでいる少女を。


 彼女は社交の輪に加わらず、一人、微笑みながらお茶を楽しんでいた。


 リチャードは、なぜかその姿から目が離せなかった。


 「あの子は、誰だ?」


 彼女は貴族としての礼儀をわきまえていたが、それでいてどこか自由な雰囲気を持っていた。

 まるで周囲のしがらみなど気にせず、ただ自分の好きなことをしているかのように。


 彼は、その姿に強く惹かれた。


 ――彼女のように生きられたら、どんなにいいだろう。


 侯爵家の跡継ぎとして、彼は幼い頃から「完璧」であることを求められていた。

 感情を表に出すことを許されず、常に冷静で理知的であるべきと教え込まれた。


 だが、彼女は違った。


 彼女は、彼の生き方とはまったく違う「自由」そのものだった。



---


 時は流れ、彼が侯爵位を継いだ頃、彼のもとに婚約の話が舞い込んできた。


 「エヴァレット侯爵家の娘との縁談を受けてみてはどうか?」


 その名を聞いた瞬間、彼の心は静かに震えた。


 ――あの時の少女か?


 すぐに、彼はその縁談を承諾した。


 「私が彼女を手に入れるなら、彼女を自由にしてやろう。」


 彼はそう決意した。


 彼女を束縛するのではなく、自由にさせることで、彼のもとにいたいと思わせる。

 それが、彼の出した答えだった。



---


 そして今、彼女は確かにここにいる。


 しかし――。


 彼の計算とは違い、彼女は予想以上に彼を振り回し始めた。


 「働かなくていいなんて最高!」と楽しそうに言い、

 「旦那様も一緒にお茶しましょう」と気軽に誘い、

 「美味しいものを食べるって、それだけで幸せ」と笑顔で語る。


 そのたびに、彼は戸惑い、驚かされる。


 そして――気づけば、彼女に惹かれ続けている自分がいた。



---


 書斎の扉がノックされ、執事が入ってきた。


 「旦那様、次の会議の資料が届きました。」


 「ああ……分かった。」


 リチャードは書類を受け取りながら、ふと尋ねた。


 「……セーラは、今も庭にいるか?」


 執事は少し驚いた様子で頷いた。


 「はい、ティータイムを楽しまれております。」


 リチャードはしばらく考えた後、静かに立ち上がった。


 「……少し、私も行ってくる。」


 「え?」


 執事は驚いたが、リチャードは何も言わず、庭へと向かった。



---


 庭に出ると、セーラがメイドたちと楽しそうに話しているのが見えた。


 彼女はリチャードの姿に気づき、ぱっと笑顔を向けた。


 「まあ、旦那様! お仕事は大丈夫ですの?」


 「少し、気分転換だ。」


 リチャードはそう言って、彼女の隣の席に座った。


 メイドたちは驚きながらも、すぐに彼のために紅茶を用意した。


 「本当に、紅茶を飲むのが習慣になりつつありますわね。」


 セーラはクスクスと笑いながら、彼を見つめる。


 リチャードは静かにカップを持ち上げながら、ふと心の中で呟いた。


 「私は、君のそばにいる時間が増えていくことを、少しも嫌だとは思わない。」


 そして、彼は静かに決意した。


 「君がここにいたいと思う限り、私は全てを与え続けよう。」


 それが、彼の密かな想いだった。



---

4-2. そばにいるために


 リチャードがティータイムに参加するようになったことで、屋敷の空気は少しずつ変わっていった。

 以前は「冷徹な侯爵」として知られていた彼が、こうしてセーラと共に穏やかに過ごす姿は、使用人たちにとっても驚きだった。


 そして何より、セーラ自身が一番驚いていた。


 「まさか旦那様が、ここまでティータイムに馴染むなんて……!」


 彼が時折、仕事の合間に庭へ足を運び、静かに紅茶を飲む。

 それがすっかり日常の光景になりつつあった。


 彼女はふと、紅茶を飲む彼の横顔を見つめた。


 普段は鋭く冷静な印象のある顔立ちも、こうして穏やかな時間の中ではどこか柔らかく見える。

 ティーカップを傾ける仕草も優雅で、長い指が持つカップは、彼の整った所作を際立たせていた。


 「……本当に、旦那様って綺麗な人よね。」


 セーラは無意識にそう思った。


 しかし、そんな彼の姿を見つめるうちに、ふと気づいたことがある。


 ――旦那様は、なぜこんなにも私に寛容なのだろう?


