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第15話 エピローグ ~ 守られた約束、語られぬ歴史

 景宗は、信じられないものを見るかのように目を見開き、己の胸に深々と突き刺さる短刀と、それを握る瑛麗の顔を、交互に見つめた。


 ごぼり、と赤黒い血が口から溢れ、傲慢なまでの威厳に満ちた顔が、苦痛と驚愕、そして理解不能なものへの畏怖のような色に歪んでいく。


「瑛……麗……貴様……この、余を……? なぜ、だ?」


 それでもなお、瀕死の景宗は刃を振り下ろそうとした。瑛麗なる反逆者を誅さんがために。

 だが、暁勇が一撃を防ぐと、返す刃で斬り捨てた。


「主君よ、我が誓いのために! ご免ッ!」


 骨を断つ一閃。王は、よろめきながら数歩後ずさり、背後の玉座に崩れるように座り込んだ。その手は、震えながらも、なお瑛麗を指差している。


「……不可解、だ。余は、そち、を」


 しかし、指先にもはや力はなく、だらりと垂れ下がった。黄金の装飾が施された豪勢な玉座は、今や冷たい死の寝床と成り果てた。


 絶対的な権力者であった王の、あまりにも呆気ない。しかし、劇的な最期だった。

 残されたのは、血の匂いと、死の沈黙、そして呆然と立ち尽くす者たちの、荒い息遣いだけ。


 最初に動いたのは、暁勇だった。

 彼は、王の亡骸と、傍らで震えながらも短刀を握りしめている瑛麗、倒れたまま息も絶え絶えの月華を、厳しくもどこか深い悲しみを湛えた瞳で見つめていた。


「瑛麗様……あなたは……なんと、いうことを……」


 絞り出すような暁勇の声に、瑛麗はゆっくりと顔を上げた。蒼白で、血の気は失せていたが、瞳だけは異様なほどに爛々としていた。


「わらわは……王の妃。最後まで、王の女として生きると、そう決めたのです。そして……」


 瑛麗は、ふらつきながらも月華の方へ歩み寄ろうとする。その足元は覚束ない。


「……月華っ!」


 生き残っていた反乱軍の兵士たちが、混乱のままに、瑛麗に襲い掛かろうとした。彼らにとって、月華こそが希望の光であり、瑛麗は主君を裏切った憎き女に見えたのだ。


「おやめなさい! 瑛麗様は、月華様をっ!」


 乳母が必死に叫ぶが、狂乱した兵士たちには届かない。

 その時、血の海に倒れていた月華が、最後の力を振り絞るように、凛とした声を発した。


「待ちなさい。瑛麗様は……悪くない。全ては……この、わたくしの……愚かさが招いたこと……」


 月華は、霞む視界の中で、必死に瑛麗の姿を捉えようとしていた。

 瞳には、もはや憎悪も絶望もなく、ただ深い、深い愛情だけが揺らめいていた。


「瑛麗……様……なぜ……こんな、馬鹿な真似を……」


 瑛麗は、その隙に月華の傍らに崩れるように膝をつき、血に濡れた冷たい手を握りしめた。


「月華……ごめんなさい。わらわは…あなたを、守りたかった。ただ……それだけだったの」

「あなた様らしい、わ。でも……わたくしは、あなた様を、こんな、血塗られた道に、引きずり込みたくなど、なかったのに……ごふっ、はぁはぁ」


 月華の唇から、か細い血の泡がこぼれる。


「約束……したのに。あなた様が、全部、くださると、言ってくださった。なのに……この様では、合わせる顔が、ございません」

「いいのよ、月華。もう、何も言わなくていい。わらわは……わらわは、あなたの想いを、確かに受け取ったわ。だから」


 瑛麗の頬を、熱い涙が止めどなく伝う。月華の冷たくなっていく手の上に、ぽたぽたと雫が落ちた。

 月華は、最期の力を振り絞って、瑛麗の手にそっと触れ返そうとする。しかし、その指はもはや僅かに震えることしかできない。

 それでも月華は微笑んでいた。それは、かつて瑛麗が助けた幼い少女が浮かべた、純粋で無垢な微笑みによく似ていた。


