あれから、どれほどの夜が過ぎたのであろうか。
瑛麗はまるで魂の抜け殻だった、かつては艶やかだった黒髪も、今は櫛を入れる気力すら起きず、ただ重たく肩にのしかかっている。指で触れれば、枯草のようにばさりと乾いた音を立てそうだった。
食も細り、日に日に頬はこけていく。姿は枯れ果てた花を見るようで、瑛麗は鏡から目を背けるようになった。
(ああ、もうこんな女に……あの御方は見向きもしないでしょうね)
美しいものを偏愛する、あらゆる美に尋常ならざるこだわりを持つ景宗を想う。
絵も花も、歌も舞も、楽器も……寵姫さえも、王が愛でるのは、ひとえに『美』そのものへの執着からだ。色褪せた花に、あの御方が価値を見出すはずがない。
瑛麗の家は、その寵愛で成り立っていた側面が強く、後ろ盾を失った今、実家からの便りも途絶えがちだ。
「……きっと、わらわはもう誰にも必要とされてない」
多くの侍女たちは、もっと先の見える場所へと移っていったのだろう。
今は年老いた、乳母として幼い頃から瑛麗に仕えている者が一人、変わらず黙って身の回りの世話をしてくれるだけ。
老女は、励ますことも、昔を懐かしむことも、身を整えるようにも言わなかった。ただ、そこにいる。それが唯一の救いであり、また絶望の深さを際立たせるものでもあった。
(王の寵愛の証の品々と同じ、わらわは虚しく埃を被るだけ。朽ちるまで、このままであるしかないのならば……なぜ、なぜ、生きねばならぬのかしら)
訪れる者も稀な
真夜中にふらふらと庭へ出て、虚ろなままさ迷い出るのがすっかり癖となり。
「王の愛を求める妄執たる姿は、さながら幽鬼のようだ」と、口がさがない者たちは、陰口を叩いたのだった。
一方、月華は飛ぶ鳥を落とす勢いで、後宮における地位を確固たるものにしていた。
王である景宗の様子について、まことしやかにこんな噂がまことしやかに囁かれるようになった。
「王は、まるで初恋を知った少年のように月華様に夢中であらせられる。彼女の言葉一つで
真か偽か定かではない。しかし、そう噂されるほど、月華の影響力は増していた。
ただ、その寵愛を一身に受けているはずの、月華の行動はどこか不可解な点が付きまとっていた。
例えば、夜更けにこっそりと月華の閨を訪ね、茶菓子を届けようとした年若い侍女はこう話した。
「月華様が、真夜中に書庫に忍び込んでおられたのです。……それも、普段は誰も近づかないような奥深くで、分厚い書物を読み耽っておられたのです。月の光も届かぬ場所で、揺れる蝋燭の灯りだけを頼りに……そのお姿は、まるでこの世のものではないようでした」」
過去の家系図や政変の記録、さらにはこの国の成り立ちに関わる古い盟約についての記述であったという。
新しい妃が、なぜそのようなものに興味を持つのか。
また、別の日には夜警の兵が、奇妙な光景を目撃したと証言した。
「王の側近である、あの恰幅の良い
その男、林は、長く宮廷に仕える者であったが、収賄や職権乱用の噂が絶えず、いつ王の怒りに触れてもおかしくないとされていた人物だ。
それがなぜか、月華が廊下の角を曲がり、姿が見えなくなるまで深々と頭を下げていたという。
だがそれから、くだんの文官は生まれ変わったかのように真面目になり、横柄な態度を改め勤勉になったというのだから、決して悪いことではなかった。
正直なところ、後宮に入った姫が、政治に口を出すのは誰にとっても煙たいことであり、警戒心を抱かせるものだ。
だが、たまに奇行に走るくらいで、結果として宮廷内の空気を引き締めたり、不正を未然に防いだりする程度ならば、王の寵愛もあって誰も強く問題視することは出来なかった。
さて、問題はここからなのである。
そんな折、北方蛮族の鎮圧から帰還した若き将軍、
彼は武勇だけでなく、裏表のない実直な人柄から、民の信頼も厚く、王宮の華やかさとは無縁の、骨太な気風を持つ男であった。
