その日、
「まだ
外はほんのりと白んでいる。
ぼんやりする頭で問い掛けても、瓊花はにこにこと支度を促す。
「寒く無いよう
「……………はあ?」
「見せたいものと、飲ませたいものがあるのですよ」
まだ頭は働かない。というか眠い。
「春は曙と申しますからね。ほら、掴まって」
ぼんやりしながら瓊花の首に手を回し、抱き着く。
寝ぼけていなければ、嫌味の一つや二つは浴びただろうし、そもそも瓊花に抱きかかえられてくれる花影ではないのだが。
「なるべく、揺らさぬように参りますので」
「はあ」
通い婚であれば、本来男君が身支度を整え帰る時間帯である。
いや、少し遅いか。
さて、それはさて置き。
花影と瓊花は一応同じ
夫婦ではあるが、まだ
別室で構わないのにと花影は思うのだが、瓊花が許さなかった。
花影には話して居ないのだが、警備上の問題でもある。
菖蒲邸は警備が厳重であることは間違いないが、それでも夜に紛れて訪れる、招かれざる客は多い。
そんなの月白邸でもそうだった、と花影なら一蹴するだろうけれど、あの頃とは立場が違うのだ。
危険は段違いに跳ね上がる。
菖蒲の北の方、という肩書はそれ程までに重い。
覚悟はしてきたと花影は言った。
だが甘い。
きっと花影は気付いていないが、既に五回は闇討ちの危機があった。
無論、花影に至る前に、警備の
未然に防がれたもの、瓊花への報告が上がる程度ではない襲撃も多い。
つまりは四六時中狙われているに等しいわけで。
まだ腕の中でうとうとしている花影に、瓊花は少し罪悪感を覚えた。
できるならば穢れに通じることはすべて、花影に触れる前に取り除きたい。知らないままで居てほしい。
きっと、聡い彼女に知られるのも時間の問題であろうけれど。
それまでは好きな書物に囲まれ、幸せ絶頂の無垢な姫君であってほしい。
「で、どちらまで?」
少しばかりしっかりとしてきた声に、瓊花は意識を引き戻された。
「釣殿へ」
「夜明けが美しいのですか?」
「格別ですとも」
一等夜明けが美しく見える釣殿へ。
そして日の出の他に
気に入ってくれるといいのだけれど。
「目も覚めてきました。歩けます」
「いいえ、足が冷たいでしょうから」
「重たいでしょう」
「それ程でも」
そういえば中将と言えば武官であったな、となんとなく思った。
きっと瓊花は弓馬の鍛錬も欠かさぬのであろう。
先程から花影を抱えた腕はびくともしない。
多少恥ずかしさはあるものの、一応夫婦であるのだし、と屁理屈を捏ね、自分を納得させる。
意識するとどんどん恥ずかしくなっていくので、思考はそこで止めた。
「着きましたよ」
畳と
「
「座り心地は茵の方が良いでしょう」
「わざわざ畳まで」
「だって、板敷に直に茵では硬いでしょう」
過保護、と花影は笑う。
瓊花はにこにこと花影の隣に腰を下ろす。
「お寒くは?」
「大丈夫」
「ほら、もうすぐです」
ゆっくりと、世界が色付いていく。
白から朱へ。
ゆっくりと紫に染まっていく雲がたなびいて。
空はじわりじわりと青みがかって。
この曖昧で不思議な色合いは、本当に美しい。
「これをお見せしたかったのです」
そっと瓊花が囁くと、花影はうっとりと目を細めた。
「言葉にするのは難しいほど、美しいですね」
そっと寄り添う瓊花に、逆らわず花影も凭れ掛かる。
仲睦まじい夫婦に見えるだろうか。
なんとなくそんなことを考えて。
もう少し余韻に浸っていたいけれど、と少し残念い思いながらも瓊花は手を打つ。
音も無く現れた女房達に何事か言い付け、瓊花はまた花影の頭に頬を寄せた。
「少しくっつきすぎでは?」
「人目があると、すぐに離れたがりますね」
少し唇を尖らせた瓊花に、花影はぴしゃりと言い放つ。
「人目があるからです」
「夫婦なのに」
「夫婦でもです」
やれやれと瓊花は名残惜し気に少しだけ身を離した。
少しだけ。
視線で咎めれば、風除けと言ってのける瓊花に花影もそれ以上は言い募らなかった。
やがて釣殿に運ばれて来たものに、花影は目を丸くする。
雑色らが抱えてきたのはどうやら持ち運びできる
「え、
「ふふ。貴方に差し上げたいものの為に、沸かし立ての湯が必要なのですよ」
「は? 湯? 白湯ではなく?」
意味が分からず困惑する花影を他所に、雑色らは竈らしきものを組み立て。
そう、釣殿の上に組み立てて。
続いて女房らが窯と水とを運んで来た。
「何するんです?」
「茶、というものをご存じですか」
「昨今、異国より渡来したとかいうものですね。ええ、名だけは」
「それを味わって頂こうと思って」
ぎょっとしたように花影は瓊花を仰ぎ見る。
物凄い高価な品の筈だ。
それこそ王族でなければおいそれと手が届かない、とまで考えて、そういえばここは菖蒲なのだと思い至る。
月白も上位貴族ではあるが、菖蒲はやはり別格なのだ。
「
さらりと出てくる王の名に、花影は溜め息を吐いた。
格の違うお坊ちゃま。
「では、ご覧になっていてください」
瓊花は袖を捲り、紐で括って。
「え、まさか手ずから?」
「他の者よりは上手ですよ。義姉上には負けますが」
窯で沸き立つ湯を
「
説明しながら、瓊花は手早く粉末を先程の銚子に加える。
「
杯では手を火傷するのだと言い、瓊花は香り立つ液体をそっと花影に差し出した。
「これが、茶……。良い
「清しいでしょう」
「ええ」
「ほんの少し、口に含んでみてください」
そうっと唇を寄せれば湯気が熱い。
ふうふうと息を吹きかけ、花影は一口含んだ。
目が丸くなる。
美味しい。
「なんとも、変わった味! でも爽やかで、なんというのでしょう、苦みもまた趣深い。表すのが難しいですね。美味しい」
「鼻に抜ける芳香がスッキリとしませんか?」
「ああ、わかります。目が覚めるよう……。まさかそれで?」
「そういう訳でも無いのですが、朝陽を眺めつつ飲むのは格別だろうと思いまして。貴方にも是非味わって頂きたかった」
素晴らしい景色。
素晴らしい飲物。
横に居るのは麗しい男君で我が夫。
「これはもう、完敗としか申せませんね」
満点である。
「よくわかりませんが、気に入ってくださったのなら良かった」
瓊花自身も茶を味わい、満足そうに目を細めた。
「うん。美味しい」
横目で瓊花を見遣り、朝陽に照らされる庭に視線を遣り、花影はうっとりと溜め息を吐く。
嫁いで良かった。
瓊花で良かった。
きっとこれを幸せというのだろうなと陽に目を細めつつ、花影はしみじみ感じ入った。
なんでもない。
けれど、特別な朝のこと。