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第13話 終焉の華、血涙に染まる(3)

 その頃、玉瑛宮にも、騒乱は容赦なく届いていた。死神の足音が近づいている。

 年老いた乳母は、顔を床に突っ伏し、意味をなさない言葉を繰り返しながら、ただひたすらに神仏に祈りを捧げている。

 しかし、傍らにいる瑛麗の心は、不思議なほどどこか凪いでいた。

 瑛麗の脳裏には、嵐の日の雷鳴と共に鮮やかに蘇る言葉があった。


 ――月華はあなた様と、汚れた娘わたしを苦しめた全てのものに、相応の報いを受けさせてやる。


 とうとう始まってしまったか。あの日から、いつかは来ると思っていた。

 互いに言葉少なに、しかし濃密な時間を過ごす中で、瑛麗は、月華の口数が徐々に減っていくのを感じ取っていた。それは来るべき日と月華の決意が、いよいよ固まった証だったのかもしれなかった。


「月華……あなたは、やはり止まらない。わらわのために……修羅の道を選んだというのね」


 瑛麗が望んだわけではないのだ。しかし、「誰がため」であり、そして「誰のせい」でこの惨劇が起きているのかと問われれば、間違いなくその一端を担ったのは己にある。

 もし、このまま何もせず、怯えながらただ夜が明けるのを待つだけなら、月華の運命はどうなるのだろう。

 万が一、計画が失敗すれば、月華は反逆者として捕らえられ、想像を絶する無惨な末路を辿ることになる。

 女としての尊厳はことごとく踏みにじられ、見せしめにされ、そして彼女を育てた心優しき義理の両親や、縁者一族郎党が、根絶やしにされることとなるだろう。


 あるいは、成功したとして。月華は血塗られた道を永遠に歩み続けることになるのだろうか。どちらにしても、その先に安らぎはない。


「わらわに、一体何ができるというの? わらわが、本当に望むことは、いったいなに?」


 その時だった。

 扉が、凄まじい音と共に乱暴に蹴破られるように開け放たれた。

 「ひぃっ!?」と、乳母が甲高い悲鳴を上げて飛び上がり、ぎゅっと本能的に瑛麗を庇おうとする。こんな状況だ、落ちぶれた妃などどう扱われるかわからない。


 荒い息を切らし、返り血で汚れた鎧を纏い、玉瑛宮へと押し入ってきたのは……額に玉の汗を滲ませた、暁勇将軍であった。抜き身の剣を手に、鬼気迫る表情で立っている。


「瑛麗様、ご無事でございましたか! この城は、もはや無法の賊徒が跋扈する危険な場所です。某が、この命に代えても必ずやお守りいたしますゆえ、どうか、こちらへ!」


 暁勇は、有無を言わさぬ切迫した口調でそう言うと、瑛麗の細い手を取り、一刻も早く安全な場所へと脱出しようとする。その腕は力強く、炎に照らされた横顔は、この状況下でも頼もしい。

 かつての瑛麗であれば、全てを委ね従っていたかもしれない。しかし、瑛麗の心は、もはや別の、ただ一つの場所にあった。


「お待ちなさい、暁勇。あなたの忠義には感謝しましょう。けれど、わらわは行かなければならない場所があるのよ、この手を離しなさい」


 自分にこんな声が出せたのか。瑛麗自身、奇妙な驚きを以て、己の行動を俯瞰的に眺めていた。

 確固たる意志に満ちる態度に、暁勇は、はっと息を呑み、思わず手を引く動作を止めて、彼女を見つめ返してくる。


「瑛麗様……あなたは、まさか……月華殿の元へ行かれると、そう仰せになるのですか?」


 暁勇の、信じられないものを見るかのような問いかけに、瑛麗はゆっくりと、しかしはっきりと頷き返す。

 そこにいたのは、もはやただ庇護されるだけの、か弱く美しいだけの妃ではなかった。自らの過酷な運命を、自らの意志で選び取ろうとする、一人の気高き人間の強い魂が、そこには確かにあったのだ。



***



 一方、ついに王の間に辿り着いた月華。

 血と煙の匂い立ち込める中、深紅の礼装を悠然と纏った王が、凱旋将軍を迎えるかのように、あるいは断頭台に上る罪人を見下ろすかのように、玉座から兵たちを見下ろしていた。

