「わたくしは……そう、確かにお会いしたことがあります。そう、もう十年とすこしになりましょうか。忌まわしい日です」
おどろおどろしく紡がれる言葉は、足元から這い寄って来るようだ。舌が連ねるたびに、一言一句に血が滲む。
「王の軍は、わたくしの国を滅ぼしたのですよ。我が、一族を皆殺しにしたのです。まだ、ほんの子供でございました。燃え盛る屋敷が、町が。そう、地獄です。顔見知りが無残に殺され、奪われ、酷い仕打ちを受け。阿鼻叫喚でございました」
月華は、ゆっくりと瑛麗へと向いた。瞳はからからに乾き、決して消えることのない業火が宿る。幼き日に見た地獄が宿る。
「命からがら、侍女がわたしの手を引きました。裏山へと逃げ延びようと。侍女は明日に結婚を控えていたのですが、その婚約者も時間を稼ぐために死にました。首は野ざらしにされたそうです。それでも、侍女はわたしを励まし、走りました」
戦地からは逃れたが、道中で侍女は悪漢に切り殺された。月華を庇って最後まで勇敢だった。
頼りのないなか、幼子は遠くにいる縁者だけが望みだった。
「しかし、です。無茶な話なのですよ。幼子ひとりが、どうして賊が溢れるような荒れた道を、何日も生き延びられるというのでしょう。食べるものもなく、眠る場所もなく、ただ震えるだけの夜が続きました。おぞましい、ああ、おぞましい夜っ!!」
月華が叫ぶと、なんと雷鳴が呼応した。閃光は強烈に照らし、乱れる太鼓の音が続く。
そこで、ふっと遠くを見るような素振りを月華は見せた。
「そこに現れたのが、あなた様だったのですよ。……瑛麗様」
なぜ、今になって記憶が繋がりかけたのか。瑛麗は理解した。
そうだ、あの日も雷が鳴っていたからだ。
そうだ、あれは……王宮に入ってまだ間もない頃。公務で遠出した帰りに、ふと立ち寄った荒れ寺の近くで……。
「泥にまみれ、着物は破れ、悪漢どもに今まさに引きずり倒されようとしていた、小さな影。それが、かつてのわたし。その時、あなたが颯爽と現れたのです。供の者たちに命じ、悪漢どもを追い払い、そして……汚れたわたしを、ただ、慈悲深い眼差しでご覧になった」
それは違う。瑛麗にとって気まぐれ、だった。本当に単なる気まぐれ。
この立場で、公務で外に出ることなど、そう多くはない。そのなかでも時折、誰かに慈悲深いことをしたくなる。そんな気分もあった。
だから、誰になにをしたかなど、いちいち覚えていないのだ。
「あなたはそっと羽織を被せると、温かいお湯と、僅かばかりの食事を恵んでくださいました。そして……これを」
月華は、そっと自らの懐から、小さな紐付きの布袋を取り出した。中から現れたのは……一粒の、淡い翡翠の雫の耳飾り。
「覚えておいででしょうか。あなた様は身につけていた二つのものをくださったのです。『路銀の足しにしなさい』と。戴いた簪は手離すしかありませんでしたが、これだけは……これだけは、と肌身離さずにおりました」
瑛麗は、記憶を遡ろうとする。首筋の傷は確かに、覚えがあるのだ。
でも、定かな記憶ではまるでなく。だから……そんな気持ちを向けられるには、値しないことなのだ。どちらも飽きた装飾品だったのだろう。
(違う、ちがう、ちがうっ! わらわは……そんなっ、そんなつもりじゃなかったっ!)
過去のほんの気まぐれな善意が、命を救い、そして……今、こうして、歪んだ形で自分に返ってきているというのか。
「もうここまで話せばおわかりのことでしょう。縁者の元に辿り着き、ひそかに名を変えて養女となり、
先ほどの激情はどこへやら。語る口調は普段の他愛ない噂話と変わりない。
しかし、その瞳の奥には業火が、未だ衰えることなく燃え続けている。きっと、消えるなく何年も。
雷鳴は遠ざかったが、雨音はしとしとと続いていた。熱に浮かされた身体には、あまりに強烈過ぎる真実。
「なら……なぜ王宮に、来たの?」
「役人が、わたくしに目を付けたのは偶然でしたが……そうですね。どうするか、を決めるには良い機会でした。『
選択肢はいくつかあった。と、
本当に何かをやろうと思えば、いくらでも方法はあったのだと。準備だけなら数えるのが馬鹿らしくなるほどに重ねて来た、と。
「そしたらどうでしょう。愚かで移り気な王は、あなた様を慰みものにし、挙句の果てには飽きた玩具のように打ち捨てた。『
ようやくわかった。穏やかに聞こえる美声は、慟哭なのだ。
賢かった幼子が憎悪と愛によって煮詰められ、未だに苦しんでいる。
「確信したのです。『月華』はあなた様と『
そこには、瑛麗が幻視した、無垢で儚げな姫の姿はどこにもなかった。
ただ、復讐の炎にその身を焦がし、愛する者を求めるあまり狂気に染まった、一人の女が立っている。
血塗られた愛の告白は、あまりにも純粋で、あまりにもおぞましく、そして……瑛麗が忘れかけていた「誰かに強く必要とされたい」という渇望を、危険なほどに満たしていく。
もはや、この娘を月に似ているなどとは思わない。深淵だ、淀んだ沼底に燃え盛る地獄が沈んでいるのだ。