 普通、貴族の夫人が使用人と一緒にお茶を飲むなど、ありえないことだ。

 ましてや、夫である彼まで巻き込むなど、他の貴族家なら到底考えられない。


 それなのに、彼は一度もそれを否定しなかった。


 確かに最初は驚いていたが、彼はすぐに受け入れた。

 それどころか、いつの間にか彼自身もティータイムを楽しむようになっていた。


 それはどうしてなのか――。


 セーラは、そっと問いかけた。


 「旦那様って、本当に優しい方ですよね。」


 リチャードはカップを置き、静かにこちらを見た。


 「……そう思うのか?」


 「ええ。」


 彼は少し考えたようだったが、やがてふっと微笑した。


 「私が優しいかどうかは分からないが……君には、できるだけ自由でいてほしいと思っている。」


 その言葉に、セーラは驚いた。


 「自由でいてほしい?」


 「そうだ。」


 リチャードは遠くの庭を眺めながら、静かに語り始めた。


 「……私はずっと、貴族として生きることを求められてきた。」


 「貴族としての責務を果たし、理想の侯爵であることが何よりも重要だと教えられた。」


 セーラは、彼の言葉を黙って聞いた。


 「私は、感情を表に出すことを許されず、ただ冷静であることを求められた。」


 「だが……君を初めて見たとき、私は衝撃を受けたんだ。」


 「初めて……見たとき?」


 「君のことを覚えていないかもしれないが、私は昔、社交界の場で君を見かけたことがある。」


 セーラの目が大きく見開かれる。


 「えっ、そんなことが……?」


 リチャードは静かに続けた。


 「君は、庭の片隅で一人、優雅にお茶を飲んでいた。」


 「周囲の貴族たちが誰と話すか、どの家と交流を持つかと駆け引きをしている中で、君だけが、それらを気にすることなくただ自分の時間を楽しんでいた。」


 「その姿を見て……私は、強く惹かれたんだ。」


 セーラは、ぽかんと口を開けた。


 まさか、そんな過去があったとは知らなかった。


 「私は、君がどんな人なのか知りたくなった。」


 「そして、君が結婚適齢期になり、婚約の話が持ち上がったとき……私は迷わず承諾した。」


 彼の瞳が、まっすぐにセーラを捉えた。


 「君を妻にするなら、私は君に何も求めないと決めた。」


 「君が好きなように過ごし、自由に生きることで、自然と私のそばにいてくれることを願った。」


 セーラは、その言葉の意味を理解し、胸がじんと熱くなった。


 彼は、ずっと彼女を見ていたのだ。

 そして、彼なりの方法で彼女を引き留めようとしていた。


 自由を奪うのではなく、自由を与えることで。


 彼女が「ここにいたい」と思うように。


 「……そんなに、私のことを?」


 セーラは震える声で問いかけた。


 リチャードは、そっと彼女の手を取った。


 「私は、ずっと君を想っていた。」


 「……旦那様……?」


 彼の指が優しく彼女の手を包み込む。


 「私は、君にとって完璧な夫であるつもりはない。」


 「だが……君がここにいたいと思う限り、私はすべてを与え続けよう。」


 セーラの胸の奥で、何かがゆっくりとほどけていくのを感じた。


 彼は、ただ「政略結婚の相手」としての夫ではなかった。

 彼女のことを、ずっと大切に思ってくれていた。


 「……こんなにも、私のことを考えてくださるのは、旦那様だけだと思っています。」


 リチャードの瞳が驚いたように揺れる。


 「私の心が旦那様から離れることなどないと思っています。」


 彼女の言葉に、リチャードは目を見開いた。


 「……セーラ。」


 彼はそっと彼女を抱きしめた。


 そして、彼女は微笑んで言った。


 「私の自由は、旦那様のもとにあるのです。」


 「永遠にともにありたいと思います。」


 リチャードの腕が、彼女を強く抱きしめる。


 彼の温もりに包まれながら、セーラは静かに目を閉じた。


 彼女の選んだ「自由」は、彼のそばにいることだった。






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