結局のところ、月華の囁きは、甘い甘い上質な毒だった。
乾ききってひび割れた心に染み入り、理性を抗いがたい
あの日以来、月華は人目を忍ぶように、何度となく玉瑛宮を訪れるようになった。
初めは警戒し、なんとか突き放そうとしていた瑛麗だったが、携えて来る鮮やかな季節の花々、己のためだけに詠みあげられる情緒豊かな詩の一節。そして、なかなか寝付けぬ夜のために特別に練られたという香。
極めつけは、「あなた様を、この月華が心の底から必要としておりますのよ」という、熱の籠る睦言染みた投げかけの数々。触れるたびに、頑なな心が確実に解されていくのが必然だった。
「瑛麗様は、もっとご自分を大切になさってくださいませ。この月華が、あなた様をいつも想っておりますが故に」
長年仕えてきた忠実な侍女のように、あるいはそれ以上に親密な手つきで、月華は艶の失いかけた髪を丁寧に梳いてくる。手ずから化粧道具を広げ、やつれた頬に薄く白粉をはたき、血の気の失せた唇に瑞々しい紅をそっと差した。
さらに眠っていた夥しい贈り物から、的確に瑛麗にもっと似合うものを選定すると、新しく命を吹き込むように、手際よく着付けていく。
「さあ、瑛麗様、こちらへ。ご覧あそばせ。少しお痩せになりましたが、それすらも儚げな魅力に変えてしまう。これほどまでにお美しい方は、わたくしは、あなた様をおいて他に存じ上げませんわ」
促され、いつぶりにか、恐る恐る鏡の中の自分を見た。確かに、以前よりは僅かに血の気が戻り、瞳にも微かな光が宿っている……ような気がした。
(でも、これでは着せ替え人形のようではないの)
ろくに返事などしなくても、月華は小鳥が
いったい、この娘は何が楽しくてこんなことをするのだろうか。
「こんな世話を焼いて、あなたに何の得があるというの? わらわに何の力もないことはわかっていように」
「お立場など、些末なことでございます。それよりも、ただ傍にいられることが、月華には何物にも代えがたい喜びなのです。そう、あなた様は……わたくしにとって、唯一無二の、掛け替えのない御方なのですよ」
共に、月華がそっと瑛麗の手を握る。その細くしなやかな指には、やはりどこか必死さがある。
(唯一無二、とは……果たして、どんなものであるのかしら?)
もしかしたら、散々持ち上げておいて、裏切るつもりなのかもしれない。
気持ちが向いて、そのつもりになった瞬間に、もし手を離されたら。そう思う怖さもあり、しかし、誰も決して与えてくれなかった無条件の肯定は心地よい。
瑛麗は自身が渇望していたものは、このような在り様なのかもしれないと、恐ろしくも思い始めていた。
(かつて我が王が、わらわに囁いた数多の愛の言葉よりも。なぜこの娘の戯言の方が、こうも胸に響くのだろう)
沸き立つ疑問は、ざわざわと落ち着かない気持ちにさせた。
それはまさしく干ばつの後にようやく降った慈雨のようだ。燻る不満や怒り、理解されぬ孤独と共鳴し、奇妙な一体感を生み出していく。
月華は巧みだった。瑛麗が誰にも見せなかった心の傷、忘れかけた幼い頃の思い出さえも、するすると引き出していくのだから。
いつしか瑛麗は、一人の傷つき、打ちのめされた女として、赤裸々に弱音本音を月華にだけは吐露するようになる。
「わらわには、もう何の威光もないの」
「ええ、陛下はもう見向きもなさいませんでしょう。ですが、それも結構ではございませんか。もはや、気まぐれな男の顔色をうかがう必要もないと言うことですから」
「別にそれが嫌ではなかったわ。幼い頃から、そうあれと。それがあるべき姿と思っていただけだもの。そう、わらわは愛されるために努力するのは嫌ではなかった」
「けれど、多くのものを犠牲にされたのですね。ご自分の気持ちを押し殺し、理想の『王の妃』を演じ続けて。そのご実家すら、便りが途絶えてしまわれたのでしょう?」
「……そう、ね。もう、皆、わらわのことなど忘れてしまったのよ」
「でも、それも良いことでございます。瑛麗様を真に理解せず、利用しようとして来た者たちとの腐れ縁が切れただけですから」
髪を香油を丁寧に馴染ませ、趣味の良い簪を選んで挿す。化粧を念入りに直し、指先ひとつまで気を配る。
甲斐甲斐しい世話の合間合間に、月華の甘言は囁かれ、必死に築き上げてきた自己認識を内側からゆっくりと溶かす。今の瑛麗に都合の良い形で、心地よい音色で。
そして、月華は部屋を訪れると日課のように、すっと隣に恭しく跪いてから、情欲のこもった瞳でこう問うのだ。
「お考えいただけましたか? あの夜の、わたくしの言葉を」
「……あなたは何を企んでいるの? わらわを弄び、さらに貶めようというのなら――」
「ならば、どうしたら信じていただけるのでしょうか。美しいと仰るこの顔を焼けばよいでしょうか? 短刀で耳を削ぎ、心の臓を突けばよいでしょうか? もし、望まれるのなら、暫しお待ちを。どうかもうすこしだけ、瑛麗様のお傍で過ごす時間をお許しくださいまし」
熱烈な恋文、というにはあまりにも、じっとりと粘つくような狂気を孕んでいる。疑えば、真顔でそう言い放つものだから、瑛麗はいつも言葉に詰まるしかない。
「そんなことを軽々しく、口にするものでないわ」
ようやく絞り出すように口にするのが精一杯。
すると、月華はふっと顔を綻ばせ、子供のように無邪気に破顔するのだ。
「心配してくださいますのね? ……ああ、なんてこと。それだけで、月華は生きていけます」
もはや、どちらが主人で侍女なのか、わからないような関係。
己が侍らせているのか。月華に従わせられているのか。戸惑いながらも、この関係から脱却できなくなっていく。
「ひとつ聞きたいのだけれど」
「はい、瑛麗様。何なりと」
「あなたがいつも身にまとっているこの香りは……なにかしら? どこか懐かしくて、とても目が醒めるような気がするの。でも、不思議と心が落ち着くのよ」
「……そんなこと、ですか。
あからさまに落胆した月華の態度。瑛麗はかすかな違和感を覚えながらも、言葉を続けた。
「そう、夜来香……。あなたに、とてもよく似合っているわ。きっと、この香りを嗅ぐたびに、わらわはあなたのことを思い出すのでしょうね」
「さようですか。瑛麗様も、わたくしめが夜月の花に似ている、と?」
「……なにをそんなに不満そうにしているの? 褒めているつもりなのだけれど」
「申し訳ございません。わたくし、夜も月も嫌いなのです。だって……太陽があるところでは、輝けないような、弱いものありましょう? なくてよいのです、そんなもの」
珍しく、瑛麗が褒めても月華は機嫌を直すどころか、物憂げな表情を崩さなかった。
「……どうせ相応しくないのです。わたくしめは」
いつも向けられている好意が、ふっと陰ったような気がして、瑛麗はどうにかして月華の機嫌を直せないものかと、無意識のうちに考えを巡らせていた。
かつて、王を繋ぎ止めるために費やしていたであろう気遣いのすべてが、今やこの謎めいた若い姫に向けられていることに、瑛麗自身、まだ気づいていなかった。
もし、己の心にもっと早く気付いていれば、何かが変わったのだろうか。