夕暮れの広場。
屋台の骨組みを照らしていた橙色の光が、いつしか茜と群青の間で揺れている。
立ち並ぶ屋台の片隅には、転倒防止用の補助輪を外されたコロッタがぽつんと置かれていた。
ドルジークはしゃがみ込み、指先でキャタピラの軸を回しながら独り言を続ける。
「重心を下げても横転率に大きな改善は見られない。ふむ……いっそ四脚で歩かせたほうが――」
――ゴォウッ!
空気を裂く低い轟音。
視線を上げると、城壁の向こう側に漆黒の光柱がそそり立っていた。
どす黒い炎がまとわりつき、雲を焼いて広がる。
「……爆発」
次の瞬間、地面が揺れ、大砲を百発まとめたような破裂音が街全体にこだました。
屋台の天幕がはためき、屋根瓦が遠くで割れる音。
広場にいた人々が悲鳴を上げ、一斉に逃げ出す。
ゲート方面から人々の怒号と足音が雪崩れ込む。
だがドルジークはコロッタに手を当てたまま、逃げ惑う列をぼんやり見つめていた。
赤子を抱きかかえる母親、荷車を捨てて走る商人。
そして、転んでもすぐに立ち上がって駆け出す子供たち。
それを見ながらふと考える。
「やはり転倒状態からの自己復帰制御を入れるべきだな……いや、いっそのこと足を……」
背後で木箱が割れる音がしても、彼の視線は光柱と計算式のあいだを往復するだけだった。
逃げ惑う群衆をかき分け、鎧姿の一団が広場へなだれ込んだ。
先頭で指揮を執るのはゲオルだ。
肩当ての赤い羽飾りは、部隊長の印。
後ろに続くのは、恐らくこの都市で集められる最高レベルの精鋭冒険者たちが30名ほど。
「防衛線を張れ! 負傷者は中央通りへ下げろ!」
剣を振り回して指示を飛ばすゲオルの目が、石段に腰を下ろすドルジークを捕らえた。
「お前、何をしている!」
「ゲオル。お前こそ、一体何の騒ぎだ」
「はぁ!? お前……さっきの爆発を見てなかったのか!? 魔族だ! 魔族が急に現れたんだよ!」
ドルジークは首を傾げた。
「魔族……? 実物を見るのは初めてだな」
「見るんじゃない、逃げろ!」
「今からここで戦うんだろう? なら観察したい」
「何を呑気な――!」
ゲオルが頭を抱える間にも、城壁側の瓦礫が爆ぜた。
土煙を割って現れたのは、牛頭人身の巨体。
赤黒い筋肉に漆鎧をまとい、身の丈ほどある戦斧を肩に担ぐ。
「我はバル・ゾラ――魔族七侯爵、紅蓮公に連なる獣兵大尉!」
地鳴りのような声が街路に響いた。
冒険者たちの顔から血の気が引く。
大尉、が魔族の中でいかなる立場の存在なのかは誰も知らないが、その巨躯から発せられる禍々しいオーラが、ただ者ではないことを示していた。
「ヌゥン!」
斧を軽く振るっただけの風圧で、冒険者たちが数歩後退させられる。
ドルジークの瞳がわずかに輝いた。
「見た目以上の筋力だな、密度が人間のそれとは比べ物にならないらしい。……ふむ、面白い」
ゲオルは剣を構えながら振り返る。
「観察はいい、下がれ!」
「興味が湧いた。ここで見物させてもらう」
そう言うとドルジークはすたすたと歩を進め、ドカッと広間中央の噴水の縁に腰を下ろす。
そのまま長い足を組むと、太ももの上でノートを開いて素早くペンを走らせ出した。
「チッ……もういい! 全員! 恐れるな、陣形を維持!」
震える仲間を鼓舞しつつ、ゲオルは前へ立った。
バル・ゾラが巨躯を沈め、斧を地面すれすれで横薙ぎに振る。
ガァンッ!
