「うわああああああああああん!! 伯母上えええええ!!」
幼い姫が
普通良家の姫は走ったりはしない。
しずしずと袴の裾を踏みながら、ゆったりゆったりと歩むものだ。
袴の裾を絡げて足音を立てるだなんて、とんでも無いお転婆である。
だが
「よしおいで、
両腕を広げて待ち受ければ、熱っぽい小さな塊が飛び込んでくる。
ぐしゃぐしゃに泣いた顔を上げて大姫、
「いなくならないでくださいまし!!」
鼻水を拭いてあげれば、あとからあとから大粒の涙がこぼれ落ちてくる。
「なぜお邸から出られるのです?! 婿君がお通いになればよろしゅうございます!! 伯母上をつれて行くなんて、なんて………!!」
虹霓国において、貴族は一般的には通い婚だが、流石に正妻となれば夫と同居が通常のことである。
例外もあるが。
「落ち着きなさい。大姫、貴方は月白当主の
花影は
通常、家のことは正妻が取り仕切る。
だが万朶の妻、花影と槐の母は深窓の令嬢らしく随分とおっとりしていた。
万朶も奥方の前ではなんでも頷く骨抜きっぷりで。
これは自分がしっかりしなくてはと、幼い花影が奮起するくらいには、のんびり穏やかなお花畑夫婦であった。
「伯母上がいらっしゃらなくなったら、この家はどうなってしまうのですか。月白家はかたむいてしまいます」
あまりの台詞に花影は思い切り苦笑した。
「槐の立場無いわよそれ」
「父上は少々たよりのうございますゆえ」
「貴方の母上がその分しっかりしてるから大丈夫よ。貴方も居るし。あれで槐も父上、お祖父様ににて無いことも無いし。立派に左中弁してるみたいよ」
「おじいさまも父上も、らつわんではありますが伯母上が叱咤しなければ、あちこち
否定はしない。
いちいち一言多い男たちを思い、花影は苦笑しつつも頷いた。
唇を尖らせる幼い姫の頭をぐりぐりと撫でる。
愛しい姪っ子。可愛い可愛い大姫。
子が無い花影は自分の子の様に、それ以上に愛情を注いでいた。
「我が姪ながら慧眼。偉いわ大姫。その調子でこの家を牛耳りなさい」
「いやです! 伯母上が居なくなるなんていや! ずっとお傍に置いてくださいまし! 毎日いろんなお話をしてくださいまし!」
「大姫も自分で御本を読めるようになりなさい。私の語ることはすべて、本に書かれていたことよ。私が居なくなっても、本があれば何も欠けないわ」
言いながら、大部分の書籍は自分と共に菖蒲邸に移ることを思い出した。
「漢文をすらすら読める女人など、伯母上の他にはおりませんし、伯母上ほどおはなしが上手な方もおりません!」
「いやいやいや、意外と居るって。宮仕えの女官たちとか。きっと大姫も漢文すらすら読めるようになるわよ」
「わたくしはまだ、仮名文字のいろはすらあやういのでございますよ」
「努力なさい。何遍も練習して、繰り返してくりかえして。そらで言えるくらいになりなさい。私はそうした」
それがたとえ世に後ろ指さされるようなことだとしても、花影は貫いた。
世の中の書物を男だけが独占するなど許せるものか。
読みたい。知りたい。もっとずっと多くを。
そしてそれは花影の
例えば父と弟の政治談議にまざろうとも、決して見劣りするものではない。
まあ、月白の家の中でだけの、小さな秘密の楽園であったわけだけれど。
そう。此処だけ。狭い世界の中でだけ。
花影が自由に振舞えるのは、この月白の邸の中だけ。
菖蒲での自由を
うっかり目の前の餌に目が眩んで頷いたが、早計だったかもしれない。
いや、明らかに考えが足りなかった。
だがしかし、菖蒲家秘蔵の書物が読めるのだから、十分な益ではある。
釣りがくるほどだ。
怯むな。怖じるな。
いついかなる時も顔を上げて。
自身に言い聞かせるように花影は大姫を抱き締める。
温かい。
子供の体温は、触れているだけで愛しさが溢れ出てくる。止め処なく。
ふわり、と清しい香りが悶々とする花影の意識を現実に引き戻した。
鈴を鳴らすような美しい声。
「そうですよ大姫」
静々と槐の妻、この邸の本来の主が現れる。
「義姉上、お騒がせを致しまして」
頭を下げる義妹に、花影はひらひらと袖を振ってみせる。
「母上も伯母上を止めてくださいまし!」
花影にしがみついたままの娘に、義妹、
「そうは参りませんよ、大姫。伯母上は大事なお役目を果たすために、菖蒲に嫁がれるのです」
「大事なお役目……?」
「国家の安寧が掛かっているのです」
それは少々大仰だが、菖蒲家当主の妻の座を狙う不穏な動きは活発であるし、菖蒲家の動き一つでこの
「今まで出しゃばってて悪かったわね、
薄氷はきりりと居住まいを正し、両手をついた。
「義姉上には遠く及びませぬが、身命を賭して」
最上の敬意を込めて頭を下げる。
「いや、大袈裟だわ。ていうか貴方が言うと洒落にならないわ。適当に。ほどほどに頼むわ」
薄氷は花影をみつめ、そっと困った様に微笑んだ。
「殿方はわかっておられませんのよ。義姉上が、今日までどれだけ、この月白家を支えておられたのかを。わたくしも、勿論全力を尽くすつもりでございますれど、果たしてどれほどのことができるやら」
花影は照れて、ぞんざいな仕草で頭を掻く。
「いやあ、ただのご意見番だし。割と適当にあれこれ言ってたし」
花影は薄氷の手を取り、そっと握った。
「家の差配はすべて、貴方の良いと思ったように。頑張ってね。一応引き継ぎ手引書作っといたけど」
当主の正妻は内向きの最高権力者だが、主だったことは家司や女房長がやってくれる。
最終決定と責任を負うのが役目だ。
とはいえ人間関係の仔細は知る限り記しておいた。
槐や万朶と付き合いのある貴族たちの好みやらなにやらも、把握していている限り事細かに。
「恐れ入ります。百人力ですわ」
「家司のキチコウも女房長のアワギも心得てる。必ず力になってくれるわ」
すんすんと鼻を鳴らしながら大姫が振り仰ぐ。
「どうしても、だめなのですね?」
「ごめんね。でも大姫、覚えておいて。別れはいつか必ず来るものよ。遅いか早いかはわからない。けれど、誰にでも訪れる。だから」
姪の頬を両手で挟んで、花影は涙で潤んだ大きな瞳を覗き込んだ。
「後悔しないように。毎日を生きましょう。好きな人には好きと伝えて。大切なものは大切にして。欲しいものがあれば、手を伸ばしなさい。余計なものに
大姫はまだよくわからないといった表情で、けれど真剣に頷いた。
「はい。伯母上の仰せの通りに」
次に会う時、どんな少女になっているだろう。
次はいつ、会えるだろう。
「どうか貴方たちの未来が幸いに満ちて居ますよう。龍神様のご加護があらんことを」