「我が
まるで夢物語の姫君の様な可憐で美しい女性だが、気圧される。
眼を合わせるなど、恐れ多くてできる訳が無い。
王の従姉妹姫であり、国の内外に知られた美貌の持ち主でもある。
「
「は…」
恐る恐る顔をあげ、息を整え、花影はゆっくりと一つ瞬いた。
「ご挨拶が遅くなりまして、ご無礼致しました。月白より参りました、花影と申します。御方様に置かれましては、どうぞよしなに」
ぱちん、と扇が鳴る。
花影は見えない程度にではあるけれど、びくりと頬を引き攣らせた。
「何をそのように怯える。わたくしは何も
「は、申し訳…」
「謝罪はよい」
「は」
「大体、先日より其方が菖蒲の北の方。わたくしではない。心得られよ」
「畏れ入ります」
初霜はふん、と鼻息荒く頬杖をついた。
「其方もわたくしの色々な噂を耳にしておるのだろう。全く、若い頃は無茶もしたが、今のわたくしはただの隠居であるぞ。怯えずともよい…とは申せ、まあ、少々は仕方ないとは思う。旦那様との婚姻に際して色々やったのでな。若気の至りだ。恋に浮かれた可愛らしい
国中引っ繰り返るような騒ぎを起こした美貌の姫、初霜。
「其方には申し訳なくも思っておるのだ。わたくしたちの我儘に巻き込んだようなものであるしな」
「恐れ入ります。ですがその点お気遣いは無用に願います」
「うん?」
花影は胸を張り、顔を上げる。先程の様子とは打って変わって堂々と。
口元に笑み。目はきらきらと輝いている。
「私も私の益があり、嫁いで参りました。そして、その端緒は既に我が手の内に入りましてございます」
そう、
なんと有り難いことに今後は出入り自由だそうだ。
徹夜をしないこと。
休憩を挟み、倒れるまで集中しないことなど。
細かな注意はあるものの、生涯手に出来ぬと諦めていた宝の如き書物が、読み放題。
「もう、私は幸せで幸せで、なんと申し上げたら良いのでしょう、天にも昇る心持ち。龍神様に毎日毎晩感謝を捧げております」
「ああ、うん。書物狂いの御方とは聞き及んでおる」
若干引いた感じで、初霜が苦笑した。
「花影殿が苦渋の日々を送らざるを得ない状態でないのならば、良い」
「苦渋どころか天国です」
初霜が扇の先で少し頬を掻いた。
「
花影は少し眉を寄せる。
「私に不都合は無いのですが、あちらがどうかは存じません」
「自分の夫に興味は無い、か」
「はあ、まあ」
即答した花影に、初霜は思い切り苦笑した。
「貴族の娘と生まれたからには、家の手駒となるが必定。私もそのつもりでおりました」
意外な台詞だと言わんばかりの初霜の表情に、花影は少し睫毛を伏せた。
「勿論出来うる限りの抵抗は致しましたし、打てる手は全て打ちましたが、叶うとは思っておりませんでした。私が思っていたよりも、父は私に甘かったようですね。嫁した先が此処ならば上々。おまけに条件は願っても無い物でした」
「秘蔵文書の閲覧許可」
「はい。もう、なんと申し上げましたら良いのやら、あの様に貴重な品々を我が手に取り、存分に堪能できるだなんて、龍神様からのお恵みとしか思えぬ程。幸せな日々を送らせて頂いております」
「ご自分の部屋にいるよりも、図書殿に籠っておられる方が長いそうだが」
「左様でございましょうね」
「読み尽くしたら用は無いと、出て行かれそうだと瓊花がぼやいていた」
「約定破りは致しません。勿論、こちらの書物が私の一番の目的でございますが、我が実家、月白の命運も多少なりとも掛かっておりますれば、私の一存でどうこうするつもりは毛頭ございません。ご安心ください。それに」
花影は、少し冷めた笑みを唇に乗せた。
「あと十年も経てば、
「瓊花もわたくしも、其方を使い捨てる気は無いぞ」
「いいえ、契約は契約。割り切って参りましょう。藤波様が菖蒲の当主に座すまでの間、瓊花殿の北の方として他所に付け入られる隙を作らぬための盾、と心得ております」
花影は淀みなく、言葉を続ける。
「私が子を為さず、瓊花殿が他所に
そして、用済みとなった我が身は尼寺へ。
なんと
「花影殿、好いた殿御は居らなんだのか」
静かな初霜の問いに、花影は綺麗に微笑んだ。
「居りませぬ」
「そうか」
「はい」
花影は秘密を打ち明けるように、そっとそっと睫毛を伏せた。
優しい表情は、それこそ恋をしているような。
「私は書物を通して、世界に焦がれているのかもしれません」
宝物を見せるように、大事に大事に紡がれる言の葉。
「世界、或いは龍神様。この世を織り成す全てのこと。書物を通し、私はその一端に触れることができる。それが何よりも、幸せです」
他は全て些末なこと。
「という訳で初霜様」
「うん」
「貴方様の若き時代の武勇伝も、とても惹かれるものがございますので、もし宜しければお話し頂けたならと思うのですが」
「恋物語に興味は無かったのでは?」
「我が事となれば別ですが、恋物語は好きですよ。それこそ
「意外に俗っぽいものも嗜まれるのだな」
「はい。文字ならば何でも。ですが、流石に初霜様と楝様のことは噂話や人の日記程度のことしか存じませんので」
「………誰の日記に書いてあったと?」
「
「あの狸爺めのか。あれは、わたくしも幾らか目にしたことがある」
「やはり実際とは違ったものでございましたか?」
初霜は少女の様に頬を上気させ、ずいと花影に顔を寄せた。
「話し始めると長くなるが、聞かれるか?」
悪戯っ子の様に目を輝かせ、花影は頷いた。
「是非に」