月華が入宮してから二週間が過ぎた。
王である景宗の寵愛は、もはや疑う余地もなく、あの新たな姫へと注がれていた。
夜毎に月華の閨へと通う王の姿は、後宮の者たちの間で半ば公然の秘密となり、瑛麗の耳にも、聞きたくもない噂として嫌でも届く。
もう、熱を失った灰のような寝所で、夜虫を数えることが瑛麗の日常となりかけていた。
かつて、王が触れた肌に触れるのは、蛇のような冷気。
「おや、あなたはお召し物がいつまでも質素ね。わらわは、陛下よりこの麗しい錦を賜り、身に纏うているのに。よければ、いくつかお下がりを選んで差し上げましょうか?」
定期的な茶会、集まった妃たちの前で、瑛麗は努めて平静を装い、そう口にした。ささやかな牽制のつもりだった。
月華が素朴さを保ったままであること、それが王の寵愛の薄さの証であるかのように印象付けたかったのだ。
月華はその神秘的な瞳で瑛麗を捉えると、どこか恥じらうようにゆっくりと一礼する。
「わたくしのような者に、華やかなお着物が似合うはずもございません。格式ある皆様にこそ、相応しいと存じます」
奥ゆかしい声が余韻を残した。続ける言葉は、場にいる者たちを称賛する。
「特に、玉蘭様のお召し物はお美しく、気品がございますし。雪梅様の簪は御髪にも映えております。相応しい一品は、相応しい方の元にあるべきと存じますもの」
それらが王から賜ったものであることや、家門を現す装飾も添えられているのは周知。ではあるが、来たばかりの月華がそれを知っているとは。
賞賛を受け、まんざらでもない玉蘭が表情をやわらげて得意げに語る。妃たちも堰を切ったように言葉を交わし始めた。華やぐ空気。
場の流れを取られた瑛麗を、若い妃の一人が、くすりと扇を隠しながら笑った。その女は、入宮したばかり……勢力を増しつつある宰相の血縁だった。
「瑛麗様。私が思いますに……月華様は、ご自身の美しさだけで十分すぎるほどに、王の御心をお掴みになっているということではございませんか?」
グサリと、棘のある言葉が瑛麗に突き刺さる。周りの妃たちからは、忍び笑いが漏れた。誰も瑛麗に助け舟を出すものはいない。
「そんな、わたくしなど恐れ多いことですわ。皆様の足元にも及びません」
「私は月華様が大変好ましいと思っておりますよ、今度二人でゆっくりとお茶でも……」
瑛麗は顔には出さなかったものの、指先が微かに震えた。かつてならば、このような無礼な口答えは許されなかったはずだ。
王の寵愛という絶対的な盾を失いつつあることを、こんなところでも思い知らされる。結局のところ、心を許せる友などこの場にいないのだ。
(なんとか……そう、なんとかしなければ。わらわは……)
ああ、そうだ。すべてを失ってしまう。瑛麗にとっては、ここがすべてなのだ。今までも、そしてこれからも。この金色の鳥籠こそが、瑛麗の世界そのものなのだから。
ある日の午後、あえて瑛麗は月華の居の近くを通りかかった。
侍女によれば、あの娘は庭で読書をしているという。好機だと思った。
「まずは偶然を装い、言葉を交わし……あの小娘の化けの皮を剥いでやるとしましょう」
そう思い庭へ足を踏み入れると、果たして月華は藤棚の下で書物を広げていた。しかし、その手元には、とある曰く付きの古い琴が置かれていた。
ある亡き職人の作であり、その音は
(わらわが……あれほどあの御方にねだっても、ついに賜ることの出来なかった『幽の琴』を、まさか入宮間もない月華が手にしたというの!?)
一時だけ、借りて演奏することは出来たが、「音の深みを活かせぬ、お前にはやれん」とつれない一言で願いは退けられてしまった。
しかし、よく見れば、琴の弦が一本、ぷつりと切れていた。瑛麗の胸に、ふつふつと黒い喜びが煮えたぎるのを止められなかった。
天が己に味方した、と。
瑛麗は逸る心を抑え、努めて穏やかな声を掛けた。
「おや、月華。今日は良い日和ね、何を読んでいらっしゃるの?」
「これは瑛麗様。ごきげんうるわしゅうございます。このような場所でお目にかかるとは」
「ええ、すこし散策をしていたの。それにしても……その琴は『幽の琴』では? 素晴らしい音色よね。以前、わらわはその琴を借り受けて、王に演奏を披露したことがあるのよ」
瑛麗は、わざとらしく琴に視線をやった。切れた弦には気づかぬふりをして。
「そうでございましたか。実は陛下より賜ったのですが……わたくしのような未熟者には、あまりに畏れ多い品で」
「まあ、謙遜なさらないで。あなたほどの美貌をお持ちなら、きっと琴の腕も並び立つほどに素晴らしいのでしょうね。聞かせていただけないかしら?」
遠回しに外見だけだろう、と投げかけてやった。辺境の小領主の娘に、このような高尚な楽器を扱う教養があるはずもない。
「……わたくしの拙い腕前など、とても瑛麗様の前では」
「奥ゆかしいこと。あら? でも、弦が一本……切れてしまっているようね。なんと痛ましい、まさかあなたが切ってしまわれたの?」
瑛麗は、心配するような声音を作りながら、内心ではほくそ笑み、琴へと近づいていく。宝を賜ったばかりで、この不手際。
これで、しばらくはこの琴の音色も聞けまい。王の不興も買うだろう。
「瑛麗様。これは……そうなのです。わたくしの不注意で……弦に触れてしまった途端、このように……。誠に申し訳ございません。陛下の御心を思うと、胸が張り裂けそうですわ」
声は震え、白い頬にはらはらと真珠の涙が伝った。
あまりの痛々しい姿に、瑛麗は思わず言葉が詰まる。まるで、自分が悪者のように感じてしまうではないか。
自分は、不手際を指摘しただけなのに。
しかし、次に月華の可愛らしい唇から出た言葉に、瑛麗は耳を疑った。
「けれど、この琴は、とても古いもののようにお見受けいたしますが。もしかしたら、瑛麗様がお使いになっていた頃から、弦が弱っていたのかもしれませぬわね?」
それは純粋な疑問のように響いた。
しかし、明らかに「あなたが管理を怠っていた琴だから切れたのでは」という、巧妙な非難が隠されているように聞こえた。
「なっ……!何を仰いますの!わらわが扱っていた頃は、常に最高の状態で!」
その時だった。
ふいに庭園の奥から、数人の侍女を引き連れた王、景宗が姿を現したのだ。