「瑛麗様……あなた様だけは……どうか、お幸せに。それが……『わたし』の最後の……願い……」


 その言葉を最後に、月華の瞳からゆっくりと光が失われていった。

 美しい顔は安らかで、まるで長い眠りについたかのようだった。

 『傾国の姫』と歴史にその名を刻むことになる娘は、愛する人の腕の中で、静かに息を引き取った。

 後に残されたのは、瑛麗の慟哭と、言葉を失った暁勇、そして、新たな時代の幕開けを告げるかのような、静寂だった。



***



 玉座の間を深紅に染めた壮絶な一夜は、歴史の大きな転換点として、後の世に語り継がれることとなる。


 公式な史料によれば、こう記されている。


 ――傾国の姫、月華は、その妖艶なる美貌と巧妙なる策略をもって王・景宗を惑わし、国家転覆を画策。

 多くの忠臣を殺戮し、王宮を戦火に陥れた。最後は、勇敢なる将軍・暁勇と、最後まで王に忠誠を誓った妃・瑛麗らの活躍により鎮圧され、月華は王・景宗もろとも、その玉座の間にて果てた、と。


 歴史は、常に勝者によって紡がれる。


 月華が王にとどめを刺したのか、あるいは別の誰かであったのか。その場にいたごく一部の者を除き、真実を知る者はいない。

 ただ、「反逆者・月華、王を弑す」という筋書きこそが、最も国を早く安定させ、新たな秩序を築くために必要とされた「正史」であった。


 この未曾有の国難を収拾し、民の圧倒的な支持を得て、新たな華陽国の統治者となったのは、若き将軍・暁勇であった。


 彼は、王都の混乱を軍によって治めると、血に染まった王宮を浄化し、腐敗した貴族を一掃。

 公平無私な政治を心掛け、戦乱で疲弊した民の生活を立て直すことに全力を注いだ。その辣腕と清廉潔白な人柄は、まさに理想の為政者として、長く称えられることとなる。


 そして、新たな王となった暁勇は、先王・景宗の妃であった瑛麗を、正妃として迎えることを宣言した。

 表向きは、先王への忠誠を貫き、最後まで王宮の秩序を守ろうとした彼女の気高い精神を称えて、ということになっていた。

 また、前王朝との連続性を示し、貴族たちの反発を抑えるための政略的な意味合いも大きいと、のちの歴史家たちには分析されている。


 しかし、暁勇の胸の内にあったのは、それだけではなかった。

 それは月華の養父への想い、そして月華本人の望み。心で交わした、ある『約束』を果たすため。


「瑛麗様を、どうかお救いいただきたく……」


 あの夜、月華が彼に託した最後の願い。それを、暁勇は己の生涯をかけて守り抜くと、固く誓っていたのだ。


 盛大な祝賀の儀の中、王妃の装束に身を包んだ瑛麗の表情は、どこか遠くを見つめているかのように、静謐で、感情を読み取ることは難しかった。


 瑛麗の心には、生涯消えることのない月華の面影と、あの血塗られた記憶が、深く刻み込まれている。


 瑛麗は、暁勇の隣に立ち、国の母として微笑む。

 微笑みの裏に、どれほどの涙と諦念が隠されているのかを知る者は、暁勇ただ一人であったかもしれない。


 二人の間に、熱烈な愛が交わされることはなかった。

 しかし、そこには、乱を生き延び、互いの深い傷を知る者同士だけが理解し合える、寂静ながらも鋼のように強い絆が存在した。


 暁勇は、生涯をかけて瑛麗を守り、慈しんだ。それは、彼なりの『愛』の形であり、そして何よりも、今は亡き月華との『守られた約束』の証であった。


 玉瑛宮の奥深く、瑛麗の私室の片隅には、いつの頃からか、小さな翡翠の雫の耳飾りが、ひっそりと飾られるようになったという。

 それは、誰に知られることもなく、ただ静かに、偽りの歴史の裏で葬られた真実の愛と、悲しき運命に翻弄された二人の女性の魂を、慰めるかのように輝き続けていた。

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