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第5話 菖蒲の次期当主

 あまり焦らせるのも申し訳ないからと、花影はなかげは輿入れ早々に菖蒲家の図書殿ずしょどのへ入ることを許された。


 して三日。

 わずか三日で願いが叶うとは…!


 花影は鼻息荒く拳を固める。

 案内の女房はすました表情を保ってはいたが、付き従うシヲンは思わず眉間を抑えた。


 はしたない。


 いや、今に始まったことではないし、何よりも書物を好む方であるのは昔から変わらないのではあるけれど。

 それでも苦言を呈したくなる程度には、花影は舞い上がっていた。


「此方に御座います」


 控えていた雑色が塗籠ぬりごめの扉を開くと、中には宝の山があった。

 所狭しと並べられた厨子ずしと、重ねて置かれている冊子そうしの箱が幾つも。

 それに入り切らずに置かれているだろう冊子に巻子かんすの山、山、山。


「ふわあ…」


 思わず漏れた感嘆の声。

 花影の眼は爛々ときらめき、頬は上気し息は荒い。


「姫、じゃなかった奥方様落ち着いて」


 シヲンの声も耳には届かない。

 コホンと一つ咳払いをし、案内の女房は花影に頭を下げる。


「では、奥方様。どうぞご自由にご覧くださいませ。お邪魔にならぬよう、わたくし共は下がれとの殿とのの仰せに御座います故、これにて御前を失礼させて頂きますが、何か御不自由がおありの際はお呼びくださいませ」


「自由に?! どれでも読んでいいの?!」


 喰いつかんばかりの勢いに若干圧されつつ、女房は頷いた。


「お望みのままに」


 奇声をあげそうになったが何とか堪え、花影は厨子に突進した。

 もはやたしなめもせず、シヲンも主に従う。


 こうなった花影に声は届かない。

 満足するまで放って置くしかない。



「あなたがあたらしい菖蒲の北の方ですか」


 花影を現実に引き戻したのは、幼い少年の声だった。


 気付けば灯が消えそうで。

 そういえば先程、シヲンが油を持って参りますなどと言って下がった気がする。


 二、三度目を瞬き、花影は目の前の少年を見つめる。

 姪の大姫おおひめと変わらぬ年頃だろうか。

 もう少し下だろうか。


「もしや貴方が藤波ふじなみ殿でいらっしゃいます?」


 少年は目をみはり、頷く。


「よくおわかりになりましたね」


「此処は菖蒲の図書殿。おいそれと訪れてよい場所では御座いませぬ故、童が迷い込むこともありませんでしょう。それにほら、お召し物のお色」


 鮮やかな青紫の童水干わらわすいかんに、生成きなりの括り袴。

 仕立ての良い立派な装束を見れば、菖蒲の家の若君だと知れよう。


 少年、藤波は幼い顔をきりりと引き締めて頭を下げる。


「お初にお目にかかります。菖蒲家の藤波と申します」


「ご挨拶が遅れました。この度、月白つきしろより嫁して参りました花影と申します。どうぞよしなに」


 藤波はおずおずと懐紙ふところがみに包んだ菓子を差し出した。


「朝からおこもりと聞きました。おなかがおすきでしょうから」


「まあ、ありがとうございます」


 花影は菓子を受け取ると、そのまま手の上に置いたままにこにこと藤波を見ている。


「毒など、入っておりませんよ」


 花影は苦笑する。


「疑ってなどおりませんよ。ただ、ここで食すとなると、大事な御本を汚してしまうかもしれないでしょう?」


「そこから出ておいでになりませんか? のどもかわいておられると思うのです。白湯など、用意させますので」


「お優しいのですね。では、少し休憩致しましょうか」


 外はとっぷりと日が暮れていた。少し集中し過ぎたかもしれない。

 確かに喉はからからだった。


「どうぞ」


 藤波が連れていたのだろう女房がそっと杯を差し出す。


「では頂きます」


 藤波は凝と花影を見詰めている。

 ごくごくと鳴る喉を、瞬きもせずに見据え、にこりと笑った。


「ほんとうにためらわないのですね、あなたは」


「はい?」


「ぼくが、あなたを害そうとしていたらどうするのです? 菓子に毒は入れていませんが、白湯には入れたかもしれないのですよ」


 花影は苦笑して杯を手の中で弄ぶ。


「まあ、理由はいくつかありますが。多少の毒なら舐めればわかりますし」


 え、と藤波が目を剥く。


「貴方が藤波殿であるのは間違いないでしょうし、ならば簡単に下手人のわかる風には私に毒など盛らぬでしょうし。我が実家の月白も、そこまで邪魔になる相手でも無いでしょう」


「ふうん。かんがえてるんだ、ちゃんと」


 藤波はがらりと口調を変えるとずい、と花影の傍に寄る。


「瓊花おじうえがえらんだお方というから、きょうみがあったんだ。思ったよりもおもしろい方だね、あなた」


「それはそれは」


「かんたんに足がつく方法でなければ、ぼくはあなたに毒をもるかもしれないと思っているということ?」


「可能性は低いでしょうけれど、まあ、無くは無いかもしれませんね。致命的ではなくとも、月白が力をつけるのは面白くないでしょう? 菖蒲の次期ご当主としては」


「ふうん」


「でも、ここで私が死んだ方が菖蒲にとって後々面倒ですよ。色々と」


 藤波は目を細めると子供らしからぬ顔で笑った。


「ぼくも気に入ったよ、奥方様。おじ上はいいしゅみをしておられる」


「それはそれは恐悦至極」


「それはともかく、菓子はたべないの? ぼくのすきなはちみつ入りのおいしいのを、わざわざもってきてあげたんだけど」


「いただきます。半分こしましょうか?」


「ぼくを鬼役おにやく(毒見役のこと)にするなんて、いいせいかくしてるよ、ほんとう」


 花影は今度こそ思い切り苦笑した。


「他意は無いんですけどね。お好きなんでしょう、これ」


「すき」


「ではどうぞ」


「ちょうだいします」


 菓子を半分に割り、二人同時に口にする。


「やっぱりすこしはうたがってた?」


「さあ、どうでしょうねえ」


 花影がにやりと笑ってやれば、藤波もにやりと笑った。


「おじ上の奥方様がおもしろい方でよかった。なかよくしようね、北の方様」


「花影で宜しゅうございますよ。菖蒲の舘で北の方は藤波殿のお母様の呼称でしょう」


 藤波は少し唇を尖らせる。


「でも、だいがわりしたから、瓊花おじうえが今の菖蒲の当主だし」


「慣れ親しんだ呼び名が変わるの、お嫌でしょう?」


「……………いやだけど、しかたない」


「ん-。叔父上の妻ですから、義叔母上と呼んでくださっても……いや、馴れ馴れしいか」


 藤波は暫く考えて、小首を傾げて花影を見上げた。


「花影おばうえ」


 心の臓を射抜かれるかと思うくらい可愛らしかった。


「ではそれで」


「うん。よろしくね」


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