 広間には、無数の近衛兵たちの骸が無残に転がり、磨き上げられた大理石の床や、壮麗な細工の柱は、おびただしい量の血と臓物で、禍々しく濡れていた。


「来たか、月華。随分と派手な狼煙を上げたものだな。だが、悪くない。余の最後を飾るには、なかなかどうして、相応しい舞台ではないか」


 嘲りも怒りも感じられない。ただ、絶対的な王者の余裕と、どこか芝居がかった歪んだ美意識だけがあった。


「陛下。今宵、わたくしが主催する最後の宴。あなたの治世は、ここで終わりを告げます。正義のためではありません、ただ滅ぼされた我が一族の怨念と共に」


 月華の声は、凛として響き渡った。その瞳には、もはや一切の迷いはない。


「フン。小娘が、大きく出たものだ。だが、その眼……気に入ったぞ。かつて、お前の国の者どもを滅ぼした時、余に向けられたあの憎悪と絶望の炎と同じくらい、美しい狂気を宿しているではないか」

「やはり、お気づきでいらっしゃいましたか。本当に、食えない御方ですね、陛下は」

「面白かったぞ。亡国の姫が余に必死に媚びいる姿はな」


 月華は自嘲するように、ふっと息を漏らした。それからキッと力を込めて睨みつける。母や姉妹たちを殺した憎き男を。


「――抜かせ。それも今夜までだ」


 景宗は意にも介さず、玉座から立ち上がると外套を肩から脱ぎ捨てた。


「よいか、小娘。王とは生まれながらに理不尽であり、故にこそ恐れられるべき存在なのだ。そして、頭上に反逆の剣が落とされる日を待つ者。覚えておけ。この余を裏切った者には、どのような結末が待っているかをな」

「さぞ、その玉座は座り心地が悪かったことでしょう。せいぜい埋葬先が温かいことを祈れ」

「ハッ、かかってこい、傾国の姫よ! この余の最後に相応しい立ち回りを見せて見よ!」


 王は不敵に笑うと、玉座の傍らにこれ見よがしに立てかけてあった、黄金と宝石で見事に装飾の施された長剣を、軽々と抜き放った。

 それは、決して単なる飾り物などではなく、幾多の戦場を潜り抜けてきたであろう、紛れもない実戦用の業物であった。


 激しい剣戟が、玉座の間を震わせる。月華の振るう剣は、その身に宿した全ての復讐の憎悪を込めて、美しくも死をも恐れぬ捨て身の覚悟に満ちて、王へと襲いかかる。


「死ぬことなど、怖くはないっ! 『月華わたくし』は貴様さえ殺せればっ!」


 対する王の剣は、長年の経験に裏打ちされた絶対的な自信と、傲慢ともいえる美意識に彩られている。一進一退の攻防。火花が散り、鋼と鋼が擦れ合う。

 剣が虚空を裂く鋭い風切り音が、この死闘の凄まじさを、言葉以上に物語っていた。


「軽いなァ、貴様の剣とやらは。死の覚悟と一族の怨念の重みがこの程度か?」


 しかし、膂力と体格で勝る王との、真っ向からの剣での戦いは、明らかに月華に不利。

 月華を援護しようと駆け寄る兵たちが、次々と剣や槍を振るって王に襲い掛かるも、王の老練な剣技の前には赤子同然であり、無残にも血と肉塊をあたりにぶちまけ、倒れていく。



 そこへ、息を切らし、髪を振り乱した瑛麗が、暁勇を半ば強引に引きずるようにして、血の海と化した玉座の間に駆けつけた。乳母も、必死の形相でその後に続く。


「月華っ! もうおやめなさい! これ以上の血を流しては駄目っ!」


 瑛麗の魂の底からの、悲痛なまでの叫びだった。その切実な声に、鬼神のように剣を振るっていた月華の動きが、ほんの一瞬だけ、確かに止まった。

 愛しい人の、その悲痛な叫びは、月華にとって、どのような状況下であろうとも、抗うことのできない絶対的なものだったのだ。


「瑛麗……様……?」


 しかし、その刹那の躊躇を、歴戦の王が見逃すはずがなかった。


「―――甘いぞ、小娘ェッ!!」


 王の長剣が血を求める雄叫びと共に、がら空きとなった月華の華奢な肩口めがけて、容赦なく振り下ろされた―――!

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