王の表情は、明らかに不機嫌そうだった。
「何をしておるのだ、お前たちは。……何やら騒がしいではないか」
低い、地を這うような声に、瑛麗は背筋が凍るのを感じた。明らかな怒気。
「陛下! これは……その……っ」
瑛麗に、後ろ暗い所などない。
だが、思わず声を荒らげた瑛麗の姿は、傍から見れば、古い琴の不始末を若い姫に押し付けようとしている、嫉妬深い年長の妃にしか見えなかっただろう。
月華はさらに涙を溢れさせ、苦しむような声で泣いた。
「申し訳ございません、瑛麗様。わたくしが悪うございました。だからどうか、どうか……っ」
おまけに震え、瑛麗の袖にすがりつくような仕草までする。
さぁっと風が吹いた。二の句が継げなくなった間を埋めた、草花のざわめきは、瑛麗を責め立てているようだった。
「なにを謝っているのか、月華。余に申してみよ」
「陛下、わらわはなにもっ!」
「お前には聞いていないぞ。……余は、月華に聞いている」
「しかしっ! 陛下、この娘はっ!」
告げられたのは、「黙れ」とぴしゃりと切り捨てる刃の如き鋭さ。
瑛麗は知っている。こうなった時の王は、取りつく島などはないのだ。
ひっくひっくと哀れにしゃくりあげながら、月華は舌足らずになんとか言葉を紡ぎ始める。
「お見苦しい、ところを……誠に申し訳ございません。すべては、わたくしの不徳の致すところ、なのです」
「なんだと?」
「わたくしめが、この『幽の琴』の弦を、先ほど誤って切ってしまいました。瑛麗様は、それを心配してくださっていたのでございます」
「ほほう、『幽の琴』の弦を、とな。余が貸し与えたばかりなのにか」
「はい、ですから。ですから、瑛麗様は、なにも悪くなどございません。誤解などなさぬよう……っ」
どうして、月華が己を庇うような言い方をするのだろう。そう、何も間違ったことなど言っていないのだ。だからこそ瑛麗は戸惑った。
しかし、王の目は冷ややかに瑛麗に向けられていた。
「おお、そうなのか、瑛麗。……お前が、月華の琴を心配していた、と。それほどまでに仲が良かったとは知らなんだ」
滲む疑惑の色。まずい。このままでは、まるで何かをしたように誤解される。
「そ、その通りでございます、陛下。わらわは陛下が大切にされていた琴が傷ついたのをお見かけして、お声をかけたまでで」
「しかし、だ。普段のお前はこんなところに近寄らぬな」
「……うっ。それは、確かにそうなのですが」
「偶然、ここを通りかかり、その時に偶然、琴の弦が切れていたと。余はよく覚えておるぞ、『幽の琴』を欲しがってたことを」
ギョロっと威圧的に目玉がこちらを向いた。王は普段政治には無関心だが、逆らったものや裏切った者を許すほど、甘くはない。
定期的に不正を働きすぎた者を見せしめに粛清している。瑛麗は恐怖に震えた。
「嘘はないのだろうな?」
「もちろんでございまするっ、わらわが……わらわが陛下を裏切ることなどありえませぬっ」
必死に弁解する瑛麗の言葉を、月華がそっと遮った。
「お待ちくださいませ。瑛麗様は、とてもお優しい方なのです。わたくしがこの宮廷に来て間もない頃から、何かと気にかけてくださいます。先日の茶会の席でも、わたくしの装いが質素なのを心配されておりました」
「なんだと。月華、そなたの着物を貶めたと申すか」
「いえ! 自身の美しいお着物をお譲りくださるとまでおっしゃってくださったのです。ですから、純粋なご心配を……」
茶会の件をまさか、この折にあえて切り出されるとは。
王の眉間の皺は、さらに深くなる。
「そうかそうか、それは余の不徳であったのだろうな。侍らせている女が、着るものにも困っていると揶揄されるとは。はて、これは誰への当てつけであろうか」
「陛下、それは誤解でございます! わらわはただ、月華をっ!」
「黙れと言ったぞ、瑛麗。……これもお前の新しい『遊び』かもしれんが。そろそろ控えよ、かつて他の妃たちを追い詰めたような振る舞いを続けるのは、な」
遊び? 追い詰める? そこまでのつもりは、瑛麗にはなかった。確かに、すこしばかり意地悪な心はあったが。
ただ、自分が身に受けて当然であるものを、分不相応な者たちが受ける。それは一時の慈悲であるのだと教えてきただけ。そのつもりであった。
「そ、そんな……陛下。瑛麗様は、そのようなお方ではありませぬ」
なぜか庇う、月華の態度に不自然な点はない。そう、そして、なにも嘘は言っていない。
「ならば、なぜ弦の切れた琴の前で、瑛麗は荒げる素振りを見せていた? 月華、お前は涙を流し、その剣幕に怯えていたではないか」
だが、明らかに王のなかでの結論は出ていた。王の軽蔑に満ちた視線が、瑛麗の心を抉る。
違う、違うのよ! 瑛麗はそう叫びたかった。だが、声が出ない。その許可もない。
あまりの仕打ちに、目の前が白く霞んでいく。
今まで積み上げてきたもの、信じてきたもの全てが、どんどん崩れ落ちていく。項垂れる瑛麗。
「も、申し訳……ございません、陛下……」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、弱々しかった。
それは、事実上の敗北宣言だった。誇り高い
そして、その日の夜には、王宮に噂が駆け巡った。それは瞬く間に広がり、面白おかしく語られた。
「瑛麗妃が、寵愛を失った腹いせに、月華姫の宝である『幽の琴』を故意に傷つけ、その現場を王に見咎められた」と。
噂は尾ひれをつけ、瑛麗のこれまでの些細な意地悪さえも、陰湿な策略であったかのように語られた。「あの気位の高い瑛麗様も、とうとう落ちたものだ」「自業自得だわ」という囁きが、壁の向こう側から聞こえてくるようだった。
もはや、瑛麗を庇う者など、どこにもいなかった。