血飛沫が宙に舞う。月華は、か細い悲鳴と共に膝から崩れ落ち、その美しい藤色の衣は、みるみるうちに赤黒く染まっていく。
意識が遠のきそうになるなか、月華の瞳は、ただ一点、愛しい人の姿を追い求めていた。
「月華っ!!」
瑛麗は、まるで心臓を直接抉り取られたかのような激痛に襲われ、考えるよりも先に体が動いていた。
月華と王の間に、細い身を滑り込ませる。広げた両腕はか弱く震えていたが、その瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。
「おやめください、陛下っ! もう、それ以上はっ! 月華を……殺さないでくださいませっ!」
魂を絞り出すような、悲痛な叫びだった。
王は、振り上げた剣を、瑛麗の白い喉元すれすれでぴたりと止めた。猛禽類の眼に、驚愕がよぎり、すぐにそれは底冷えのするような、ねっとりとした愉悦へと変わる。
「ほう、面白い。そち自らが、その反逆者の盾となると申すか、瑛麗。初めてだな、余の意に逆らうとは」
そして、王は傷つき倒れる月華を、値踏みするような視線で見下ろしながら、囁くように言った。
「だが、よく考えるがよい、瑛麗。そこの娘、月華は虫の息だ。もはや助かるまい? ではアレが死ねば、誰がこの余の心を慰める? そう、お前だ、瑛麗。再び、この国の筆頭の妃として、寵愛を一身に受けることができるのだぞ。渇望した、あの輝かしい日々がまたお前のものとなる。簡単なことだ。ただ、この哀れな女を見捨てさえすれば、な」
脳裏に、かつての栄華が、走馬灯のように駆け巡る。人々が自分を羨望の眼差しで見つめ、王が自分だけを見つめてくれていた、あの甘美な日々。
確かに瑛麗は願い続けていた。元に戻ることが出来れば、と。
しかし、今の瑛麗の心を満たし続けているのは、そんな過去の栄光への執着ではなく、別の、もっと強烈で、もっと純粋な感情だった。
「陛下…わらわはそのような戯言、もうお聞きしとうございません」
瑛麗は、きっぱりと言い放った。震えていながらも澄んだ声。
「ほう、戯言、とな? 余の寵愛が、か?」
王の眉が、面白そうにぴくりと動く。そして、苦痛に呻く月華を一瞥すると、まるで全てを見通したかのように、歪んだ笑みを浮かべた。
間違いなく、死に掛けの小娘の眼に、強烈な殺意が再燃している。理由は明白だ。
「なるほどな……この小娘、よほどお前に執心と見える。死に体の今でさえ、その目は、お前ばかりを追っているではないか。哀れなものよなァ」
そして、王は蛇が獲物に絡みつくように、じわりじわりと瑛麗の心を絞めつけて来る。
「ならば、こうしよう。余の元へ来い、瑛麗。今、ここで、余と再び愛を交わすのだ。そちが余の女であることを、小娘の前ではっきりと示せ。さすれば、この哀れな命、助けてやらんこともない」
王の間を満たしていた戦の
(月華の命を、助けてやる? ただ、わらわが、王の元へ行けば?)
瑛麗は、ぎこちなく月華の方を振り返った。
血の海に倒れ伏し、荒い息を繰り返す月華。確かに、瞳は瑛麗を捉えていた。そこには絶望と懇願。
「行かないでくれ」と瞳が、魂が、叫んでいるのが聞こえた。
(そうだ、わらわは……王の妃。この金色の鳥籠で生きることを教え込まれ、それ以外の生き方を知らない女。月華、あなたの想いの深さに気づくのが、あまりにも遅すぎたのかもしれない)
月華が、どれほど想ってくれていたとしても、応えることなど許されるはずがないのだ。
瑛麗は、深く、深く息を吸い込んだ。最後の空気を胸いっぱいに吸い込むかのように。
そして、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、王の方へと歩みを進める。
背中を、月華の焼き付くように見つめていた。瞳の光が徐々に弱まり絶望に染まっていく。
「陛下……。あなた様より大切なものなど、この瑛麗にはございませぬ」
諦念がそこにあった。長年の生き方を今さら変えることなどできない、という。
瑛麗は、倒れている月華に向かって、絞り出すように告げた。自分自身に言い聞かせるように。
「月華、ごめんなさいね。わらわは……他の生き方を知らないのよ。あなたのようにはなれないの」
月華の美しい顔が大きく歪む。瞳から、大粒の涙がはらりと零れ落ち、無情にも血に濡れた床に吸い込まれていく。
信じていたものに裏切られた、純粋な魂の慟哭が、声にならない叫びとなって玉座の間に響き渡るようだった。
王は、満足げに喉を鳴らし、瑛麗の細い腰を抱き寄せた。
「それでよい、瑛麗。お前は、やはり賢い女だ」
そして、衆人環視のなか、王は瑛麗の唇を貪るように奪った。
それは勝利を確信した王の、傲慢で支配的な口づけだった。されるがままに、目を閉じた瑛麗。
月華は、その光景を、ただ、なすすべもなく見つめているしかなかった。愛した人が、自分の命と引き換えに、再び仇の腕の中に堕ちていくのを。
月華の心の中で、何かが音を立てて砕け散る。もう、何もかも、どうでも……。
――だが
「ぐふゥッ!? 瑛……麗……き、キサマッ!?」
「陛下……あなた様は、わたくしのすべてでしたわ」
囁く声は、どこまでも甘く、そして。
「――だから、あなた様のいない世界など、わたくしには考えられなかったのです!」
瑛麗は、渾身の力を込めて、その短刀を王の胸元深くへと突き立てていた。全ては一瞬の出来事だった。
そこに駆けつける暁勇は、剣を抜いてなだれ込む。
王は裏切り者を決して許しはしない。例え、己が死したとしても。