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第11話 終焉の華、紅涙に染まる(1)

 やけに静かだった。

 宮廷内に渦巻く空気は、限界まで引き延ばされた弓弦のごとく張り詰め、解き放たれるその時を待つ。家臣たちの不和は、暴発寸前だった。

 いつ内乱の烽火が上がるのか、あるいは、猜疑心に満ちた王が、粛清ウに乗り出すのか。どちらに転んでも、多くの血が流れることは避けられそうにない。

 家臣たちは、己の保身か、あるいは派閥争いに明け暮れ、この国の危機的状況を真に憂う者は、あまりにも少ない。


 数少ない憂う者、暁勇は忠誠と正義、淡い想いの狭間で揺れ動いていた。ことを正確に掴んだわけではない。が、月華の父は語ってくれたのだ。


「大恩ある王の忘れ形見、かの国が滅びようとも、どうして不義理を働けましょうか。しかしですな、暁勇殿。この老いぼれは、もう、あの娘を本当の子と思っておりまする。だからどうか、どうか……っ!」


 言葉の端々から滲み出る、養父の月華への深い愛情と、行く末を案じる悲痛なまでの願い。

 月華が滅ぼされた国の姫であるとは、そこまでの秘密が隠されているとは思わなんだ。なればこそ。今起きていることへの確信も持つことが出来た。

 さらなる調べも、既についている。最も有力な証言者となったのは、宮仕えの長い一人の老侍女。奇しくも、瑛麗の乳母だった。


「将軍様……どうか、瑛麗様をお救いくださいまし。あの月華という娘は、恐ろしい魔性のモノにございまするっ! 麗様は、あの娘に心を絡め取られてしまわれて……!」


 乳母の言葉は、恐怖と混乱に満ちており、断片的ではあった。

 だが、そこから暁勇は、月華が瑛麗を巧みに懐柔し、何らかの計画に利用しようとしていること、そして瑛麗自身が精神的に追い詰められていることを察知した。

 法や秩序だけでは救えないものがある。それも事実。ならば、己の信じる道を往くまでか。

 そう、暁勇が王宮を思案顔で歩いていると、不意に声を掛けられた。

 それはここにいるはずのない人物だった。


「お久しゅうございますね、暁勇将軍」


 はっと振り返ると、そこにいたのは月華であった。奥御殿の最も深い場所で、王の寵愛を一身に受けているはずの彼女が。

 共もなく音もなく、物陰からぬるりと現れるその様は、幻影か、はたまた真実、魔性のモノだったのか。

 この殺伐とした王宮の中にあって異質。ひんやりと澄んでいながら、どこか甘く、人を惑わすような香りさえ漂ってくる。


「月華殿、これは。いったいどういうことですかな? あなたがこのような場所におられるとは」

「少々気晴らしに歩いていたら、迷い込んでしまいましたの。……いつ以来でございましょうか。こうして将軍様と二人きりでお話しするのは」


 するり、と上質な絹が擦れる。軽やかに近づいてくる足取り。否応もなく、暁勇の警戒心は高まる。


「王の寵姫が、軽々に奥御殿を離れるのは感心いたしませぬな。ましてや、今のこの王宮の状況を考えれば、なおさら」

「あら、将軍様は、わたくしの身を案じてくださるので?」

「……万が一のことがあっては、王への申し開きが立ちませぬ故」


 月華は、くすり、と喉の奥で笑った。戯れを愉しむ猫のような立ち振る舞い。


「相変わらず、お堅い方ですこと。ですが、わたくし、そのような将軍様の真っ直ぐなところは、嫌いではございませんでした」

「戯言はそれくらいにしていただきたい。もし、何か御用がおありなら、手早く済まされよ。某も暇ではない」

「実直ですね。……皆がそうであれば、よかったのに」


 思案するようなそぶりを見せてから、月華は言葉を続ける。


「実は、警告に参りました。暁勇将軍、あなたは遠からず処断されることになるでしょう」

「……なんですと?」

「謀反の疑いです。本当の理由はさておき、嗅ぎまわり過ぎましたのね」

「それは、からかってるのではありますまいな?」

「そもそも、一度は陛下と『女』を取り合って表立って事を構えた間柄。その後で、王宮の周辺をこそこそと探り回れば、覚えが悪くなるのは道理ではございませんか?」

「むぅ、それは確かに」

「陛下は聡明な御方。ましてや、よからぬ噂の耳に囁く者がいれば、気付かぬはずもないでしょうに」


