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第6話 深淵の囁き、歪な絆(2)

 ――その夜も、瑛麗は虚ろに、窓の外に浮かぶ冷たい月を眺めていた。

 あの月華の瞳のように、全てを見透かし、己を嘲笑っているかのような、あの月を。

 指先は氷のように冷え切り、己の心臓の鼓動だけが、かろうじて自分がこの世に存在していることを知らせていた。


 コツ、コツ、と控えめな音が扉を叩いた。

 瑛麗にとってそれは鈍く遠い響き、意識の膜を破るまで時を要した。

 こんな時間に誰だというのか。今さら、己を必要とするものなどいないだろうに。瑛麗はぼんやりと疑問に思った。


「どなた……?」


 己の喉から発された声は、古井戸から生じたかと思うほど擦り切れそうだ。

 なのに、返って来た声は、露に濡れる花みたいに、甘く湿り気を帯びている。


「わたくしでございます、瑛麗様。月華でございます」


 その名と声を聞いた途端、背筋を氷の爪でなぞられたかのような悪寒が走った。もはやあるのは、生理的な恐怖心。それこそ悪夢の元凶が見捨てられたこの玉瑛宮に何の用だというのか。

 しかし、不思議と拒絶の言葉は出てこなかった。いや、もう相手を睨みつけ、苛烈に拒絶できるほどの気力は、瑛麗の身体にも心にも、もはや欠片も残されてはいなかったのだ。


「……好きに、お入りなさい。もう、何の意味もないのだから」


 力なく、吐息と共にこぼれ落ちた許可だった。

 部屋に控えていた年老いた乳母は、驚いたように瑛麗の顔を一度見たが、結局は口を開かずに頷くと、重い扉をゆっくり開けた。

 きぃ、と蝶番の軋む音が、静まり返った玉瑛宮に不気味に響き渡る。



 ゆらり、と影の中から姿を現したのは、間違いなく、ここ数か月の悪夢の中心――月華。

 今宵の月華は、これまでに見たどの姿よりも異様に妖艶で、見る者を惑わす濃密な雰囲気をまとっていた。

 普段は簡素な、それでいて素材が引き立つ装いを好む彼女が、今宵に限っては違った。

 天上の月光を丹念に織り込んだような、淡く、銀に輝く薄絹の衣を羽織っている。闇の中ですら、白磁の肌は雪のように浮かび上がり。蝋燭の頼りない揺らめきを受けて、なまめかしく艶めいていた。

 長く豊かな髪は射干玉ぬばたまの漆黒。滑り落ちる柔らかな影は、もはや自分から失われたもの、暗所がりに魅せる髪色に瑛麗は見惚れた。


「二人きりで、お話させてくださいますか? 少し長くなるやもしれません」


 しなやかな猫のように歩み進めた月華は、有無を言わせぬ絶対的な響きでもって、瑛麗の乳母を下がらせた。ああ、もう彼女に逆らえるものなどいないのだ。


(今夜に限っては、身だしなみを整えて……挑みたかった)


 月華が動けば、不思議な花の匂いが薫る。虚ろだった意識を、無理やり覚醒させるような抗いがたいもの。それが残っていた誇りを呼び覚ました。

 きっと、これが誇り高くあれる己の最後かもしれない、そんな予感がした。


「何の御用かしら、月華。わらわを嘲りに来たの? それとも、哀れな敗残者に慈悲深さを見せるため?」


 月華は何も答えず、しん、とした部屋の中で近づいてくる。一歩、また一歩。


「ふふ、ご自分の栄華を心ゆくまで噛みしめる使い道には……少々、遅かったのではないかしら? ご覧の通り、もう使い物にもならないほど、みすぼらしい有様ですもの。ねえ、なにか答えなさいよ」


 乾いた唇。含む棘にも諦めが滲む。今さら、何を言っても滑稽だ。


(なんだかにじり寄る、獣に見えて来たわ。わらわを、これから噛み殺しに来るみたいね)


 しかし、床に力なく座り込んでいる瑛麗の目の前まで来ると、月華はふわりと衣擦れの音をさせながら、ゆっくりと膝を折った。埃りっぽい床に膝をつき、同じ目線の高さまで。

 前に見た時は、無垢を装っていたその瞳が、今夜はまるで深い森の泉のように、底知れぬ揺らぎを湛えている。憐憫でも嘲笑でもなく、もっと複雑で、そしてどこか熱を帯びた、吸い込まれそうな光。 

 顔が、ぐっと近づく。間近で見れば見るほど月華の瞳は、やはりどこまでも神秘的で美しく、そして……恐ろしかった。


「瑛麗様、お痩せになりましたわね。……お顔の色も優れないご様子」


 慈しむように優しい声は、そっと鼓膜を撫でた。脅かさないようにと、想いやるように。


(なんて、残酷なことをするのだろう。……この娘は)