また、暁勇が率いる『百竜騎』と言えば、その名を聞けば敵は震え上がると言われるほどである。(とはいえ、実際に空を舞う飛竜を百騎も有していたわけではもちろんなく、それでも精鋭中の精鋭であること疑いなかった)
そんな暁勇にとって、後宮の愛憎劇など遠い世界の出来事であったが、物事には例外というものがあった。
謁見の間、勝利の報告を終え、王からの労いの言葉を受けた直後のこと。
「此度の働きも、まことに見事であったな。暁勇将軍。褒美は望むものを与えようぞ」
「はっ、ありがたき幸せにございます。……ところで、陛下。一つ、お尋ねしてもよろしいか?」
「なんだ、申せ。そなたの働きに免じて、多少の無礼は許そう」
「では、遠慮なく。……陛下は何ゆえ、月華という娘を後宮にお入れになられたのでございますか。ご説明を賜りたく存じます」
暁勇の声は、静かで落ち着いていたものであったが、その場にいた誰もの耳に明瞭に届いた。そして、故に凍りついた。
「……んん? なんだと?」
景宗は、最初、何を尋ねられたのか理解できなかった。だが、すぐにその表情は険しいものへと変わる。
「おい、暁勇。貴様、今なんと言った? 王の閨のことについて、臣下であるお前が口を出すと申すか? それは不敬であろうよ」
「不敬は承知の上でございます。ですが、陛下。己は尋ねる必要があります」
「なぜだ?」
「月華殿は……正式な婚約こそまだでありましたが、妻にする約束があった女性なのでございます。これは月華殿の父君からの申し出でありました」
暁勇は、臆することなく言葉を続けた。真摯な瞳が、まっすぐに王を見据えている。
「なんと。……それは初耳だな」
対して景宗は、一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに興味深そうな、いや、どこか愉悦を秘めたような薄笑いを浮かべた。
「では、なぜ手早く婚約を交わさなかった?」
「月華殿とは何度か言葉を交わした程度ではありますが、互いに合意はありました。父君は尊敬すべき方、義父と仰ぐに不満などなく。しかし、婚約の証に相応しい贈り物を用意するのに、手間取ったのです」
「ほほう。それは大層、苦労して準備を重ねたのであろうな」
「無論です。そして、姫を迎えに参ろうとした矢先、彼女は王宮に召されたと聞きました。父君は『役人が目を付け、王命とあっては逆らえなかった』と力なく申しておりました。ですが、何かの間違いではないかと思いまして」
「間違いではないぞ、暁勇。その姫、月華は、今や余の最も愛する女だ。彼女の美しさと聡明さは、この後宮でも比類なきものよ。……そうか、お前が手に入れ損ねた宝玉であったか。それは、さぞ心残りであろうな」
王は、まるで手柄を誇るかのように、どこか暁勇を試すような視線を送る。
暁勇はそれに取り合わない。
「月華殿は、このような虚飾に満ちた場所で輝く方ではございません。彼女はもっと……清らかで、素朴な場所でこそ、真価を発揮するはず」
「ほう、清らかで素朴、か。お前こそ、月華の何を知っているというのだ? 月華は、この玉座の隣こそが相応しい娘よ」
「……陛下。己が積み上げてきた武勲や功績は、それほど軽いものでありましょうか?」
「余とて、家臣の嫁を奪ったなどと言われては敵わん。だが、一度定まったことは、今更なかったことにもならん。話に筋はある、認めよう。だから無礼は見逃す」
「つまり、どうにもならぬ。と仰せですか」
「どうにもならぬ、か。暁勇、世の物事はどうにもならぬことだらけよ。大事だった娘が露と消えずに、可憐なまま生きている。……それで満足せよ」
なぜか、最後に掛けた王の言葉には嘲りだけでなく、哀れみが奇妙に混じり合い、穏やかですらあった。
場に満ちた威圧的な空気感に、周囲の文官たちが蒼白になるなか、その謁見は終了した。