 月華は、まるで他愛のない噂話でもするかのように続ける。


「もう決まっていることなのです。次の遠征の後、あなたは死にます。少なくとも、王の頭のなかでは筋書きが決まっておられるようです」

「世迷言を。陛下が、そのような短慮な判断をなさるとは思えぬ」

「まさか、ご自身が王に疎まれていることにも気づけぬ方でしたか? ……だとしたら失望を禁じえません」


 抑えきれない苛立ちと、じりじりとした焦り。暁勇の胸中で渦を巻く。

 目の前の娘は、素朴な少女とはあまりにもかけ離れている。それは己の幻想だったのかもしれない。だが、時折よぎる深い悲しみの色を見逃すほど、鈍感ではなかった。


「暁勇将軍は、月華姫を諦めきれないご様子。このままでは、力ずくで奪おうとなさるやもしれませぬ。そう囁く者、なんと多かったことか。民から支持を受ける若き将軍とは、嫉妬を一身に受けて大変でございますね?」

「フム。その囁き、半分、事実である辺りが悔しいところだな」

「さよう、ですか。……これは思わぬ切り返しです」

「結局、なにがしたいのだ。そなたの真の目的はなんだ。その囁きやらも、そなたが仕組んだか?」


 暁勇は実直な男だ。小細工は好まない。だからこそ、ただ、真意を尋ねる。たとえ相手が誰であったとしても。

 その真っ直ぐな問いかけに、月華は僅かに目を伏せ、切れ長の美しい瞳に、はっきりと深い憂いを宿した。


「囁きが……わたくしの意志だけで起きるような清浄な国であったなれば、腐敗など起こりませんでしょう。なぜ、か弱いわたくしだけに負わせになろうとするのです」


 本心からの嘆きにも聞こえた。演技なのか、僅かに仮面が剥がれたのか、暁勇には判断がつかない。


「この国で起きていることのすべてが、そなたの責任かどうかと問われれば、おそらく違うのだろう。長年積み重なった膿が、今まさに噴き出そうとしているだけなのかもしれぬ。たとえ、そなたが、その腐敗を加速させる引き金になったのだとしてもな」

「そうですね……もしかしたら、わたくしめは、歴史の書には『傾国の姫』などと、不名誉に記されることになるやもしれません。それもまた、わたくしが背負うべき運命なのでしょう。いたしかたなきことでございます」

「……やはり、この国を、その手で転覆させるつもりか」

「転覆。そう聞くと、まるで浮かぶ船のようですね。不思議な言葉。ですから、ただの女にそんなことは出来ませんよ、暁勇将軍。しかし、病に蝕まれた樹木を放置した者たちに、『義』などありましょうや?」


 月華は、するりと言葉巧みに核心を逸らす。その様は、まるで掴もうとすると姿を変える霞のようだ。


「ただ、そう。ここに参りましたのは。……ひとつだけ、将軍様にどうしてもお願いがございまして」

「……願い、だと? そなたが、この某に?」

「はい。もし、もしも、ほんの僅かでも、かつてのわたくしめに憐憫の情をお持ちくださるのであれば、でございますが。万が一の時は、どうか父母をお頼みしたく」

「やめろ、そんなつもりはない」

「それと、もうお一方。この王宮に囚われ、出口の見えぬ闇の中でもがき苦しんでいらっしゃる、ある尊き御方を……どうか、お救いいただきたく……」


 しかし、月華はその『ある御方』の名を、決して告げようとはしなかった。そして、ふわりと柳のようにしなやかに身を翻す。


「待て、月華殿! 聞き捨てならぬ! もし、そなたが本当にそのような大それたことを企んでいるのなら、某はこの命に代えても!」


 暁勇が鋭く踏み込み、月華の細い腕を掴もうとした刹那、月華はふわりと風のように一度だけ振り返った。

 その顔には、先ほどの冷徹さとはうって変わって、壊れ物を慈しむかのような、儚げな笑みが浮かんでいた。

 それは、かつて暁勇が焦がれた少女の面影を、僅かに感じさせた。


「あなたのその真っ直ぐさが、時折、羨ましく思うことがございました。でも、覚えていてくださいまし。わたしが本当に守りたいもの、その為ならば……月華わたくしは、魔性のモノにでも、悪鬼にでもなりましょう」


 その言葉を残し、月華は完全に闇に溶け込んだ。

 後に残されたのは、暁勇の胸に深く突き刺さった疑念と焦燥、そして……あの忘れられない、甘く危険な夜来花の香りだけだった。

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