8-1. 気づけば忙しすぎる毎日
セーラの朝は、かつてとはまるで違っていた。
貴族夫人としての優雅な朝食――ではなく、彼女は 商人ギルドの簿記講習 に向かうため、早朝から書類の整理をしていた。
「うん、今日の講義内容はこれで大丈夫ね……」
最近は、商人たちの要望に応えて簿記と珠算の講習会を開くようになった。
最初は数人の商人相手だったのが、今では講習の規模が広がり、定期開催が必要なほどになっている。
さらに、彼女は 屋敷の管理 も改善していた。
使用人たちの給与体系を見直し、労働時間の管理を効率化。
メイドたちの負担を軽減しつつ、屋敷の運営をスムーズにするための制度を導入した。
おかげで、屋敷の使用人たちは働きやすくなり、主人であるリチャードまでも 「仕事がしやすくなった」 と感謝している。
さらには、リチャードの財務管理を手伝い、貴族としての交渉ごとにも関わるようになり――。
「……あれ?」
書類の整理をしていたセーラは、ふと手を止めた。
「ちょっと待って、私、なんでこんなに働いてるの?」
「私、働かない貴族夫人のはずじゃなかった!?!?」
――気づけば、朝から晩まで仕事に追われている。
商人ギルドの顧問としての業務、屋敷の運営改善、夫の財務サポート、さらには簿記と珠算の普及活動……。
「……まるで前世の私みたいじゃない!」
転生してからというもの、セーラは 「働かなくていい生活」 を満喫するつもりだった。
それが今や――完全に働いている。
セーラは、頭を抱えた。
「これは……なんの罠?」
使用人たちの変化
屋敷のメイドたちは、最近のセーラの変化に気づいていた。
「奥様、本日もお忙しいのですね。」
「最近、お仕事をされているお姿をよくお見かけしますわ。」
彼女たちは口々にそう言う。
「いえいえ、そんなことは……」
セーラは誤魔化そうとしたが、ふと、屋敷の使用人たちの表情が以前よりも 明るく なっていることに気づいた。
「……そういえば、皆さん、最近楽しそうですね?」
メイド長が微笑んだ。
「はい、奥様が屋敷の管理を改善してくださったおかげです。」
「以前は、長時間労働で休憩も十分に取れませんでしたが、今では労働時間が調整され、皆の負担が軽くなりました。」
「しかも、お給金まで見直していただきましたし!」
「屋敷での仕事が、とても快適になりましたわ!」
メイドたちは嬉しそうに話す。
セーラは、そんな彼女たちを見て、ふと胸が温かくなった。
「そう……よかったですわね。」
彼女は、本当に やりたくて これをしていたのだろうか?
気づけば、使用人たちが快適に働ける環境を作りたくて、屋敷の運営に関わっていた。
それは、貴族夫人としての義務ではなく、彼女自身の意志だったのかもしれない。
「私は、本当に働きたくなかったのかしら……?」
そう考え始めた瞬間――「セーラ?」 という声が響いた。
振り向くと、そこにはリチャードが立っていた。
夫の視線
リチャードは、セーラの様子をじっと見つめた後、静かに言った。
「……また、仕事を増やしたな?」
彼の言葉に、セーラは 「うっ」 と口をつぐんだ。
「最近、君はずっと忙しそうにしている。」
「屋敷の運営、商人ギルド、簿記と珠算の普及……。君は、ただの貴族夫人でいるつもりだったのでは?」
リチャードの言葉は、まさに 核心 を突いていた。
「それは……その……」
セーラは目を逸らしながら言い訳を探す。
「私、気づいたら、やりたくなっていたんです……!」
「屋敷の管理を見直すのが楽しくて、商人ギルドの人たちが成長するのを見るのが嬉しくて……。」
「そして、あなたのお手伝いをするのも、嫌ではなくて……。」
リチャードは、彼女の言葉を静かに聞いていた。
「だから……私は、ただ働かないで過ごしたかったわけではなかったのかもしれません。」
「私は、やりたいことをやっていたんです。」
そう言った瞬間、セーラはようやく気づいた。
彼女は「働いていた」のではなく、「やりたいことをしていた」だけだったのだ。
前世では 「生活のために働くこと」 が当たり前だった。
でも、今は 「誰かの役に立つこと」 に喜びを感じていた。
それは、まったく違うことだった。
リチャードは、彼女の言葉を聞いて微笑んだ。
「なら、いい。」
「え?」
「君が本当にやりたいことをしているのなら、それでいい。」
彼は、そっと彼女の頬に触れた。
「ただし、無理はするな。」
「君は一度、過労で倒れたことがあるのだから。」
セーラは、彼の優しい言葉に思わず胸が詰まった。
リチャードは、彼女のことを本当に気にかけてくれている。
「……ありがとう、旦那様。」
彼の温もりを感じながら、セーラは 「私は今、幸せだ」 と思った。
「私は、私のやりたいことをやる。」
結局、セーラは働かない貴族夫人ではいられなかった。
でも、それが悪いことではないと気づいた。
「私は、私のやりたいことをやる。」
そう決めたとき、彼女の心はとても軽くなった。
こうしてセーラは、貴族夫人でありながら、商業の発展にも関わり続けることを選んだ。
そして、彼女の影響は――さらに大きく広がっていくことになるのだった。
8-2. すべては「やりたくてやっている」
「それで、次の商人ギルドの会合では、新しい取引ルールについて話し合う予定ですわ。」
夕食の席で、セーラは自然と仕事の話をしていた。
向かいに座るリチャードは、ワインを飲みながら彼女の話を聞いていた。