 罵ってくれれば、敵として未だ見てもらえたと思えた。哀れまれるなら、力を振り絞ってでも、怒ろうと努力できたかもしれない。

 こんな真綿で首を絞めるような優しさを前にして、何が出来ようか。

 瑛麗は、ふい、と顔を背けた。


「お久しゅうございます、瑛麗様。わたくしめは、お加減が優れぬと聞き及び。ただ、ひたすらに身を案じて。どうしても、ここに参らずにはいられませんでした」

「さぞ、見苦しいでしょうね。ええ、きっとあなたが想像していた以上に。だけど、この瑛麗がどうなろうと、あなたには関わりのないことでしょう」

「いいえ。一度たりとも、関わりがないなどと思ったことはございません。少なくとも、このわたくしは」


 きっぱりと力強く、月華は言い切った。

 思わぬ響きに、顔を合わせてしまう瑛麗。表情は読み取れないが、変わらず瞳が射抜いてくる。見る者を捕らえて離さぬ、引力を持つ瞳が。


「あなた様のそのおみ足も、指も、まるで冬の枯れ枝のようではございませんか。ここ数日、まともなお食事も喉を通っておられぬとは…まことであったのですね」

「枯れ枝……そうね。もう誰の目にも留まらぬ、醜いだけの存在だわ」

「……このような物言いをしたのに、怒ってくださらないのですね」


 そして、月華はその白魚のような指を伸ばし、瑛麗の乱れた髪を一房、そっと掬い上げる。


「この美しい髪も、お痩せになったお顔も、お身体も。わたくし、胸が痛みます。まるで、手入れを忘れられた牡丹のようで」

「手入れなんて、何の意味もない。愛でる者がいなければ、花に価値などないのよ」

「いいえ、それは違います。わたくしは……入宮するずっと前から、瑛麗様のお噂を胸を高鳴らせながら伺っておりました。後宮で最も気高く美しく、そして最も王に深く愛されたお方なのだ、と」

「……もう過去の話よ。今のわらわは、ただの年老いた、色褪せた女。王の寵愛という陽の光を失い、もう、誰からも見向きもされない存在」


 自嘲の言葉が、止めどなく口をついて出る。それは紛れもない真実、のはずだった。


「本当に、心の底から、そう思っていらっしゃるの?」


 月華の甘い蜜が、瑛麗の心の奥底に問いかけ染みていく。

 そして、月華はそっと、本当にそっと、雛鳥を包み込むかのように。震える枯れ枝の手へと、自らの白磁のような手を重ねた。

 ひやりと清冽で、しかし芯に熱を秘めたような、不思議な感触。


「瑛麗様は、美しいままよ。たとえ、王の寵愛という陽を失ったとしても……その気高い本質は、何一つも変わってはおりませんわ」

「……なにを、言っているの?」

「陛下は薄情なお方です。あんなにも瑛麗様を愛でておきながら、新しい花が咲けば、そちらにばかり目を向ける。まるで、節操のない蝶のようではありませんか」


 訳が分からなかった。自分を散々、陥れておきながら、今更こんな言葉を囁いてくる。


「よろしいですか、瑛麗様。花々は愛でる人間が変わったからと、美しさが損なわれるものでしょうか。宝石は持ち主を見て、輝きを失うのでしょうか。雪は、空は、海は……」


 月華は重ねた手にさらに力を込めた。掬い上げた髪をそっと自らの潤んだ唇元へと運び、口づけると深々と息を吸い込んだ。どこか背徳的で、官能的な仕草。

 そこから、瞳の奥を覗き込むようにこういったのだ。

 乾いた心にはあまりに強い猛毒、抗いがたい運命の宣告。


「――いっそ、わたしのほうがよいのではないですか?」


 雷に打たれたような衝撃だった。

 月華の瞳は、冗談を言っているようには到底見えなかった。そこには、真剣で、どこか狂おしいほどの熱が宿る。

 同情でも憐憫でもない。もっと別の、どろりとした、それでいて抗いがたい何か――。


 言葉が紡げぬ、瑛麗。

 月華は妖しく、勝ち誇るように微笑んだ。闇夜のなかでも陰ることない魅惑的な


「どうなさいましたの、瑛麗様? そんなに驚いたお顔をなさって」


 ゆっくりと、月華は瑛麗のやつれた頬に手を伸ばす。指先が触れるか触れないかのもどかしい距離で、ぴたりと止まった。

 瑛麗は、身動き一つできなかった。

 目の前にいるのは、自分の全てを奪った憎い女のはずなのに。

 なのに、ああ、それなのに……その魔性の瞳から、目が離せない。その声が、死にかけていた心を奥底から、激しく揺さぶる。

 それは破滅への誘惑、絶望の淵に垂らされた蜘蛛の糸、それとも……。


「わたしが。わたくしめが、あなた様を必要としておりますのよ」


 ――もっと別の、名状しがたい感情なのか。

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