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第6話 :簿記と珠算が商人たちの間に広まる

6-1. 商人ギルドからの正式な依頼


 セーラは今日もリチャードの書斎で、彼の仕事を手伝っていた。


 「ここは、この経費を整理すれば、もう少し収支が分かりやすくなりますね。」


 「……本当に、君はよく気がつくな。」


 リチャードは感心したように言いながら、帳簿を覗き込む。

 最近では彼も簿記を理解し、珠算を使いこなせるようになってきた。


 セーラが考案したソロバンは、予想以上に効率が良く、領地の財務管理は格段に向上していた。

 さらに、商人たちの間でもその有用性が噂となり、徐々に使われ始めていた。


 「商人たちもこれを活用すれば、もっと楽になるのでは?」


 そんな軽い気持ちで商人たちにアドバイスしたのが、すべての始まりだった。


 ある日、屋敷の執事が来客を告げた。


 「奥様、商人ギルドの代表がお会いしたいとのことです。」


 「商人ギルド?」


 セーラは驚いた。


 商人ギルドとは、国内の商業を統括し、交易のルールを決める重要な組織だ。

 彼らは基本的に貴族と直接関わることは少ない。


 そんな彼らが、わざわざ彼女を訪ねてきたということは――。


 「……まあ、とりあえず会ってみましょうか。」


 リチャードの了承を得て、応接室で商人ギルドの代表を迎えることになった。


 「初めまして、エヴァレット侯爵夫人。」


 応接室に入ってきたのは、落ち着いた雰囲気を持つ壮年の男性だった。

 彼の後ろには、数名の商人が控えている。


 「商人ギルドの代表を務めております、ガルバンと申します。」


 彼は恭しく頭を下げた。


 セーラも礼儀正しく会釈し、席を勧める。


 「お話を伺いますわ。」


 「ありがとうございます。」


 ガルバンは席につくと、ゆっくりと口を開いた。


 「まずは、奥様に感謝を申し上げたく存じます。」


 「私に?」


 「ええ。奥様が開発されたソロバン、そして簿記の知識が、我々商人たちの間で非常に役立っているのです。」


 「……まあ!」


 セーラは驚いた。


 確かに、屋敷の取引相手である商人たちにソロバンを勧め、簿記の方法を教えたことはある。

 しかし、それがここまで広まっているとは思ってもみなかった。


 「特に、珠算を用いた計算速度の向上は、取引の場で大きな影響を与えています。」


 「これまでは、複雑な計算をする際、何人もの商人が手計算で時間をかけていました。しかし、奥様の方法を導入したことで、その作業が圧倒的に早くなったのです。」


 「ほ、本当に?」


 「はい。そのため、商人ギルドとして正式にお願いしたいことがございます。」


 ガルバンは背筋を伸ばし、慎重に言葉を選びながら続けた。


 「エヴァレット侯爵夫人を、商人ギルドの顧問としてお迎えしたいのです。」


 「……え?」


 一瞬、意味が理解できなかった。


 「顧問……?」


 「ええ。我々の組織に正式に関わり、商業の発展のために助言をいただきたいのです。」


 「えっ、私、ただの貴族夫人のはずなのに……!?」


 思わず声を上げるセーラ。


 後ろで聞いていたリチャードも、少し驚いたように眉を上げた。


 ガルバンは誠実な表情で続けた。


 「奥様の知識は、商業の発展にとって非常に貴重です。」


 「簿記や珠算の技術は、商人たちの取引を効率的にし、経済を大きく成長させる可能性を秘めています。」


 「もし奥様が正式に顧問として就任してくだされば、私たちはその知識をより広めることができます。」


 セーラは、唖然としていた。


 ――まさか、趣味で簿記をやっていただけで、こんなことになるなんて。


 商人ギルドの顧問ともなれば、これはもう単なる趣味では済まされない。

 公の立場として、商業政策に関わることになるのだ。


 「そ、そんな大役、私に務まるのかしら……?」


 セーラが戸惑っていると、リチャードが静かに口を開いた。


 「君が望むなら、やってみればいい。」


 「……旦那様?」


 「私にとって、君はすでに財務の知識において頼りになる存在だ。」


 「商人たちにとっても、君の知識は大いに役立つだろう。」


 「だが、君自身がどうしたいのか。それを聞かせてほしい。」


 セーラはリチャードのまっすぐな瞳を見つめた。


 彼はいつものように、彼女の自由を尊重してくれている。

 強制するわけでもなく、ただ彼女自身の意志を確認しようとしているのだ。


 セーラはしばらく考え、やがて小さく笑った。


 「……確かに、これも悪くないかもしれませんわね。」


 「私は、ただ働かなくていい貴族夫人を楽しむつもりだったけれど……」


 「気づけば、こうして仕事に関わることになっているのね。」


 リチャードはくすっと微笑んだ。


 「君は本質的に、じっとしていられない性格なのかもしれないな。」


 セーラは苦笑しながら、改めてガルバンに向き直った。


 「……分かりました。」


 「私でよければ、商人ギルドの顧問を務めさせていただきます。」


 その言葉を聞いた瞬間、商人たちは歓声を上げた。


 「ありがとうございます、奥様!」


 「これで商業がさらに発展する!」


 セーラはため息をつきながら、苦笑した。


 ――私、本当にただの貴族夫人のはずだったのに……!


