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第9話 宴のはじまり

 扁桃アーモンドと桃の花が咲き乱れる菖蒲邸の庭は、夢の様に美しい。

 柳の緑がまた花を引き立てている。


 遣水やりみずに白と薄紅色の花弁が流れて行くのも趣深く、辿り着く先の池には竜頭鷁首りゅうとうげきしゅの船に楽人がくとの一団が、中島なかしまに設えられた舞台には舞人まいとの一団が、それぞれ本番に備えている。


 中島には幄舎あくしゃ(テント)も建てられ、その下には床子しょうじ(ベンチ)が設えられてある上、しとねも用意されている。


 兀子ごっし(背もたれの無い椅子)に大傘が差されている席もあった。


 その中島では、シヲンがあれこれやかましく指示を飛ばし、家人を使い雑色を走らせ、最後の仕上げに掛かっている。


 女房装束でバッチリきめているのに、なぜそんなにも軽やかに動けるのか不思議なほどだ。

 女房装束は結構重い。


「早くなさい。貴い方々がお着きになってしまうではないの!」


「ですがシヲン様、先程からなさっているのは……床子の位置の調整ばかりでは?」


「扁桃を愛でるのに一番の角度を探っているのよ」


「――はあ、どこも美しいと存じますが」


「当然でしょう。菖蒲のお庭よ。その中でも特別に美しい位置をですね」


「はあ」


 花影が苦笑交じりに歩いて来た。


「シヲン、その辺になさい。右往左往しているだけに見えるわよ」


「姫様、じゃない、奥方様! まだお出ましになるのは早うございます! お支度に戻られませ」


「準備できてる。後は琴を持って来ればいいだけよ」


 花影は菖蒲の北の方らしく小袿を羽織り、かさねは紫の薄様。

 裾を女童めのわらわたちが掲げているが、緋色の袴は自分で持ち上げ、足が見えている。


「おみ足!」


「堅いこと言わない。裾引き摺るのが好きじゃないのは知ってるでしょう」


「私がお抱え申し上げると言ったのだけどね」


 花影の後ろからひょいと瓊花けいかが顔を覗かせ、花影はばつが悪そうに肩を竦めた。

 瓊花は菖蒲当主の濃紫の直衣が、たとえようも無く似合っている。


「恥ずかしいからお止めくださいとお願いしたの」


「おみ足を衆目に晒す方が恥にございます!」


「大丈夫。誰も見てない見てない」


 シヲンと瓊花は顔を見合わせ、揃って溜め息を吐いた。


「そろそろえんじゅたちが着く頃じゃないかしら。シヲンはそちらの案内に移りなさい。ここはもういいから。完璧。素晴らしいわ。はい。終了。いってらっしゃい」


 有無を言わせぬ笑顔に、シヲンは再び溜め息を吐いて頭を垂れた。


「御前を失礼致します」


 瓊花は花影を茵に座らせ、甲斐甲斐しく裾を整えてやる。


「お止めくださいな。恥ずかしい」


「良いではないですか。夫婦が仲睦まじくて何の悪いことがありましょう」


 にこやかな瓊花に、花影は頬を染めると袖で顔を隠してしまった。

 使用人たちはその様子をこっそりと横目で見、微笑まし気に口元を緩ませる。


 悪名高い月白の姫が輿入れと聞いた時には、どんな恐ろし気な姫君が嫁してくるのかと、皆戦々恐々としていたのだが。

 現れたのは型破りながらも美しく、また面白い女性だった。


 破天荒な北の方を、菖蒲家の使用人たちは割と好意的に受け入れている。

 何しろ前菖蒲当主の北の方である初霜の方が、花影よりも、もっと色々ととんでもなかったので、耐性ができていたのもある。


「さて、花影殿。心の準備はできましたか?」


「ここに座し、流石に肚も据わりました。見事に務めて御覧に入れます」


 眼光凄まじい妻の形相に、瓊花は少し顔を引き攣らせた。


「そんなに覚悟をめる程のものではないのですが」


 袖の影から鋭い視線が飛んできて瓊花を貫く。


「一世一代の覚悟をお見せします。ええ、菖蒲当主の北の方たるに相応しい対応をしてみせましょう」


「もっとこう、にこやかに」


「もともとこういう顔です」


「いやいや、普段はもっとお可愛らしいではないですか。ほら、笑って」


「余裕が御座いませぬ故」


 ころころと鈴の様な笑い声が響く。


「なんじゃ、花影殿ご機嫌斜めか」


 初霜はつしもが輿に乗って到着する。


「義姉上様」


 初霜は、王族にしか許されない翡翠のかさねの小袿を見事に羽織り、目を瞠るほどに神々しくまばゆい。


「楽しみであるのう」


 車宿りの方がにわかに騒がしくなった。


「そろそろおいでになられたか」


 花影はぐっと眉間に皺を寄せる。


「正念場です」


「いやだから花影殿、気楽に」


「もともとこういう顔です」


「嘘おっしゃい」



「さて皆様、本日はようこそおいでくださいました。束の間ではございますが、楽しんで頂けましたなら光栄にございます」


 凛と背筋を伸ばした花影が堂々と宴の開始を告げる。


「姉上、なんか凛々しくなった?」


「――ええ、覇気が違いますわね」


 花影の弟の槐とその妻、薄氷うすらひはこそこそと囁き交わす。

 月白当主の白の直衣からうっすらと緋色の透ける匂いやかな衣装の槐と、揃いの桜のかさねの薄氷。


 隣の床子には蘇芳家の当主夫婦。

 その隣に縹家の当主夫婦。


 蔵人の芙蓉ふようは兀子に座している。


 他に何やらの権大納言だとか、何某の少将だとか紹介されたが、正直覚えきれない。


 式の進行だけで手一杯な花影は、それでも表情には一つも出さずに完璧な微笑を浮かべている。

 瓊花だけがその手の震えに気付いた。


 挨拶が終わり、舞が始まって。

 ふうと一つ息を零した花影の指先を、瓊花はそっと握る。


 一瞬びくりと肩を震わせたものの、花影は前を見たまま、その手をきゅっと握り返した。


 握り返されると思っていなかったので、瓊花の方が一瞬挙動不審になりかけた。

 だが、腐っても菖蒲家当主。

 何食わぬ顔で瞬いて誤魔化す。


 笛の音が高く響き、舞人が袖を翻し。

 風に花弁がひらひらと散る。


 次の花影の琴の演奏の直前まで、手を繋いでいたい瓊花だった。


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