鈍い衝撃に続いて石畳が粉砕された。
衝撃波が円を描いて跳ね、最前列の戦士たちをまとめて吹き飛ばす。
甲冑が転がり、悲鳴が散った。
「くっ……! 前衛、後退! 二列目と入れ替われ!」
ゲオルが叫ぶ。
だが二列目は、恐怖のあまり前に出ることができない。
バル・ゾラは一歩踏み込み、柄尻で槍兵の胸当てを砕いた。
鉄板がめくれ、男が咳血とともに崩れ落ちる。
ドルジークは飛んでくる鎧や石畳の破片で流血しながら、ノートに走り書きした。
『斧軌道幅・約3メートル 衝撃半径10メートル』。
冒険者たちは動揺し、隊列が乱れる。
彼らの剣先が届くより早く、斧の円軌道が次を薙ぐからだ。
「いったん下がれ! 陣形を立て直す!」
ゲオルが叫んだ。
辛うじて立てている面々が盾を掲げて後退し、広場の端へ散っていく。
粉じんの中で、ドルジークは砕けた石片を拾い上げた。
断面の焼け具合を確かめ、静かに頷く。
「斬撃面に熱……! 魔力によるものか……興味深い」
ノートに乗せられたインクが乾く前に、大きな影が覆いかぶさる。
「貴様、なぜ逃げぬ」
低い声。
顔を上げると、牛頭の巨人が見下ろしている。
赤い瞳が興味半分、嘲笑半分で揺れた。
「必要ない」
「……何だと?」
「逃走など必要ないと言った。理解できなかったか? ……やはり頭が牛な分、知性は低いようだな」
ドルジークはペン先を止める。
その不遜な物言いに、バル・ゾラは鼻先で笑った。
「確かに、貴様ごときが逃げても運命は同じだ」
言うなり、巨斧を振り下ろす。
風圧だけで石くれが跳ねた。
「ダメだ! 逃げろ!!」
ゲオルが声を張り上げる。
だがドルジーク座った状態のまま、掌を上に向けた。
「
空気が歪み、半透明の盾壁が噴水前に展開。
斧刃がぶつかり、火花と衝撃波が散ったが、防壁はびくともしない。
「ほう……」
バル・ゾラの口元がわずかに吊り上がる。
想定外の抵抗に、興味を抱いたようだった。
「ならばこれはどうだ!」
バル・ゾラが踏み込むと、石畳がひしゃげて粉じんが舞った。
ドルジークは距離を測り、一歩退くと右手を横に払う。
「
青白い稲妻が空を裂き、巨体へ三度、四度と弾ける。
雷光が鎧を走り、金属臭い蒸気が上がった。
だがバル・ゾラは痛みを笑い飛ばし、斧で地面を叩き割る。
「効かぬわ!」
破片が弾丸のように飛ぶ。
ドルジークは指を鳴らす。
「
目に見えぬ膜が生まれ、礫の軌道を逸らした。
砕石は彼の背後へ抜け、噴水にぱらぱらと落ちる。
「守るだけか、人族の魔術師よ!」
バル・ゾラが斧を高く掲げる。
刃が紅蓮色に発光した。
「これは防げんぞ!」
振り下ろしと同時に地面が裂け、溶岩色の亀裂が一直線に走る。
ドルジークは足元を見もしない。
「
靴底の魔方陣が光り、彼の姿がふっと消えた。
いや、正確には、目に見えぬほど高速で移動したのだ。
現れたのはバル・ゾラの斜め後方。
掌を突き出す。
「
濃紫の弾丸が六連射で叩き込まれ、巨体を仰け反らせた。
鎧が凹み、黒血が飛ぶ。
冒険者たちが遠巻きに息を呑む。
「グオオオオオオッ!」
だが獣兵大尉は吼え声とともに腕を振り、反動で振り向きざまの斧を繰り出した。
軌跡は音より速い。
「ッ──
光の多層幕が割り込む。
衝突音が雷鳴に変わり、防壁が蜘蛛の巣状に亀裂。
ドルジークは半歩後退した。
足先まで衝撃が抜け、喉に鉄の味が広がる。
バル・ゾラの呼吸が荒くなるが、斧はなお軽々と振り回された。
「その盾! あと何度保つ!?」
ドルジークは答えず、左腕をかざす。
小型の魔方陣が浮かび、銀白の刃が射出。
しかしバル・ゾラは柄で弾き、足蹴にして突進した。
「
巨体がぶつかり、ドルジークの防壁が砕け散る。
地面を滑ったドルジークが膝をつく。
視界が揺れ、血がこめかみに滲む。
バル・ゾラが勝ち誇ったように斧を肩へ担いだ。
「終いだ、人間! 貴様の呑気な観察はここで終わる!」
「……ふ、十分だ」
その瞳はまだ測定者の色を失っていない。
それどころか、口元にはわずかな笑みすら浮かべている。
「……何を考えている。なぜ恐れない」
「恐れ? 研究にはてんで不要な感情だな」
ドルジークは息を整え、指先で血を拭う。
そしてパンパンとコートについた埃を払うと、バル・ゾラへ向き直った。
「やはり現地調査に勝るものなし。良いデータが取れた、感謝する。……それでは貴様は、もう用済みだ」
相変わらず、緊張の欠片もない声が夜気に溶けた。
空の彼方で、複数の魔術信号が応えるように瞬く。
「まだこけにするか……! ならばあの世で後悔してこいッ!」
バル・ゾラが巨斧を振りかぶった。
刃から放たれた赤い衝撃波が、一直線にドルジークへ突き進む。
だが彼は微動だにしない。
直撃まで、あとわずか。
「避けろ、ドルジーク!」
遠くでゲオルが絶叫した、その瞬間。
ガイィンッ!
黒い塊が空から落ち、ドルジークの前に突き刺さった。
敵の衝撃波はその装甲に弾かれ、霧散する。
粉じんが晴れると、塊がパキンと展開。
迷彩緑の外殻が開き、二メートル級の鋼躯が現れた。
胸の魔導コアが脈打ち、赤い単眼がバル・ゾラを正面からにらみつける。
「一体目、到着――」