 しかし、不思議と悪い気はしなかった。


6-2. ただの貴族夫人のはずが……


 「はあ……」


 応接室を出たセーラは、大きくため息をついた。


 「まさか、正式に商人ギルドの顧問になるなんて……!」


 戸惑いながらも、どこか興奮している自分がいることに気づく。


 これまでリチャードの仕事を手伝っているだけのつもりだった。

 それがいつの間にか、商人たちの間に広まり、ついには商人ギルドから正式な依頼が来るまでになってしまった。


 「どうしてこうなったのかしら……?」


 しばらく考え込んでいると、隣でリチャードが静かに笑った。


 「君の影響力は、思っていた以上に大きいようだな。」


 「そんなつもりはなかったんですけど……」


 セーラは困ったように笑いながら、リチャードを見上げた。


 「でも、本当に私で大丈夫かしら?」


 「君なら問題ない。」


 リチャードは即答した。


 「これまでの成果を見れば分かるだろう。君が考案したソロバンは、商人たちの間で革命を起こしている。」


 「それに、君の簿記の知識があれば、より効率的な経済の仕組みを築くことができる。」


 「私は、君が顧問を務めることで、商業の発展が加速すると確信している。」


 セーラは、彼の言葉にじんわりと胸が温かくなるのを感じた。


 彼は決して強制はしない。

 けれど、彼女の能力をしっかりと認め、信じてくれている。


 「……そうね。せっかくなら、やってみようかしら。」


 「ふふ、私、ただの貴族夫人のはずだったのに、どんどん仕事が増えていくわね。」


 セーラが苦笑すると、リチャードは微笑んだ。


 「だが、君は楽しんでいるように見える。」


 「……確かに。」


 彼の言葉に、セーラは自分の気持ちを再確認する。


 仕事をするつもりはなかった。

 のんびり暮らすつもりだった。


 けれど、いつの間にか夢中になり、気づけば新しい役割を得ていた。


 「私、前世でもずっと仕事に追われていたのに、またこうして働くことになるなんて……」


 「でも、違うわ。」


 セーラはふわりと微笑んだ。


 「今は、楽しくてやっているんですもの。」


 そう。

 前世では生活のために働いていた。

 けれど今は、自分の知識が人々の役に立ち、世界を変えているのを実感できる。


 それが、純粋に嬉しかった。



---


 正式に商人ギルドの顧問として就任した翌日。


 ギルド本部で、商人たちとの初会合が開かれた。


 「エヴァレット侯爵夫人、改めてお招きできたことを光栄に思います。」


 ガルバンが深く頭を下げると、周囲の商人たちも次々と敬意を示した。


 「よろしくお願いいたしますわ。」


 セーラは上品に微笑みながら、静かに席につく。


 ギルドの会合は、思った以上に本格的なものだった。


 商人たちは各々の取引や財務管理について議論を交わし、新たな方針を決めていく。


 これまでは長年の慣習に基づいたやり方が主流だったが、セーラの登場により、新しい管理手法を導入する流れが生まれていた。


 「それでは、奥様にご相談したい件がございます。」


 ある商人が手を挙げた。


 「最近、交易が活発になるにつれて、複雑な収支計算が必要になってきました。」


 「そこで、奥様の簿記の技術を学びたいという商人が増えておりまして……」


 「ぜひ、ギルド内で簿記講習会を開いていただけませんか?」


 「簿記講習会?」


 セーラは驚いた。


 「私が教えるのですか?」


 「はい。奥様の簿記の知識を学べれば、商人たちの業務がさらに効率化されると確信しております。」


 「もちろん、講習料はお支払いしますので……!」


 「う、うーん……」


 セーラは少し考えた。


 もともと、簿記を広めるつもりではあった。

 しかし、それを講習会という形で正式に教えることになるとは……。


 「講習会……そうね。」


 彼女はリチャードの顔を思い浮かべた。


 彼も簿記と珠算を学んだことで、仕事の効率が大きく上がった。


 「これを商人たちにも広めれば、もっと多くの人が楽になるのかもしれない。」


 少し考えた後、セーラは頷いた。


 「分かりました。講習会を開きましょう。」


 商人たちは歓声を上げた。


 「ありがとうございます、奥様!」


 「これで商業の未来が変わる!」


 セーラは彼らの熱意に押されながらも、どこか誇らしさを感じていた。


 ――気づけば、私はもうただの貴族夫人ではなくなっているのね。


 けれど、それは悪い気分ではなかった。



---


 屋敷に戻ると、リチャードが書斎で待っていた。


 「どうだった?」


 「……もう、すごいことになっちゃいましたわ。」


 セーラは苦笑しながら、リチャードに説明する。


 商人ギルドでの会合のこと。

 そして、簿記講習会を開くことになったこと。


 話を聞いたリチャードは、少し笑った。


 「君は本当に……仕事を増やすのが上手いな。」


 「まったく、そんなつもりはなかったんですのに!」


 セーラは頬を膨らませたが、リチャードは優しく微笑んだ。


 「でも、君が楽しんでいるのなら、それでいい。」


 「……ええ。」


 セーラはそっと微笑んだ。


 「せっかくなら、楽しんでやりますわ。」


 リチャードは彼女を見つめ、静かに頷いた。


 「なら、私も協力しよう。」


 「えっ?」


 「君が商人たちに教えるなら、私も簿記と珠算の普及に手を貸す。」


 「君一人では大変だろう?」


 セーラは驚いたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。


 「……ありがとう、旦那様。」


 こうして、セーラの簿記講習会が始まることになる――。






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