とっさにビンタしてゼウスを引き離すブリコ。
「ばっ、バカじゃないの!」
振り袖で口を拭い、赤面しながらもどうにか罵倒する。
「何すんのよ、この変態。愛人にもなってないのに!」
「接吻も初めてか」
肩を竦めてからかうゼウスの、脛を本気で蹴ってやった。
「ぬぐっ、おお?!」
全能という割に効いたらしく、主神は足を抑えて草原に蹲り悶絶する。
そこに追撃してやる。
「キスくらいしたことあるわよ、処女でもない!」
本当であった。
学生時代、あまりのモテなさと早々に経験を済ませていく周囲に焦り、マッチングアプリで同じく冴えないゆえにモテず相手を妥協してでも卒業したいというつまらない男と関係した。それ以来だが。
「なっ!」
唸っていたはずのゼウスが、信じられないといった様相で顔を上げる。
「?」
プライドの塊に感じた全能神の、続け様な情けない反応は意外だった。思わず、怒りも忘れかけてブリコは首を傾げてしまう。
「そ、そうか」
ゼウスは、ゆっくりと立ち上がって背を向けた。
「それじゃあまた進展があったら呼びな。おまえを権妻にするためなら、いつでもくるからよ」
そして、光を伴ってふっと消失した。
風が吹き、森の木々が揺れる。小鳥が囀ずりながら新居の屋根にとまった。
「なに、今の」
それを見上げて、ブリコは考えた。自分の中にわき掛けた感情の正体がわからなかった。
ただ、ゼウスは浮気者だが正妻は決して捨てない男だった。新妻を得る前には、きちんと前の妻と別れる。浮気相手はそれ以上とは認めない。
その最低男の最低限の律儀さの片鱗を目にした気がしたが、やっぱり馬鹿らしくなって頭を振って思考を払う。
そのまま、とりあえず建てたばかりの家を確かめてみることにした。
「ここまで日本と同じだと、異世界感が薄いわね」
すぐにそんな感想を抱くはめになった。
なにせ、外観に反して和室まである。というか、実家とかなり似通っている。自分でそうしたのだが。
茶の間にテレビがあったので点けてみた。当然というべきか何も映らなかった。
昨夜ギリシャ神話の高名な大工ダイダロスを召喚して設計を話し合ったのだが、そういえば疲れていて結構適当になった気もする。まあ、ヘパイストスの建築ペースからして改築も容易いだろう、いつでも模様替えはできそうだ。
「DVDは見れる、音楽も聞けるか。ネット、ゲーム、更新があるものは元世界時間の昨日時点で止まってるみたいね」
一つずつ操作して確認してみた。元世界の文明で機能するのはそんなところらしい。
「これだけあれば、現代文明が恋しくなっても退屈はしなさそう」
そういや、ゼウスもこっちにいる間は元世界の時間が止まっていると説明していた。向こうの機器にも適用されるのだろう。
ゼウスのことを想起して、さっきの記憶までよみがえってしまう。
「ああ、もうっ!」
頭を払って妄想を消し、ふと、重大なことを奴に聞きそびれていたことに感づく。
「そうだ。全てのきっかけになった、ブスをものにできるかってあいつを挑発した奴は誰なのよ」
一番気になっていたことだ。
なにせ、娘娘は中国神話の黄帝の嫁らしかった。神話召喚と酷似した呪文も用いていた。なにより、「ギリシャ神話の嫁は~」などと、説明もしていないのにこちらの素性を承知している発言すらしていた。
ソファーに座って天井を見上げ、悩む。
「偶然誰かに挑発されたからあたしを嫁にしようとした、なんてわけじゃないでしょこれ。他の神話の存在も同じ事をしてるなんて……」
ともすれば、さっきの言動はその追及をごまかそうとしたとも受け取れた。