「ふむ……君が関わるようになってから、ギルドは確実に変わっているな。」
「まあ、いい方向に進んでいるのなら嬉しいですけど……。」
セーラはため息をついた。
「働かない貴族夫人になるはずだったのに、気づいたら毎日忙しくなっていましたわ。」
リチャードはクスッと笑った。
「それでも、君は楽しそうだ。」
セーラは、彼の言葉にドキリとした。
「楽しい……?」
「君は、気づいていないのか?」
リチャードは静かにワインを回しながら言った。
「君がギルドの商人たちと議論するとき、君が簿記や珠算を教えるとき……君はとても楽しそうに見える。」
「それは、私が……?」
セーラは少し考えた。
確かに、彼の言う通りだった。
簿記を教えるとき、商人たちが目を輝かせるのを見ると嬉しかった。
財務管理を改善し、屋敷の使用人たちの待遇が向上したとき、心が温かくなった。
「……そうですね。私は、やりたくてやっていたのかもしれません。」
セーラはしみじみと呟いた。
「働かない貴族夫人を目指していたはずなのに……。」
リチャードは静かに笑った。
「それは、君が本質的に“やるべきこと”を見つけるのが得意だからだろう。」
「やるべきこと……?」
「君は、問題を見つけると、それを解決したくなる性格なのだ。」
「ギルドの財務が混乱していたときも、屋敷の使用人たちの待遇が悪かったときも、君はそれを見過ごせなかった。」
「その結果、君は自ら動いて、環境を良くしていったのだ。」
リチャードの言葉を聞きながら、セーラは静かに納得した。
――私は、本当に働きたくなかったのか?
そうではない。
彼女はただ、自分が楽しく過ごすことを優先していた。
そして、自分の関わる場所がより良くなるのを見ることが楽しかったのだ。
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「自由」ではなく「選択」
食事を終えた後、二人は書斎に移動した。
「君が顧問になってから、ギルドの収支が驚くほど安定している。」
リチャードは机の上の帳簿を開きながら言った。
「これまで商人たちは、それぞれのやり方で財務管理をしていたが、君の指導によって統一されたルールができつつある。」
「おかげで取引の透明性が向上し、不正の抑止にもなっている。」
「……そんなに影響があったのですね。」
セーラは自分のやってきたことの大きさに改めて驚いた。
「本当に、ここまでくるとは思っていませんでしたわ。」
リチャードは静かに頷いた。
「だからこそ、私は君にもう一度確認しておきたい。」
彼は彼女を真剣な眼差しで見つめる。
「君は、本当にこれからもこの道を進みたいのか?」
「……!」
セーラは一瞬、言葉を失った。
彼は、彼女の意思を尊重し続けてくれている。
そして今、彼女自身に決断を委ねているのだ。
彼女は静かに考えた。
働かない貴族夫人としての生活を捨てたわけではない。
しかし、彼女が本当に求めていたのは 「自由」 ではなく 「選択」 だったのかもしれない。
「……私は。」
セーラはゆっくりと口を開いた。
「私は、やりたいことをして生きていきたいです。」
「だから、これからもギルドの仕事に関わり、簿記と珠算を広め、貴族としての責務も果たします。」
「それが私の“選んだ道”ですわ。」
リチャードは彼女の言葉を聞いて、静かに微笑んだ。
「そうか。」
彼は優しく彼女の手を取った。
「君が選んだ道なら、私は何も言うまい。」
「ただ、一つだけ。」
彼の瞳が、少しだけ厳しさを帯びる。
「無理はするな。」
「……!」
「私は、君が倒れる姿を二度と見たくない。」
セーラは、彼の言葉に胸が熱くなった。
この人は、本当に彼女のことを大切に思ってくれている。
「……分かりましたわ。」
彼の手を握り返しながら、セーラは微笑んだ。
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「やりたいことをする人生」
それからの日々。
セーラはますます忙しくなった。
簿記と珠算の講習会はさらに人気を博し、新たな教育制度が確立された。
商人ギルド内には、正式に財務管理部が設置され、商業の基盤が安定し始めた。
そして、彼女の活動は貴族社会にも影響を及ぼし、他の貴族たちも経済の仕組みを学ぶようになっていった。
ある日、セーラはふと気づく。
「私は、本当にやりたくてやっているんだわ。」
彼女は、ただの貴族夫人ではなくなった。
けれど、それは決して悪いことではない。
自分が選んだ道を歩んでいるのだから。
「これからも、私は私のやりたいことをやるわ。」
そう心に決めたとき、彼女の中には迷いが一切なくなっていた。
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リチャードの一言
夜、リチャードと並んで紅茶を飲みながら、セーラはふと微笑んだ。
「旦那様。」
「なんだ?」
「私、本当に貴族夫人としてのんびり暮らすつもりだったのに、どうしてこうなったのでしょう?」
リチャードは静かに微笑みながら言った。
「それが、君だからだ。」
その言葉に、セーラは 「確かに!」 と思わず吹き出した。
こうして、彼女の 「働かないつもりだったのに働いてしまう人生」 は、今後も続いていくのだった。
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